第十三話「Whole Lotta Love」

                 ◆


 放課後の三年教室。窓の外は夕暮れ時で、世界はオレンジ色に染まっている。

 私は一番後ろの窓際の席に座り、エレキギターを生音のまま鳴らしていた。その一つ前の席では一ノ瀬が机にノートを広げ自主勉をしている。その他には誰の姿もない。私たちは特に会話もなく、お互いそれぞれ自分の作業に没頭する。

 別に気まずいわけじゃない。むしろ逆だった。余計なものが何もないこの静謐な空間を、互いが心地よいものとして共有している。たまに、うるさい後輩たちが押しかけてきて台無しになるけれど――とにかく、これが私と一ノ瀬のありふれた放課後の過ごし方。私にとっては数少ない、癒しのひと時だった。

 

(……もう5時か)


 壁掛け時計が目に留まり、ヘッドフォンを耳から外す。歌詞とコードが記載されたA4用紙に、自分用のメモを書きつける。高宮の持ってきた曲に、どういうフレーズを付け加えるかを考える作業。


 基本的にバンドでの曲作りのステップは大きく二つだ。


 一、作曲者が歌メロとコード、弾き語りなどの簡素なデモ音源を持ってくる。

 二、各パートがそれを元に自分の演奏を考え、相談しながら結論を決めていく。


 作曲者が各パートの演奏を全て考えてしまうパターンも、勿論ある。しかしバンドという形態では基本的にバンドが「編曲アレンジ」を担うのが一般的だ。

 この「編曲」という作業は、名前以上に大きな意味を持つ工程だ。こと創作においては「0を1にする作業」が最も大変だと言われているけれど――「編曲」はその数字を七色に変え、何倍にも魅せる可能性を秘めている。

 作品の魅力は、多面的なモノだ。大してストーリーが面白くない映画も、映像や演出、役者の演技、そこに含まれる様々な要素で全体の印象がガラリと変わってくるように。骨組みに纏わりつく肉付けというものがいかに重要なのかが分かる。

 もっとも”名作”と呼ばれるような代物は、骨組みの段階で名作なのかもしれないけれど――とにかく「編曲」は「作曲」と同等に重要な要素だと、私は思っている。


 まだまだ、やれることは多い。


 バッグの中、レンタル店から借りてきたCDの群れを眺めながらペンを回す。

 そのほとんどは、高校に入った頃、聞く気もしなかった日本のバンドたち。だけどここ最近は、溺れるくらいの量を毎日聞いている。たった2年ほどの期間にしろ、曲作りやバンド活動を経験したことで、聞こえ方がまったく違っていた。どれもこれも、納得できる一本の筋金が通っている。仮に感情で理解できなくとも、理論としての理解が出来る。今の私にとって、勉強になることばかりだった。

 特定のジャンルや、技巧そのものへの執着――言ってみれば昔の私は、80年代のB級アクション映画を至上のものとして疑わない厄介な奴とかだったんだろうか。実際はそこまで極端じゃないし、例えも合ってるか微妙なんだけれど。今にしてみると、見えてる世界が狭かったという自覚はある。


(――改めてみると、馬鹿馬鹿しいよな)


 ほんの1か月前、無駄に苦しみ続けていた自分を思い出して苦笑いが零れる。

 多面的なのは、作品だけじゃない。

 見る角度を変えれば、こんなにも世界が違って見える。


『アンタもちょっとは、大人になったんだなーって』


 舞子あいつが言ってたように、大人になったのかは知らないけれど。

 少しずつ変わってはいるんだろうな、私も。

 だって最近、普通に毎日が楽しい。

 出来ない事も、特にない気がしてくる。


 ――となると、問題は。


 A4用紙に視線を落とす。タイトル未定、作詞作曲――高宮太志。

 最近、高宮あいつの様子がどうもおかしい。元々おかしいのは置いておいて、良くないおかしさの方に振れてきている。それというのも、この一週間で高宮は毎日のように新曲を持ってきているからだ。作り溜めていたモノかと思ったけれど、話を聞く分にはどうもそうじゃないらしい。目にはずっと隈が残っているし、いつも以上に言動がハイになっている。大会が近いとはいえ、睡眠時間まで削り出すというのは、どう考えてもオーバーワークだった。

