第十九話「ストレンジ カメレオン」


                 ◆


 くだらない。

 結局そこに待っていたのは、くだらない日々だった。


                 ◆


 2009年、5月。私は高校生になっていた。

 久しぶりの学校生活の感想は、平凡と苦痛の二言に終わる。どいつもこいつも背丈がでかくなっただけで、中身はほとんど小学生の頃と変わらない。騒がしい奴らは、今日もどうでもいい事で騒いでいる。


「知ってる? あの子、山本先輩振ったんだって」

「音無でしょ? あいつ、ちょっと顔いいからって絶対調子乗ってるよね」

「話しかけても全然喋んないし感じ悪いよね。そのくせ毎日部室に居てウザいし」


 化粧、コーディネート、気になる男子、憧れの先輩。

 一体それが何だっていうんだ? そうやって群れてなきゃ、お前らは死ぬのか。


「なぁなぁ遊馬。お前音無と付き合ってるってマジなの? どこまで行ったん?」

「あー? そりゃーもちろんもう、イクとこまでイッちゃった的な?」

「アホなこと言ってねえで練習しろ。大体今日も速攻で振られてただろうが」

「はいはい。まったく柴崎ちゃんは今日もご機嫌斜めですねぇ~」


 ワックスでベトベトの髪、下手糞なギター、女みたいに甲高い歌声。

 お前ら全員タマでも潰されたのか? 全員マノウォーに殺られればいい。

 

 そこが高校。そこが軽音楽部。青春ごっこの餓鬼の溜まり場。


 あいつらの持ってるケータイを、弾けもしないギターを、ぜんぶ叩き折ってやりたかった。もっとも、本当にそんなことをするほどイカれてもない。だから私はギターを鳴らした。あいつらが一人も居なくなるまで、血と鋼の音を撒き散らした。生ぬるい慣れ合いを、ニヤけきった面の皮を、ズタズタに引き裂いてやった。


 そうしている内に、私が来るだけであいつらは部室を出て行くようになった。


 清々しい気持ちだった。これで思う存分、一人で好きなだけ大音量でギターを鳴らせる。冷めきった視線も、罵倒の言葉も、いっそ気持ちが良い。このままくだらないあいつらに、くだらない嫌がらせをし続けてやろうと私は思っていた。


 だけどすぐに、虚しくなった。

 間違っているのは私の方なのだと、本当はとっくに気づいていた。


 だから、今日限り。

 気が済むまで部室でギターを弾いたら、軽音学部をやめよう。

 そう思っていた5月のある日――そいつは私の元にやってきた。


「……へー」


 赤縁眼鏡をかけた、茶髪の女だった。

 掛けている眼鏡と同じくらい真っ赤な色をしたアイバニーズのギターを肩から提げて、椅子に座ってギターを弾く私を、後ろからじっと見下ろしている。

 いい加減、気が散って仕方ないから、演奏を止めてイヤホンを外した。


「……何?」

「……あ。えっと、それって、ドリームシアターだっけ? 好きなの?」


 正直、驚いた。ドリームシアターはアメリカのプログレッシブ・メタルバンド。知ってる奴は知ってるけど、知らない奴は一生聞くことはないかもしれない。そんな名前が私と同い年くらいの女の口から出てくるとは思わなかった。


「あ、ごめん。別に邪魔するつもりはなかったんだけど。音無さん、だよね?

 あたし一応同じクラスの国枝舞子っていうんだけど……ギター凄い上手だよね。小っちゃい頃からやってたの?」

「……だから? 何」

「何、って。あー……あたしも親父とか兄貴がメタル結構聞くからさ。その影響でちょっと昔から色々知ってて。ま、音無さんみたいには全然弾けないんだけどさ。たとえば、えーっと、最近練習したやつだと……」


 手近なアンプにギターを繋ぐと、赤縁眼鏡は聞き覚えのあるフレーズを鳴らした。アイアンメイデンの『The Trooper』。覚えたてなのか指運びはぎこちない。被せるようにして、私もそのイントロを弾き始める。


 ――その瞬間。


 ざわりと腹の底から上り立つものがあった。ツインリードのギターリフが、かっちりとハマってユニゾンする。押し潰してやるつもりだったのに、引き離せず、どこまでもついてくる。父さんや弟の響ならともかく、今日会ったばかりの奴と息が合うなんて思いもしなかった。

