第二十一話「炉心融解」

                

                ◇


 月曜日の朝。曇天の空の下、にわかに重い足取りで俺は校門を潜った。


『身を引いてくれないかしら。ヴィクトリカの未来のために』


 昨夜、真行寺さんに言われた言葉が耳にへばりついて離れない。

 ヴィクトリカが音無さんを取り戻したがっている――それ自体に特に驚きはなかった。むしろずっと覚悟していた事ではある。問題は、その後。


『あの人は貴方に恩を感じている。だから貴方の側にいるのよ』


 本当かどうかなんて分からない。

 真行寺さんの性格と目的を考えれば、俺を揺さぶる為の出まかせかもしれない。

 しかし、決して無視していい問題じゃないのも事実だった。


 音無さんが、俺達のバンドに付き合っている理由。

 ロックスタディに入る事になった、決定的な要因。


 それは――


 今にして考えると、行き過ぎた過ちだったのではないかと思う。

 直前のやり取りはともかく、アレだけは完全に俺のエゴだったからだ。

 俺のあの余計な一言さえなければ、音無さんは自然とヴィクトリカに戻る流れになっていたんじゃないのか。年の離れた後輩たちに気を遣う必要もなく、この間の休日のように伸び伸びと、仲良し同士で音楽をやれていたんじゃないのか。


 ――とにかく。


 重要なのはあの人がいま何を望んでいるかだ。ヴィクトリカに戻りたいってんならよし、ロックスタディに残るのもよし。一番不味いのは、ヴィクトリカに戻りたいのに、俺達に遠慮しているパターン。それだけは絶対に避けなければならない。

 やる事は決まってる。早速今から、三年教室に――


「おい」

「……ん? うおお!? 音無先輩!?」


 下駄箱前で固まっていると、後ろから直接ご本人に声を掛けられた。

 タイミングが良いというか、悪いというか。心臓に悪い。


「お、おはようございます。珍しいッスね。先輩の方から声かけてくるなんて」

「そうか? ……それよりお前。きのう真行寺に何か言われなかったか?」

「え?」


 唐突でクリティカルな質問に、硬直してしまう。


「いや、別に。何も言われてませんけど」

「めちゃくちゃ目ぇ泳いでるぞ」

「ふ、ぬっ……くッ!!」


 心の準備が全くできてなかったせいで、酷い誤魔化し方になってしまった。

 音無さんはジト目で俺を睨みながら、露骨に大きな溜息を吐く。


「どうせ、私がヴィクトリカに戻りたがってるとかそんな話聞かされたんだろ?」

「……、はい」

「あいつらが、私を引き戻そうとしてるってのも?」

「……。はい」


 俺が苦々しく頷くと、音無さんは面倒くさそうに頭を掻いた。

 

「……前にも言ったと思うけど。あんなバカの言う事、いちいち真に受けるなよ。そういう話をされてるのは確かだけど、私は戻りたいなんて一言も言ってない」

「そう、なんですか? でも――んがもぐッ!?」


 突然、俺の口の中に異物が入り込んでくる。……コーラ味。いつも音無さんが持ち歩いてる棒付き飴玉だ。おもむろに青い包装紙をぺりぺりと剥くなり、何ゆえかそれを俺の口に突っ込んで来たのだった。


「ッ、ふぁにするんスかいきなり!」

「何かめんどくさいし、もう力づくで黙らせるかと思って」

「発想がヤクザすぎません!?」

「うるさいないちいち……。そんな事よりお前、もっと気にする事あるんじゃないのか? 例のブッキングの話、受けることにしたんだろ」

「あ、はい」


 昨日の夜、帰宅した後の事だった。

 連絡先を交換した三好先輩から、県大会の前週に学生バンドを集めた自主企画ライブをするという事で、俺と姫路も参加しないかという話をメールで持ち掛けられた。あまりに急な話でどうかとも思ったのだが、三好先輩の話では出演する予定だったバンドがドタキャンしてしまって困っているとの事だったので、俺はメンバーと相談した後、姫路と共にこの誘いを快諾したのだった。


「ライブは遊びじゃない。お前もそれは分かってるよな」

「はい、もちろん」


 ハルシオンが主催するライブともなれば当然、学校外の観客も沢山訪れる。現状無名なロックスタディにとって、これは掴むしかない絶好のチャンスだった。実力を示して名を上げるか、恥を晒して汚名を被るか。ハイリスク・ハイリターン。今後ライブハウスで活動していくなら、大会以上に重要なライブ。