 症状の方向性は違うにせよ、ちょうど初夏いう季節もあって、ヴィクトリカを抜ける直前の私を思い出す。あれじゃ正直、いつ破裂してもおかしくない。アイツの場合、当たり散らすような事はないだろうけど――疲れでうっかり階段で足を滑らせて、ポックリ逝きそうな危うさは出始めている。

 最近絡んでる、あの姫路って奴に関してもそうだ。最初は色恋絡みと思ってぬるい目で見てたけど、どうもそうじゃないらしい。一か月前に私と響の問題に首を突っ込んできた時みたいに、余計な重荷を背負ってるような気配がある。

 とはいえどうすればいいのか。あいつは大会の為に根を詰めているんだろうけど、大会に出ない私が何か言うのもどうかと思うし。むしろ口下手な私がへたに触ったら逆効果なような気もする。


(……とりあえず)


 私は私にできる事をまず片付けるしかない。余計な心配はそれからだ。

 机の上を片付けて、ギターをケースにしまい込む。


「あれ、音無さんもう帰るの?」

「ああ。から」

「そっか。私はもう一段落したら帰ろっかな。もうすぐ期末テストだし」


 そういえば、もうそんな時期だった。

 気づけば六月も三週目の金曜日。七月の頭には一週間のテスト期間が待っている。


「そういえば最近音楽にどっぷりみたいだけど、音無さんちゃんと勉強してる?」

「全然。……けどま、何とかなるよ。どうせ二回目だしな」

「あはは。まぁ音無さん中間も余裕そうだったもんね。じゃ、練習頑張ってね」

「ん。お前もな。学年一位の優等生」


 一ノ瀬と別れ、私はギターケースを背負って教室を出る。

 階段を下り、一階の廊下が見えてきたところで、私はふと足を止めた。

 

 ――あの曲がり角。曲がったら何か嫌な予感がする。


 私のこういう時の勘は冴えている。この学校でしょうもない嫌がらせを何度も受けたから、何となく危険を察知するセンサーみたいなのが備わってしまった。仕方ない。少し遠回りだけど、別の道から行くか。そう思って二階の廊下に戻った瞬間、


「ハーイ。音無さん。こんなところで会うなんて奇遇ね?」


 制服を着た、金髪サングラスのバカ女が現れた。

 クソでかい溜息を吐きながら、私は露骨に顔を顰める。 


「……」

          

 サングラスのアホのストーカー被害に悩まされてからおよそ二か月。

 ようやく訪れた平穏は、ほんの束の間の事に過ぎず、私の元には新手のサングラスのアホが毎日のように付き纏うようになった。

 

 たとえば月曜の朝。


『グッモーニン。音無さん。夏服似合ってるわね。いいのかしらそんなに二の腕と太腿を晒しちゃって。あらぬ想像を掻き立てられるわよ? え? 私? 私は今から帰って寝るところ。ところで私のパートナーになってくれない?』


 たとえば水曜日の夕方。


『ハロー。音無さん。犬の散歩? 白くて大きくて可愛いじゃない。もちろん貴方の方が可愛いけれど。名前はなんていうの? ザック? そう。ワイルドな名前ね。ところで私のパートナーになる気はない?』


 そして金曜日の放課後。つまり現在に至る。


「……いい加減にしろよ、この変態女」

「変態とは失礼ね。それよりこの学校、警備態勢に問題あるんじゃない? 特に苦労もなく忍び込めたわよ? 私如きでコレじゃ全く先が思いやられるわ?」


 何の先だ。……なんて思わず突っ込みそうになる。

 真行寺奏恵しんぎょうじかなえ。今のヴィクトリカのメインボーカル。舞子の話じゃ齢は私の一つ上で、勿論ここの生徒でも何でもない。どこからか調達してきた制服を着ているド変態の異常者だ。