 そしてさらに、私は目を見張った。そいつが急に下手糞な英語で歌い始めたからだ。だけど流石に、途中で崩れる。


「あー、ダメだ全然。弾きながらは無理。……でも今の良くなかった!? つかやっぱ知ってんだ! すごい!」

「……別に」


 超有名なバンドの、一番有名な曲だ。知ってる奴の間では常識だろう。


「あ、ヤバイ。なんか急にテンション上がってきた。えーっとえーっと……ギターだとあたし全然だめだし……ちょ、ちょっと待ってて!」


 アンプの電源を切り、ギターを床に置くと、赤縁眼鏡は何のつもりかドラムセットの前に足を運ぶ。そして置きっぱなしにしてあるスティックを手に取ると、慣れた手つきで軽快にドラムを叩き始めた。


「これ! 知ってる?」


 ミドルテンポ、跳ね気味の8ビート。鳴ってるだけで足踏みをしたくなる心地いいリズム。エアロスミスの『Walk this way』。ラップ調のメロディと歯切れのいいギターリフが、踊るようなステップを刻む名曲だ。


「……! やっぱ知ってるし!」

  

 私が無言でリフを弾き始めると、赤縁眼鏡はぱあっと笑顔を見せた。また下手糞な英語で歌い始めるけど、ドラムのテンポはきっちりズレない。さっきのこいつのギターと噛み合った理由がそこで分かった気がした。こいつは、基礎をしっかりやってた奴だ。カチカチと鳴るメトロノーム、地味で地道なあの作業をサボらず続けた証。それが今、私達を繋いでいる。鼓動が、歩幅が、すぐ近くに感じられる。

 気づけば私は立ち上がって、アドリブでソロを弾いていた。ブレないリズムと、弾けるスネアの生音が心地よかった。そのまま永遠に弾いていられる気さえした。考えてみれば、まともなドラムと音を合わせたのはこれが初めての経験だった。


 ――これが合奏セッション

 ――これがバンドなのか。


 目を瞑りながら指板の世界に浸っていると、突然ぎゃーと悲鳴がしてスティックが床に弾け飛ぶ。赤縁眼鏡が苦笑いしながらそれを拾い上げた。


「あはは。どこで終わらせればいいかわかんないね、この曲」

「……ギターとドラム、どっちもできるの?」

「あ、うん。一応。まぁ、やってる歴だとドラムの方が全然長いかなー」

「……上手かった。テンポ、全然乱れないし」

「え? へへへ。ありがと。でもドラムあんまやりたくないんだよねー。楽しいんだけどやっぱこう、地味っつうか大変っつうかさ。女子が汗だくでドタドタやったってモテないじゃん? だから高校じゃギターかボーカルやりたいなって思ってて、まぁ最悪ベースかキーボードでもいいなって思いながら、いま全部練習中!」

「……ふうん」


 器用な奴だな。そう思いながら、私はギターをケースにしまいこむ。


「え、何? もう帰るの? いつもはもっと居るのに」

「今日でやめる。ここにはもう来ない」

「え? やめるって……部活やめるってこと? なんで!?」

「周りに迷惑だし、時間の無駄だから」


 私がそう言うと、赤縁眼鏡は意外そうに目を丸くした。


「……あー。なんだ。意外とちゃんと気にしてたんだ」

「……意外って、なに?」

「いや、音無さんってさ。全然喋んないけど、敵意だけはしっかり剥きだしっていうか。だから迷惑とかそういう自覚あったのは、ちょっと意外だなって」


 嫌味か。それとも馬鹿にされているのだろうか。

 まあ、もうどうでもいい。


「……。じゃ」

「ちょ、ちょ待って待って! ごめん! 別に今のはそういう意味じゃなくて!」


 ケースを背負って部室を出て行こうとしたところで後ろから腕を掴まれる。


「音無さんさ、……あたしと一緒にバンドやらない?」

「……は?」

「だって、あいつらのこと気に入らないんでしょ? ほら、練習もしないでずっとダラけてる連中。だから毎日、一人であんな爆音鳴らしまくってたんでしょ?」

「……別に、私は」

「いやいや。もうアレ殺してやるって目つきだったじゃん。……実はさ、あたしもあいつらの事、あんまり好きじゃないんだよね。いくらゆるい軽音楽部ったって、音楽舐めとんのかー、って感じだし。もしかしたら、音無さんもそう思ってんじゃない?」


 ぴくりと、指の先が震えた。


「……だったら?」

「だったら、あたしと一緒にバンドやらない? そう思ってんの、多分さ。絶対あたしらだけじゃないから。一人、話のわかる先輩がいてさ、とりあえずその人と話して――ってちょっ、どこ行くの!?」