 だから決して、安請け合いをしたわけじゃない。

 真っ直ぐな視線でその意志を示すと、音無さんは息を吐いて視線を逸らす。


「……ならいいけど。ライブハウスに出る以上、私も厳しく行くから。とりあえず、ツインギター構成は捨てる。今からじゃ絶対に間に合わない。どうせ大会は三人で出るんだし、その方がお前にも都合がいいだろ」

「ああ。それは――確かに」


 最初からギター一本で考えれば、迷うことは少ない。ライブハウスでは音無さん一人がギターを弾き、音無さんが出れない大会では俺一人がギターを弾く。

 アレンジの面でも、割り切りが出来る分、時間の短縮に繋がるはずだ。


「……心配しなくても、ちゃんとお前でも弾けるように、ギターは全部私が考えてやる。お前は自分の歌と、歌詞に集中しろ」

「はい」

「二週間しかないんだ。余計なこと考える暇あると思うなよ」

「ッはい!」

「うん。……じゃ、また放課後。喉は大切にしろよな、ボーカリスト」


 涼し気にそう言うと、音無さんは俺の肩を軽く叩き、颯爽と立ち去っていく。


(……余計な事考えるな、か)


 なんだかうまく、核心を避けられてしまったような気もするけれど。

 今は音無さんの言う通り、目の前の事を片付けよう。

 ライブと大会。今後の話をするのはそれからでも遅くはない。

 飴玉を噛み砕きながら、俺は自分の教室に向かった。

 

                ◇ 


 昼休み。いつも通りコンビニ弁当を机に置き、俺は一人でスマホを弄っていた。

いつもはそろそろ来るはずの安藤と水無瀬が、今日に限って何故か来る気配がない。まぁいいかと思いつつ割り箸の包装を開け、弁当のフタを取った、その時。


「……っ居た! 高宮!!」


 水無瀬が、血相を変えた様子で教室の中に飛び込んでくる。


「……? どうした水無瀬、何かあったのか?」

「姫路が大変なことになってる! E組の教室で、男子たちと喧嘩してて――、」

「……は!? っとりあえず、止めに行くぞ!」


 一体、なんだ急に? 男子と喧嘩? E組で? 姫路が?

 追ってくる野次馬と共にE組の教室に辿り着くと、そこには人だかりができていた。無理やり押しのけて教室の中に入ると、床には誰かの弁当箱の中身が散乱し、机や椅子がひっくり返っている。その中心には、泣き崩れる女子、それを庇う男子、そして壁際で複数人の男子に取り押さえられている姫路の姿があった。


「……っ姫路!」


 息を荒げ、歯を食いしばりながら姫路は教室の中心に居る連中を睨む。

 俺の声も耳に入っていない。明らかに尋常な様子じゃなかった。

 

「何、やってんだお前ら!」


 五十嵐が教室に姿を現して、姫路を取り押さえる男子を引き剥がす。

 俺も野次馬を掻き分けて、二人の元に駆け寄った。


「姫路。落ち着け。大丈夫か?」

「……」


 姫路は何も答えない。悔しそうな顔をしながら目を逸らす。

 よく見ればその頬には引っかき傷のような跡。生々しい赤色が滲んでいた。


「おい、テメェら……」


 五十嵐が睨みを利かせながら教室の中心に居る男女グループに詰め寄る。

 ひっ、と悲鳴を上げて、泣き崩れる女子は彼氏らしき男子の腕にすがりついた。


「近づくんじゃねえよ! この暴力女!」

「ああ!? んだと、テメェ」

「い、言っとくけど先に手ぇ出してきたの姫路だかんね!? うちら見てたんだから! つーか、ここに居る全員証人だし!」


 ざわめく周囲を見渡す。非難の視線は一様に姫路の元に浴びせられていた。そんな群衆の中に見知った顔があることに気づき、俺はそいつの元に駆け寄った。


「安藤。お前ここのクラスだったよな。何か見てたか?」

「あ、ああ。何か、いきなり姫路が教室入ってきて、そいつらとなんか言い争い始めて。そっからは、凄い取っ組み合いっつうか、なんつうか」


 安藤の証言に、周りはこくこくと頷いている。ならその流れは本当なのだろう。

 問題は言い争いの内容。その背景に何があったのか、だが。


「はいはい。みんなちょっとどいてくれるかな?」


 姫路を教室の外に連れ出そうとしたその時、松本教諭が姿を現した。いつも通り、のっしのっしと歩を進めると、穏やかな笑みを浮かべながら周囲を一瞥する。


「……ああ。うん。大体状況は分かった。とりあえず怪我してる子は保健室に。あとでちょっと別室で話を聞かせて貰うから。ほらみんな散った散った」

 