「どうしたのかしら音無さん。人の顔をまじまじと見て。……ああ、ふふ。そうね。自分で言うのもなんだけど、私。この制服とても似合っているわよね。せっかくだから記念にツーショットでも撮りましょうか。Say, cheese♡」


 有無を言わさず、真行寺は勝手に携帯で私とツーショット写真を撮ってくる。

 こいつ、ほんとどうしようもないな。少なくとも高宮の数倍はたちが悪い。

 出現頻度といい、神出鬼没さといい、発言に突っ込みどころを残してコール&レスポンスを狙ってくるあたり完全にプロの手管だ。プロの変態ストーカーだ。


「ところで今日はどうしたの? 練習は? さっき貴女のバンドメンバー達が揃って帰っていくのを校門で見たけれど」

「……全く知らないし、どうでもいい。そもそもお前に関係ないだろ」

「いいえ? もちろんあるわよ? だってバンドがメンバーひとりを放って帰るなんて只事じゃないじゃない。仲間外れにされたとか、バンドの仲に亀裂が生じたとか、……ふふ。私はそういう事を期待しているのだけれど」


 青っぽい瞳が、蛇のように覗き込んでくる。

 目を合わせないようにして、私はわざとらしく溜息を吐いた。


「馬鹿馬鹿しい。そんなことあるわけないだろ」

「そう? じゃあ何で?」

「今日は各自練習ってだけ。あいつらはカラオケでやるらしい」

「へえ。貴女は歌わないの?」

「歌うわけないだろ」

「なんで?」

「さあな」

「ふうん」


 にやついた顔を無視して、昇降口まで早足で歩く。


「――もしかして、歌えないとか?」


 下駄箱に伸ばした手が、止まった。


「……」


 答えず、顔も見ず。靴を履いて外に出る。

 当然のごとく、校門を出ても真行寺は私の後ろをついてきた。

 地下鉄に乗りこんでみても、平然と私の横に座って見せる。


「それで、今日はどこへ行くのかしら?」


 そしてこの態度だ。溜息しか出ない。


「……お前さ。なんでそんなに私に付き纏うんだ?」

「貴女とちゃんとお話がしたいから。バンドのことについて、これからのことについて。話し合うべきことが沢山ある」

「こっちには話す事なんかないけどな」

「そう? そんな事ないと思うけれど。たとえば――どうやったら私が諦めるかとか知りたくない?」

「どうやったら諦めるんだ?」

「どうやっても諦めないわ。うふふ」

「…………」


 流石に。そろそろキレてもいいんじゃないだろうか? 

 ここが電車の中じゃなかったら、こいつの鼻を思い切り捻じってやるのに。


「ほら、そんなに怖い顔しないでお話しましょうよ。今日はこのあと時間があるんでしょう? 三十分くらいそのへんでお茶するだけでいいから」


 なんだか質の悪いナンパ男みたいになってきたな。

 雑音だと思って無視しよう。


「もしかしてまだ警戒してる? 人見知りだとは聞いていたけれど、そこまで怖がりなの?」


 流石にかちんときて、反応してしまう。


「……自分で名乗りもしない礼儀知らずに、心を開く方がどうかしてるだろ」

「え? ……ああ。そういえば自己紹介がまだだったわね。私は――」

「シンギョウジ、だろ」

「なんだ。知ってるんじゃない。ひょっとして調べてくれたの?」

「舞子から聞いたよ。金持ちの娘で、頭のイカれた女だって」

「ひどい紹介ね。金持ちの娘というところは当たっているけれど。断じて私は頭のイカれた女なんかじゃないわ。むしろ超イカしてるクールな女よ」


 ……その返しからしてイカれてるとしか思えないんだが。


「じゃあ、改めて自己紹介させてもらうわ。私は真行寺しんぎょうじアリソン奏恵かなえ。貴女の元居たバンド、ヴィクトリカでボーカルをしてる。楽器はギターと鍵盤を少々、たまに詞も書くわ。それと――」