「帰る」

「いやほんとに、待って、って!」


 廊下に出たところでまた腕を掴まれる。


「……あたし、国枝くにえだ国枝舞子くにえだまいこ


 人の名前を覚えるのは苦手だ。だけどそれは妙に、耳に残る名前だった。


「どうしてもバンドやりたいの。……音無さんと!」


 顔を見る。目と目が合う。赤縁眼鏡の向こう側、鳶色の瞳に煮え滾るような生気が宿っている。こいつは何か、他の奴らと違う。そんな直感があった。


「……国枝」

「! な、なに!?」

「モテたいんならそのメガネ、ダサいからやめたほういいよ」

「…………は? ハァ!?」

「じゃ」

「ちょ……待てぇ! この眼鏡のどこがださいって――ってうわ急に走って逃げた!? こ、ん、のおおおおお!」


 それから国枝舞子は毎日のように私にしつこく付き纏い、結局私はあいつに押し負けて、何だかんだ一緒につるむようになった。メールアドレスを交換した日の事は今でも覚えている。家族以外の名前が刻まれた、初めての瞬間だった。


「……んじゃ、これからよろしくね。音無」

「……よろしくな、メガネ」

「く、に、え、だ!!! ほんとアンタ喧嘩売ってんの!?」

「おいっす国枝~。お? そっちの子はもしかして例のギターの子かい?」

「あ、千尋先輩。ちゃっす。そうですそうです。音無っていう」


 舞子に絡まれていると、ひょろりとした風貌の女子生徒が姿を現した。


「おー。やーやー、初めまして。私は新垣千尋にいがきちひろ。三年生。一応軽音部の部長を務めさせてもらっている。つまり君たちの上司ボスというわけさ。ふふふ」

「……まあこの通りちょっと変な人だけど、歌は上手いから」

「く~に~え~だ~?」

「痛い痛い痛いすみません!」


 千尋先輩はさらさらと長い黒髪が印象的な人だった。軽音楽部なのにロックやメタルじゃなく、R&Bやアシッドジャズが好きという少し変わった嗜好の持ち主で、地元でオリジナル曲のライブ活動をしながらプロを目指している人だった。

 それから同学年の内田っていう(下の名前は忘れた)ベースの男子と4人で、私たちはコピーバンドを結成した。各々好きな曲をリクエストして、それができそうならみんなでコピーする。私のリクエストは却下されがちだったけど、知らないアシッドジャズや日本のバンドの曲を演るのはそれはそれで新鮮で面白かった。

 だけどそんな日々も長くは続かなかった。秋に千尋先輩が高校を辞めて東京に行ってしまったからだ。内田は他の男子に誘われて別にバンドを組み、残った私と舞子はヴィクトリカというバンドを結成して、オリジナル曲を共同で作り始めた。


「音無、音無! 一年生ですっごいギター上手い子見つけてきたわよ!」


 二年生になった春のことだった。

 教室でぼーっと基礎練をしていると舞子が一年の女子を連れて駆け込んできた。


「一年の金子波瑠です! 何だか知らないけど頑張ります!! 押忍!!」

「あれ? こんなテンション高い子だっけ……? とりあえず音無弾かせてみて」

「おおー! これギターってやつですか!? 知ってます知ってます! これをこうして……こうでしたっけ!?!?」


 最も簡単なコードの一つ、Eマイナー。普通は中指と薬指で二本の弦を押さえるそれを、この金子ハルというやつは人差し指と小指という独創的としか言いようがない抑え方をして見せた。あまりに衝撃的すぎて、もしや常識を無視した天才なのかと思ったけど、普通に素人というオチだった。


「え、双子!? もしかしてあたし勘違いして連れてきちゃった!?」

「そっすね! ま、何となくそんな気はしてましたけどね! へへへへへ!」

「何で笑ってんだろうこの子……ちょ、ちょっとその妹ちゃん連れて来てくれる?」

「いっすよ! 安芸ーーーーーーーー!!!」

「よ、呼んだ? お姉ちゃん……」

「来るの早ッ! うわほんとに双子だ……。アキちゃん、でいいのかな? ギター弾けるんだよね! ちょっと弾いてみてくれるかな」

「は、はい……」


 双子の大人しい方、金子アキは手は小さいけど指の関節が柔らかいやつだった。ディープ・パープルの「Burn」のリフとソロを、器用に弾いて見せる。


「うわ、うっま。あたしより上手。もしかして音無より上手いんじゃない?」


 カチンときて、私が『熊蜂の飛行』を高速で延々弾き始めると教室に残っていた人間がみんな顔面蒼白になり、蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。終わる頃にはアキは魂が抜けたような顔をして涙目になっていた。