 松本教諭の言葉で、他のクラスの野次馬がぞろぞろと立ち去っていく。


「トモミ、大丈夫? 保健室行こ……」

「無理……怖くて立てない」

「大丈夫大丈夫。俺が連れてくから。おい。お前ら。……覚えとけよ」


 教室の中心に居る男女五人組が俺達の方を睨みながら教室を去る。よく見れば、見覚えのある顔ぶれだった。西野、加藤、北山、……あとは誰だったか。軽音部に所属している、何かいけ好かない連中だったのは覚えている。


「……さて。高宮くんと五十嵐さん。姫路さんが落ち着くまで傍について居てくれるかな。西野さんたちの順番が終わったら二人で保健室に連れてってあげて」

「はい。了解です」

「大丈夫か姫路。その傷……」

「うーん、痛そうだね。水無瀬くん、このハンカチ濡らして来てくれるかな」

「あ、はい。すぐ行ってきます」

「じゃあ俺は保健室見てくるわ。あいつらの番終わったら知らせに来るよ」

「わりいな、安藤。助かる」


 ひとまずE組の教室を出て、五十嵐の机があるD組の教室に向かう。

 安藤が戻ってくるまでの間、姫路はずっと俯いたまま、


「……ごめん」

 

 と。弱弱しく呟いてそれきりだった。


                ◇

 

「……西野グループか」


 放課後の二年B組教室。俺の机の側には、安藤と水無瀬がやってきていた。

 あれから姫路は無言を貫いたまま早退、二年生の教室にはあの騒動の事が瞬く間に広まり、様々な情報が錯綜している。ひとまず俺は事の真相を探るため、二人に出回っている情報を提供してもらっているところだった。


「あいつらって確か、坂上グループの子分みたいな連中だったよな」

「ああ。まあ、その内の一つって感じだな」


 かつて軽音学部内、ひいては学校中で幅を利かせていた三年ヤンキー、坂上雅也。そいつの率いるグループは、常に自分たちの力を示す為の餌食を探しているような悪辣な集団だった。大抵の人間はその標的にされないよう、目立たないように避けて立ち回るのが常だったのだが、一部には例外が存在した。そう――むしろ奴らに取り入ることで、奴らの被害から逃れようとしたグループ。

 

「なるほどね。どおりで見覚えがあるわけだ」

「なんなら、去年部室で五十嵐がブチ切れた切っ掛けも西野グループだよね」

「え? それもあいつらなの? マジで?」

「あー、何か既視感あるなと思ったらそれか。そういや西野が悲劇のヒロイン面で保健室行くとこまで完全に一緒だわ。場所はちげぇけど」


 去年五十嵐が部室でブチ切れた事件――あの原因は確か俺の中学時代のド酷いライブ映像を、部員の誰かが広めてたとかだったか。坂上グループの存在があまりに強烈すぎて、うっかり気を抜いていたけれど。その手の下らない事で盛り上がれる連中がこの学校にはまだまだ残っているらしい。


「それだけ聞くとそいつら、俺と五十嵐には因縁あるっぽいけど。姫路とも何か関係あんのかな。安藤、そのへん何か手掛かりない?」

「あー……どうだろ。西野がちょくちょく姫路の悪口言ってた気すっけど、別にあいつら誰の悪口でも言うしな。五十嵐とか神崎とか、それ以外にも色々」

「あ。そういえば俺、本当かどうかわかんないけど、西野たちが姫路の上履きゴミ箱に捨ててたーみたいな話さっき聞いたんだけど」

「……上履き? そうか、それだ!」


 水無瀬の言葉で、俺はある出来事を思い出す。

 元メンバーと揉めた日の翌日、姫路は何者かに上履きを隠されていた。 

 あれは、西野たちの仕業だったのか。言われてみればあの時集まっていた野次馬の中に西野グループの姿もあったような気がする。俺の動画をバラまいて悦に浸るしょうもなさ加減を鑑みれば、特にその後の行動に違和感はない。

 なるほど。色々繋がってきた。なら間違いなく今回の件はそれ絡みの――、


「……高宮? どうしたの?」

「――違う」


 口に手を当てながら、俺はもう一度考えを練り直す。

 陰口、上履き隠し――今更そんな事で、姫路がブチ切れるか? 