 それから好きなバンドとか食べ物とか、聞いてもない事まで真行寺は喋り続ける。

 それにしてもこいつ、――改めて見ると目立つな。白すぎる肌にしても、長すぎる足にしても、明らかに普通の日本人のスタイルじゃない。妙なサングラスをつけてるせいで顔はよく見えないけど、相当な美形であることはハッキリと分かった。さっきから他の客がちらちらと見てくるのも無理はない。

 一際目を引くホワイトブロンドの髪。彫りの深い目鼻立ちは日本人離れしていて、長い睫毛の下に覗く瞳の色は、凍て付くような薄い青アイスブルー。ハーフか、父さんのようにロシア系のクォーターか。少なくとも――


「ん? どうしたの? ああ。この目? カラコンよ。かっこいいでしょう?」

「……」


 カラコンなのかよ。


「ちなみにこの髪も地毛じゃないわ。めっちゃ染めてるの」

「……」


 めっちゃ染めてるのかよ。


「詐欺だな、色々と」

「ふふ。でも私もちゃんと生まれた頃はこんな髪の色で青い目をしていたのよ。ほら、これがその頃の写真。どう? 自分で言うのもなんだけれど、めちゃくちゃ可愛いでしょう? 2歳からモデルをやっていたの」


 スマホを取り出すと真行寺は私に画面を見せつけてきた。豪語している通りそこには絵画の中の天使みたいな女の子が無邪気に笑っていて、雑誌の表紙を飾っている。


「これは5歳の頃、子供服のモデルをやっていた時ね。この時からもう歌とダンスのレッスンを始めていたわ。9歳、初めて番組のレギュラーを取れた頃ね。秀才ラヂオくんって知ってる? あれに三年間くらい出ていたわ。小野寺アリスって名前で」


 また聞いてもいないことをベラベラと喋りながら、真行寺は次々と写真を見せつけてくる。自分の写真をよくそんなに持ち歩けるな。ナルシストか?

 でも、その番組は私でも知っている。毎日夕方ごろにやってた、子役が沢山出演する番組だ。だから正直驚いた。こいつがあの、小野寺アリス? 確か当時、番組の中ではちょっとバカで歌の上手なカタコト外国人キャラとして人気を集めていた。


(元芸能人のお嬢様、か)


 身に纏う雰囲気が違うわけだ。生まれた時から敷かれたレールの上に乗って華々しい道を進んできた人間。こんな片田舎で引き籠っていた私と噛み合うはずもない。


「そういえば貴女も昔、髪を染めてたわよね音無さん。真っ赤でとてもかわいかったけれど。今の黒髪のほうが大和撫子って感じで素敵よ。私好み」


 口元に蠱惑的な笑みを浮かべながら真行寺は言う。

 いよいよもって、寒気がしてきた。


「……おまえさ、もしかしてそういうシュミなのか?」


 さりげなく伸ばしてきた手を払いのけながら言う。

 パートナーとかいう響きがさっきから不穏で仕方ない。


「別に? ただ綺麗なモノが好きなだけよ。たぶん」


 なんか今ぼそっと多分とか聞こえたぞ。


「私は貴女とバンドを組みたいの。ヴィクトリカの初代ギタリストである貴女とね。色々あったのは聞いているけれど、舞子との確執はもう解消されたんでしょう? だったら戻ってくればいいじゃない。今のヴィクトリカは貴女にとっても居心地のいい環境であるはずよ」

「……おまえが居る時点であり得ないけどな、それ」

「へえ、そう?。じゃあ貴女の心変わりを誘発しましょうか」


 にやり、と。真行寺は不穏な笑みを浮かべながら言う。


「――音無楓。?」


 舐めるようなその声に、ぞっと悪寒が走った。


「……。どういう意味だ?」

「私には業界への伝手ツテがある。あの子達がこの小さな街で埋もれていくか、外の世界に羽ばたくか。その運命の鍵は私が握っている。そしてそれは、貴女の手にも」


 心臓を素手で触れられたような不快感が襲う。

 