「す、すみませんでした……も、もうわたしギターやめます……」

「こんのバカ無! 加減って言葉をいいかげん知れや!」

「アキちゃんギターやめるの!? じゃあわたしが始めよっかな! フッフー!」

「こいつはこいつでさっきからなんなの!?」


 双子のうるさい方、金子ハルはアホだった。成績は赤点寸前で、だけどバイタリティとコミュニケーション能力は人の3倍くらいある元気な奴で、歌は舞子より上手かったから、ギターを覚えさせつつボーカルに起用した。アキは元々興味があったというベースに転向し、こうして四人で本格的にヴィクトリカの活動は始まった。

 活動初期は私のやりすぎなギターと、ハルのわけのわからないデス声で、ライブハウスではほとんどギャグのような扱いを受けていた。だけど軽音楽部の大会を機に方針を見直して、音はヘヴィに、メロディはポップに仕上げた曲であっさりと県大会を優勝。全国大会では審査員特別賞とかいうのを貰っただけだけど、手ごたえは十分だった。

 ライブ後の会場では同年代の観客達にスターのように囲まれて、たまたま大会を見に来ていた音楽雑誌の編集者に取材までされた。結局記事にはならなくて、あのいけ好かない音楽プロデューサーと出会う羽目になっただけだったけれど。そんな事を知る由もない当時の私達四人は、地元に帰る前に千葉のテーマパークに立ち寄っていくほどに浮かれていた。


「楓。ふと思ったんだけどやっぱアンタのギターソロ1分は長すぎだわ。途中審査員白目剥いてたし」

「私は悪くない。お前が変なメガネかけてるのが悪い」

「どういう理屈だコラ!? つかアンタ付け耳とか浮かれすぎじゃない!?」

「ふ、ふたりとも落ち着いて……」

「そおそお! せっかく来たんだからぱーっと楽しみましょうよ!」


 アトラクションの長い行列に並びながら、そんな会話をしたのを覚えている。

 あの時は全員、馬鹿みたいに仲が良くて、馬鹿みたいに笑い合っていた。

 毎日音楽の事だけを考えて、それだけで幸せだった。


 ――だけど。


「楓。……アンタさ、何よ。さっきの演奏は」


 高三の、夏になった時のことだった。

 対バン相手に恵まれて、珍しくそこそこ客が入っていたブッキングライブ。

 なのに、私はひどいミスを連発して、ライブを無茶苦茶にした。


「みんなでバイトしてさ、出演料出してるのわかってるよね。ねえ、聞いてんの?

……なんとか、言いなさいよ」


 ライブハウスに出始めて一年ほど。ヴィクトリカは最悪の状況だった。

 最初は物珍しさでついていた客足も、続いたのはほんの僅かな期間だけ。あの全国大会の入賞も、世間一般の人間にとっては知る由もない事で、私達の活動には何の変化も与えなかった。もっぱら学校内や地元のライブハウスでは同学年の男子たちがやっているバンドの方が持て囃されていて、そのバンドとライバル関係にあった私達は去年の県大会での勝利を理由に、ファンたちに厄介者扱いされ、たびたび陰湿な嫌がらせを受けるようになっていた。

 チケットノルマは安くない。客の数は一向に増えない。

 全員、現状から抜け出そうと藻掻いていた。

 だけど頑張れば頑張るほど、想いはすれ違い、結果は虚しく空回る。

 私の書く曲はどんどん暗くヘヴィになっていく一方で、舞子の曲は観客受けを狙って明るくポップに明るくなっていく。

 バンドの方向性に、齟齬が生まれ始めていた。

 それが決定的になったのは高校三年目の春、ハルとアキが曲を書き始めてからだった。二人の書く曲は舞子と同じでポップス寄りで、私の書く曲とは明らかに毛色が違った。あいつらの曲に、私のギターは合わなかった。いや、合わせられなかった。三人が楽しそうにしている時も、私は自分の創作と、三人の書く曲への対応に悩み、苦しみ続けた。周囲から受ける嫌がらせも、元を辿れば私が軽音楽部の女子達と険悪な関係だったのが原因で。考えれば考える程、自分が足を引っ張っているようで居た堪れなく、気持ちは日に日に荒んでいき、学校では舞子と、家の中では母親と、毎日のように口喧嘩をしていた。