 あいつならむしろあんな連中歯牙にもかけないはずだ。上履き隠されてたのは結局あの時だけって話だったし、西野達がそこまで姫路に執着しているとも思えない。


 なら一体、何が切っ掛けだ? 

 姫路がわざわざ直接殴り込みに行ってしまうほどの強い理由。

 何か、見落としている事がある気がする。それは――、


「……ってやべ。もうこんな時間か」

「あれ、高宮。今日もバンドの練習あんの?」

「ああ。大会も近いし、二週間後にライブも決まったから、それまでずっと練習かも。とりあえずサンキューな、二人とも。また何か分かったら連絡くれ」

「おー。練習頑張れよ」


 安藤と水無瀬と別れ、俺は急いで教室を出る。

 姫路の件は気になるが、いま俺が下手にあれこれ考えを巡らせるよりあいつが自分から話してくれるのを待つ方が得策だろう。

 音無さんの言っていた通り、今は俺のやるべきことを、優先しなければ。

              

                ◇

                

 ライブまであと13日。


「響、この曲のサビ何かいまいち盛り上がらねえんだけど原因なんだと思う?」

「ああ。多分、リズムじゃないですかね」

「リズム、……っていうと?」

「サビのメロディって、音程の上下はさして重要じゃないんですよ。例えばアジカンのリライトとか、ほら。凄い印象的だけど、メロディだけ弾くとこんな感じだし」

「なるほど。つまり音の数とか高低差より、配置が重要って事なのか」

「ですね。あとは定番だけど、サビ以外のギターの歪みを抑えたりとか」

「うん。やっぱそれは使わねえとな。三人で出来る事って限られてるし――」


 ライブまであと11日。


「……うん。やっぱりこの曲、いきなりサビから始まった方が良い感じですね」

「だよな。あとテンポ、もうちょっと速くした方が良い気がすんだけど」

「確かに。アニソンの手法に乗っかるなら、BPM180くらいが丁度いいかもですね」

「BPM180って……大体、こんくらい?」

「ですね。姉貴、一応ちょっとメトロノーム鳴らしてみて」

「あ、響。ついでに転調も試してみねえ? ラスサビだけ半音上がるやつ」

「それはちょっとやりすぎだと思うけど。一応、それも試しにやってみますか」


 ライブまであと9日。


「高宮。Aメロのここ、やっぱり難しいか?」

「すいません。歌いながらだとやっぱりちょっと厳しい感じが」

「わかった。じゃあ明日までに別の考えてくる。ソロの方は大丈夫そうか?」

「はい。それはまあ、ぎりぎり何とか」

「ふーん。じゃあ今からチェックするから、弾いてみろ」

「え?」


 ライブまであと、6日。


「……よし。とりあえず5曲。一通り形にはなったし。今日はここまでにしとくか」


 アンプの電源を切り、俺達四人は部室の後片付けを始める。

 七月十五日、月曜日。窓の外は雨降り模様。時計は夕方5時を指している。

 今日は祝日で学校が休みだったのだが、大会前ということで特別に正午から部室を練習に使わせて貰った次第だった。


「本番、もう今週末か。今日がっつり部室使えてよかったな」

「だな。正直どうなることかと思ったけど」

「この調子なら、ぎりぎり何とか間に合いそうですね」


 音無先輩の言う通り、まず最初にツインギターの線を捨てたのが大きかった。

 あの提案がなかったら今頃、死ぬほどバタついていた事だろう。


「じゃあ、お疲れ」

「あ、お疲れ様です!」


 一足先に、音無先輩が部室から出て行くのを三人で見送る。


「……姉貴も、やっとバンドに馴染んできたかな」

「お。久々に出たな。響の後方弟面こうほうおとうとづら

「いや、弟なのはただの事実だろ」

「……。そういえば高宮先輩。姫路先輩とはまだ連絡つかないんですか?」

「ん? ……ああ。そうなんだよな」


 スマホを取り出し、俺はメッセージアプリを起動する。相変わらず姫路からは何の連絡もない。こっちからのメッセージも既読がついていない状況だった。


「だいぶ電話とか掛けたりしてんだけどな。五十嵐の方も、連絡きてないか?」

「ああ。……メールも電話も、ぜんぜん反応なし」

「どうしちまったんだろうな、あいつ。まさか一週間も学校休むなんて」


 あんな事があった以上、しばらく学校に来たくない気持ちはわかるが。

 俺達の連絡にも一週間ずっと無反応。そしてなぜか――ニコニコ動画に上がっていたあいつの動画が、。特にコメント欄が荒らされていたというわけじゃないようだが、落ち込むにしても過剰すぎて心配になる。