「……何を言ってる?」

「お友達の夢が叶うかどうかは、貴女の返事次第、そして私の気分次第って事よ」

「そんなデタラメ、誰が」

「あら。嘘だと思う? ――ねえ、音無さん。私の苗字に聞き覚えはない?」


 真行寺。しん、ぎょうじ?


『――その、ヴィクトリカでデビューさせてあげるのは無理なんだ。僕が評価してるのはあくまで君自身で、残念だけどバンドの方じゃない』


 三年前。そんな事を言っていたあの男の顔を思い出す。


「お前、一体」


 もし、仮に。私の憶測が真実だったとして。真行寺の居ないヴィクトリカはどうなる? あの三人で一体どこまでやれる。確か舞子は、――


「話を聞く気になった? 音無さん」


 魔女のような微笑みに、返せる言葉を私は持たなかった。

 

                ◆


 そして連れてこられたのは、カラオケボックスだった。

 部屋に入るなり真行寺は壁の方を向くと、首を回したり肩を回したり、ストレッチをしながらプルプルと唇を震わせる。確かリップロールとかいう歌う前の準備運動。


『―――』


 その次はハミング。音階を一つ一つ確かめるようにロングトーンの練習を始める。たまに、高宮も同じことをやっていたけどここまで入念じゃなかった。一つ終えるごとに高く、高く。天井を突き破るように高く。もはや人間の声に聞こえない高さまで登り詰める。まるで笛の音だった。


「失礼します。こちら、ドリンクの方に――!?」


 飲み物を運びに来た店員がのけぞり、すごすごと立ち去っていく。相当集中しているのか、その間にも真行寺の音程は全くブレなかった。


「……うん。上々。今日は調子がいいみたい」


 運ばれてきた飲み物には手を触れず、バッグから取り出したペットボトルの水を口に含む。そしてようやく、真行寺はカタログとリモコンに手を伸ばした。


「さて、何を歌おうかしら。……あ、音無さん。あなたも歌う? 私是非聞いてみたいのだけれど」

「歌なんかどうでもいい。さっきの話の続きを聞かせろ」

「ええ勿論。ただしそれは貴女が私の歌を聞いてからね」

「……お前のカラオケに付き合えって? 冗談じゃない」

「別に冗談で言ってるんじゃないわ? 本気よ。貴女に私の本気の歌を聞いて欲しい。そうすればきっと、貴女の考え方も変わるはずだから。――よし。じゃあまずはこの曲からね」


 サングラスをしまいこみ、マイクを持って真行寺は立ち上がる。機械の画面に表示された曲名は――『Paradise City』。アメリカのハードロックバンドGuns N' Rosesの代表曲の一つ。聞き覚えのあるアルペジオが狭い密室の中に反響する。

 難易度でいえば、高い部類だろう。まず歌詞が英語の時点で日本人にはハードルが高い。音程はとれても発音だけですべてが台無しになる。この曲のメロディーはキレのいい発声とリズムが大事だから、なおさら。仮にプロが歌っても中々様にならないはずだ。


 真行寺は堅く目を閉ざし深く息を吸い込む。

 そして、歌い始めた。


『――パラダイス・シティ楽園の街に俺を連れていってくれ』


 歌い出しは静かに、しかし驚くほど鮮烈に始まった。

 ピッチ、リズムの安定感もさることながら、英語の発音が日本人離れしている。完全にネイティブのそれだった。日本人の英語にありがちな引っ掛かりが全くない。言葉の一つ一つがなめらかに口から滑り出してくる。


 だけど、そんなことよりも。


(なんだ、この声――?)