「今週のライブ、一応姫路先輩も参加するはずなんですよね。大丈夫なのかな」

「そう、なんだよな。来週には県大会もあるってのに――」

「ああ、居た居た。お疲れ高宮くん」

「え? あ。松本先生」


 丁度いいところに。松本教諭なら何か知っているかもしれない。


「どうだい練習の方は。捗ってる?」

「はい。……それより先生、姫路ってあれからどうなったんですか?」

「ああ、うん。それなんだけど。どうも、かなり落ち込んじゃってるみたいなんだよね。僕にこんなものを提出してきちゃうくらいだから」

「? こんなもの、って」


 松本先生の手から一枚の白い紙を俺は手渡される。


「……退部、届?」


 思わず、目を疑った。

 しかし何度見てもその氏名欄には、姫路瑞貴と直筆で記されている。


「先生。これ、姫路本人が出したんですか? 他の誰かがやったとかじゃなく?」

「うん。間違いなく本人が直接ね。まあとりあえず受け取っただけで、僕もまだ受理はしていないんだけど。もしかしたら県大会に出れない可能性もあるから――」


 言葉が何も入ってこない。緩慢になる思考の最中、俺は提出日の欄が今日の日付で記されている事に気づく。


「先生。今、直接って言いましたよね。じゃあ姫路、今日学校に来てるんですか」

「うん。ついさっき職員室にね。みんなに会っていかないかって言ったんだけど」

「ッ……!」


 最後まで聞かず、俺は部室を飛び出した。五十嵐もすぐに追ってくる。


「五十嵐、俺は昇降口の方見てくる! お前は職員室の方に回ってくれ!」

「ッわかった!」


 急に自主退部? 大会に出ない? 一体何だそりゃ。――ふざけんな。

 赤熱する思考のまま、俺は全力で廊下を走り、階段を駆け下りる。

 天気は雨。祝日の校舎には誰の姿もない。わずかな可能性にすがり、俺は靴を履いて外に出る。傘もささず土砂降りの校門を走り抜け、左右の歩道を見渡したその時、――、青い傘を差して歩くそいつの姿が目に入った。


「……ッ姫路!」


 角を曲がった所で、その背中に追いつく。


「……あれ? 高宮じゃん。何してんの」


 姫路は振り向くと、何食わぬ顔で俺にそう言った。


「何してるって、こっちのセリフだバカ。急に退部ってお前一体どういう――」

「どうって、に。そんなに驚く事? あんなバカばっかのとこに居たってさ、あたしに何のメリットもないじゃん。それにほら、他の人の迷惑だしね? あはは」


 ……確かに、あんな事になってしまった以上、あえて軽音に残る必要もないのかもしれない。部室を使える時間なんて通常は一週間のうち一時間やそこらなのだ。むしろ今の姫路にとってはデメリットの方が多いともいえる。――けど。


「……大会はどうすんだよ。それに今週のライブ、お前も出るんだろ」

「ああ。もちろんライブには出るよ? でも大会は、もう別にいいかな。どうせそんなに興味もなかったし。高宮に譲ってあげるよ。あたしの枠」

「……いるわけねえだろ。お前が出ろよ」

「いや。だから出ないつってんじゃん。……もういい? あたし行くね」

「っ……ちょっと待て、って!!」


 背を向けて去っていこうとするその腕を、俺は無理やり掴み取る。


「まだ、話終わってねえぞ姫路。……こないだ、一体何があったんだ? 何で俺らに、何の連絡もよこさなかったんだよ」

「……別に。面倒だなって思ったから」

「……面倒?」


 振り向きもせず、嫌味っぽい声で姫路は言葉を紡ぐ。


「だってさ。どうせあたしが言いたくないコト、根掘り葉掘り聞く気なんでしょ? 他人事だと思ってズケズケと、理解者面でさ。それで辛かったねとか、お前の味方だよとか言って、共感した風なツラするんでしょ。クソキモいからやめてもらえるかな。そういうベタベタしたノリ。大っ嫌いなんだよね、そういうの」

「……別に、言いたくねえなら俺らも深くは聞かねえよ。でも、言いたくねえなら言いたくねえって、そう言えばよかっただろ。面倒だからって無視すんのは――」

「ああ、ごめんごめん。あたし他人ひとの気持ちとかわかんないコミュ障だからさぁ。でも正直キツかったのは本当だし? 返信ない時点で、放っておいてほしいのは察してほしいかなって」


 掴んだ腕を、俺はそっと離す。


「今のお前が、放っておいてほしいってんなら、そうする。……けどな姫路。お前、また逃げたりする気じゃねえだろうな」

「逃げる? 逃げるって、何から?」

「俺達からだよ。前のバンドの奴らにしてもそうだ。お前、気まずくなったら他人から逃げる癖あるだろ。ニコニコのアカウントも消えてるし。このまま夏休みまで逃げ切って、何もかもリセットしようとか考えてんじゃねえのか」

「……だったら、何? 別にそれってあたしの自由じゃないの?」

「そりゃ、お前の自由かもしんねえけど。……そうやって他人の気持ちわかんねえとか。クソみてーな嘘吐くのはもうやめろよ」

「……。何それ。何の話?」


 あくまでとぼける気か。

 覚悟を決めて、俺は言葉を吐く。


「……E組の教室に居た連中から聞いた。お前が、スニーカーズの事で西野たちを問い詰めてたって。秋本からも裏は取れてんぞ。あいつらの嫌がらせのせいで平田って子が毎日のように怯えてて――


 ぴくりと、姫路の肩が揺れ動く。


「……お前、スニーカーズの連中と、普通に仲良かったんだろ? バンド抜けた後も、ほんとはずっとあいつらの事気にしてたんじゃねえのか。何も知らねえ連中に、さんざん友達の事バカにされて、傷つけられて。なのにあいつらがしらばっくれたから、ブチ切れたんだろ。違うか?」

「……全然違うよ。何それ。高宮の妄想?」

「違うんなら、ちゃんとこっち見て言えよ。さっきからずっと涙声だぞ」

「……ッ」


 ふるふると震えながら、姫路は大きくはなをすする。 


「……姫路。お前は良い奴だろ。悪くもねぇくせに、悪ぶんなよ。あんなクソみてーな連中に一歩も譲ったりすんな。今までみたいに、堂々と――」

 

 ぐしゃり、と。姫路の傘が路面に落ちる。


「……姫路?」

「……悪くない? 悪くないって? あは、あっははは。やっぱり。ほんっとに結局、何もわかってないんだね。高宮くんも、あたしのこと」


 頭から雨を浴びながら、姫路は壊れたように笑う。

 遠くで、雷の落ちる音がした。


「……高宮」


 そして姫路は、振り向きながら俺を見る。


「……お前に、あたしの何がわかるんだよ。――あたしの欲しいもの、全部持ってる、お前に」


 泣き腫らした顔で、あまりにも弱弱しい声で。

 土砂降りの雨を受けながら、姫路瑞貴は精一杯に俺を睨んでいた。


「……分かんねえから聞いてんだろ。俺だって、エスパーじゃねえんだから」

「……そうだね。でも言ったってどうせわかんないじゃん?」

「……試しもしない内から勝手に諦めんなよ」

「っ……いいよね。高宮は。そうやっていつも善人ぶって、まるで主人公みたいに振舞って。どうせそれで気持ちよくなってんでしょ? 前から思ってたけど、あたしのこと無意識に下に見てるよね? どうせ陰キャのモブか何かだとでも思ってんでしょ? それともアレかな? 好感度上げたらヤれる攻略対象とか? あはは」

「……お前から見たらお前が主人公で、俺の方がモブキャラだろ。くだらねー事言ってんじゃねえよ。悲劇の主人公気取ってんのは、どっちだよ」

「……そうだね。ほんと、なんでこんなことになっちゃってんだろ? もう自分でも意味わかんない。どこでこんなに差ついたんだろうね、あたしたち。去年はどっちも、クラスの隅に居るモブキャラみたいだったのに。ははは」