 声。声だ。そう。それはまるで聞いた事のないタイプの歌声だった。

 少し掠れた、だけどハスキーボイスというにはあまりに甘く透き通る声。

 朧げに記憶の中にある小野寺アリスの、あの天使のようだった真っ直ぐな声とも違う。声変わりする前の少年のような不思議な響きを持っていた。


 そしてまだ序章に過ぎない。この曲はゆったりとしたサビから始まり、Aメロでテンポアップして激しいロックテイストに変遷する。真行寺奏恵という女の本領はここからだった。

 髪を激しく振り乱しながらがなり立てて、真行寺はひずんだ歌声を吐き散らす。圧倒的な声量と、ハスキーな声質も相まって、それはさながら獣じみていた。だけど決して聞き辛い音じゃない。むしろその荒々しさが爽快で、小刻みなメロディの良さを引き立てている。

 ジャニス・ジョプリン、スージー・クアトロ――いや、この低く掠れる声はもっと中性的だ。エリック・マーティンの高音域のような――それとも違う。

 高宮にしろ、あいつが絶賛していた姫路にしろ。その上手さはあくまで「高校生アマチュアにしては」という枕詞まくらことばがつく程度に収まる。

 しかしコイツは。真行寺の歌声は――今すぐにでもスタジアムで、万人の観客を魅了できる。完全に完成されたプロフェッショナルの歌声だった。

 

 ざわざわと総毛立つ。あいつが声を出す度に、心臓むねの鼓動が早くなる。

 重く鋭い演奏に似合う、激しく美しいロック・ボーカリストの声。

 それは――いつかの私が焦がれるほどに、求めていた資質モノではなかったか。


『行きたいんだ 連れて行ってくれ どうかオレを連れていってくれよ』


 ソファーに足を立てて、激しいシャウトで最後のサビを捲し立てる。やがて真行寺は覆いかぶさるように私の眼の前に立ち、とてつもなく長いロングトーンで曲を締めくくった。


『――――――』


 伴奏が終わっても、まだ伸びる。ビリビリと痺れるような威力を持つビブラート。

 ヒトの形をした楽器に違いなかった。鼓膜を焼き付くその声を全身で浴びる。


「っ……はぁ」


 そして真行寺は深く息を吐くと、艶っぽく紅潮させた顔を私に向けた。

 長い髪がしっとりと濡れて、額と頬に張り付いている。


「音無さん。――貴女に出会う為に私は生まれてきた。自分の全てを、磨いてきた」


 大きな目を潤ませて、息を震わせながら私を見る。

 

「私は貴女の声になれる。私こそが貴女に相応しい。そして、――私には貴女以外あり得ない。他の、誰にも。絶対に。――渡さないわ。音無さん」


 慈しむような甘い囁き。駄々をこねる子供のように我儘で、恋焦がれる女のように奔放で、愛を求める男のように力強い。このままこの場に閉じ込められて、取り殺されそうなほどの感情が渦巻いていた。


「さあ、次。まだまだこんなものじゃないわ。今日はとことん私の実力を貴女に思い知らせてあげる。それで少しは分かるはずだわ。私がどれほど真剣に、貴女のことを想っているか」

「……へえ? ところで、」

「何?」

「お腹すいたからポテト頼んでいいか?」

「……」


 口を半開きにして、真行寺は呆然とする。

 キメ顔で言い放った台詞を流されたのがよっぽどショックだったらしい。


「……。い、いいわよ? 奢るわ?」

「よし」


 さっそくフロントに電話する。……本当はさっさと帰りたい所だけど。さっきの話が終わっていない以上そういうわけにもいかない。とりあえず今は、冷静に。こいつのペースに飲まれないよう、余裕を持ってどう対応するか考えることにする。


(それに)


 もう少しこいつの歌を聞いてみたい自分が居るのも事実だった。――これは経験則だけれど。どういう奴なのかは、音を聞けば分かる。だから今ここで見極めよう。真行寺奏恵。この女が何者なのか、本当は何を考えているのかを。

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