「……差なんて、別についてねえだろ」

「……そうかな? 本気でそう思う?」

「……当たり前だろ。お前はたった一人で、俺達に勝ったじゃねえか」

「……じゃあ、あたしと代わってよ」

「……え?」

「……高宮が、二位でいいからさ。香月ちゃんと、響くんと、音無先輩。みんなとバンド組ませてよ」


 あまりの言葉に、呼吸が止まる。


「嫌だよね。当たり前だよね。高宮だって、一人で大会とか出たくないもんね」

「……姫路。お前、まさか」


 姫路は笑う。――やっと気づいたんだと、言わんばかりに。


「そうだよ。一人の方がいいとか、そんなの嘘に決まってんじゃん。こんな遠くの街まで来てさ。わざわざ一人でやりたい奴とかいる? 本気でそんなに意識高い強い奴に見えちゃってた? はは。やば。けっこう演技の才能あんのかな、あたし」


 ぽろぽろと涙を零しながら、姫路は俯きがちに言葉を続ける。


「ほんとは、一人でステージなんか立ちたくなかった。怖くて、ずっと手も足もぶるぶる震えてた。皆のこと裏切ったのに、失敗したらどうしようって。……結局ライブは、成功したけどさ。あたしの状況はなんも変わんなかった。バンドの皆とは元に戻れないし。ちょっとチヤホヤされたくらいで、あとは皆すぐに飽きて、離れてった。当たり前だよね。いきなりイメチェンとかしてさ。無理して明るく振舞っても、去年のあたしが知られてる以上、完全に痛い奴だもん。――なのに」


 憎悪と羨望が入り混じった目で姫路は俺を見つめ、辛そうに視線を落とす。


「……なんで、お前ばっかり。そんなに周りに人が集まってくるんだよ。あんなに凄い人達に囲まれて、毎日楽しそうにしてんだよ。……ずるいだろ。去年まで、あたしと同じだったくせに。……何で、お前ばっかり」


 そして、俺はようやく理解した。

 

 

 最初、姫路は自分の事を明るく「僕」と名乗っていた。しかしその後、神崎達が乗り込んできた時、姫路はあたかも本性を晒すかのように自分の事を「あたし」と言い始めた。それで当然、俺は「あたし」の方が姫路の素の顔だと思っていた。

 しかし違う。あの「あたし」すらも、こいつの演技だったのだ。毅然とした態度や言動もただの強がりで、内側にはこんなにも脆い一面を抱えていた。

 なぜ隠していたのかは、まだ分からない。 

 それを知るだけの権利が、俺にあるのかも。

 

「……姫路」

「近寄らないで」


 鋭い声で俺を制し、姫路は無表情で傘を拾い上げる。


「もういいでしょ。あたし、別に良い奴でも、強い奴でもないしさ。最近本格的に頭おかしいんだよね。陰キャだし、オタクだし、コミュ障だし、クソメンヘラだし。もう、どれが演技で、どれが本音なのか自分でもわかんないんだ」


 演技か本音か? ――馬鹿馬鹿しい。本当に、馬鹿馬鹿しい。


「……そんなもん、別に。分かんなくたっていいだろ」

「……え?」

「俺はお前の友達だ。演技だろうが本音だろうが、好き勝手ぶちまければいい。今更それでお前の事嫌いにならねえし、離れようって気にもならねえよ」

「友達? ……はは。よく言うよね。あたしの事なんて、自分の為の踏み台でしょ? あれこれ色々聞いてきたりさ。利用価値があるから近づいただけでしょ」

「それは別に否定しねえけど。……じゃあお前は何で俺に話しかけたんだよ」


 姫路は何も答えない。傘で顔を隠し、また大きく洟をすする。


「ごめんね。迷惑かけて。まあこれっきりもう話すこともないと思うけどさ。……その分かったような顔がむかつくから、最後にこれだけは言わせて」


 俺に背を向け、俯きながら姫路は苦しそうに声を絞り出す。


「――あたしの痛みを、お前の感傷の道具にすんなっ……」


 そして土砂降りの雨の中。姫路は一人で走り去って行ってしまう。

 俺は黙ってそれを見送り、やがて身体を叩く雨粒の感触が消えた事に気が付く。


「……風邪引くぞ」

「……悪い」


 五十嵐から傘を受け取り、俺は道を引き返した。

 今にも融け落ちそうだったあいつの声を、頭の中で繰り返しながら。

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