 いつ、はち切れてもおかしくない状況。

 その瞬間が、ついに訪れていた。


「……悪かった。次からは、もうヘマしない」

「……そ。じゃあ次からはちゃんとして。前から言ってた通り、今日限りで方針を変更する。みんなで衣装着て、やる曲もあたしが決める。それでいいわよね」


 頷けばよかったのに、頷けなかった。

 毒気が収まらなくて、吐き散らした。


「……本気であんな馬鹿みたいな格好する気なのか?」

「……は?」

「そんなにやりたきゃ、勝手にやれよ。私はやらない」

「やらない、って……アンタ自分が何言ってるかわかってんの?」


 沈黙を保っていると、舞子は私に掴みかかってきた。


「……ッ! いつまでも、ガキみたいなこと言ってんな! わがままばっかり言って! こっちがアンタに合わせるのどれだけ苦労してると思ってんだ! 少しはあたしらに合わせようとか、そういう気持ち、アンタにはないのかよ!」

「ままま、舞子先輩、落ち着きましょうよぉ。その~、穏便に、みたいな……」

「ハル、黙ってて! ……楓! あたしの眼ぇ見ろ。ちゃんと眼ぇ見て話せ! ……アンタさ。最近ほんとに変だよ? 何か、隠してんじゃないの? ねえ。黙ってないで、何とか言いなさいよ」

「せんぱい……」「楓先輩」

 

 壁に押し付けられながら、心配そうにこちらを見る二人と目が合う。

 その時の私には、それすらも苛立たしかった。


「……言ったところで、なんなんだ?」

「……え?」

「……お前らに、何が分かるんだよ」


 小学生の頃から引きこもりで、友達の一人もできなくて。人が嫌いで、学校が大嫌いで。ギターと、メタルと、父親と過ごす時間にだけ救われてきた。

 どう考えても、イカれてる。あいつらが言った通り「まとも」じゃない。

 感覚が狂っている。性格が壊れている。

 生まれた時からきっと、私は何かが欠けている。


「楓、アンタ、泣いて――?」


 最初から知ってたはずだろ。私は「まとも」じゃないって。

 なのに何で、お前らまで、そんな目で私を見るんだ?

 理解できないものを見るみたいに。化け物でも見るみたいに。

 あいつらと同じ目で、私を見るんだ。

 それなら、――最初から。


「――舞子。おまえに、何が」


 胸倉を掴む手を掴み返す。ぎりぎりと締めあげながら、睨みつける。

 そして、憎悪は破裂した。


「――私の何が、おまえに分かるんだよ!」

「――楓、」


 自分とは思えない叫び声が腹の底から響き渡る。

 呆然と目を剥く舞子の腕を振り払い、突き飛ばした。


「か、楓先輩、落ち着いて、きゃっ――!」


 駆け寄り、手を伸ばしてきたアキを反射的に突き飛ばしてしまう。細い身体は嘘のように軽く、楽屋の机に突っ込んでいった。テーブルの上に乗っていたグラスが音を立てて割れ、ぽたりと赤い血が床を染める。


「あ、アキ! アキ! 大丈夫!?」

「だいじょう、ぶです」

「……! ち、血ぃ出てる。やばいって! ……楓!? どこ行く気!?」


 呼び止める舞子の声も聞かず、私はその場から逃げ出した。視界はぐにゃぐにゃに歪んで、全てが壊れていくような音がした。狂ったように夜の街を走り回り、疲れ果ててベンチに座り込んだ。自分のしでかした事に吐き気を催しながら、無意識のうちに携帯の電話帳を開き、電話をかける。出ない。出ない。出るわけがない。


 だって、父さんはもう居ないから。 

 その日の朝に、何の前触れもなく、死んでしまったから。


「……、なんで」


 なんで、こんなことになる?

 一体、なんで。


 この半年ほど前のことだった。父さんが、うつ病になったのは。

 切っ掛けは工事現場で仲の良かった同僚の事故死。具体的に何があったのかは聞かされていない。ただ、父さんはそれが原因で仕事が手につかなくなり、自主的に退職をしてしまった。それ以来、見せる笑顔はぎこちなく、食事も殆ど喉を通らず、酒を飲む量だけが異様に増え、やがて心療内科でうつ病だと診断された。

 うつ病。――大げさな話だと父さんは言い、私たち家族もまだその時は、事態を重く受け止めては居なかった。実際に父さんは平気そうにして、次の仕事を探すと意気込んでいたし、気分の浮き沈みが激しい私や母親と同じように、きっと時間が自然に解決するだろうと信じていた。


 だけど、父さんの病状は一向によくならなかった。


 日雇いの仕事もほとんど続かず、家に居る時間が日に日に多くなっていった。

 母親に申し訳なさそうに頭を下げ、私や響と目を合わすと気を遣った様子で話しかけてきて、力なく笑う。趣味のギターやバイクにはほとんど触らず、ぼーっと缶ビールを片手に、楽しくもなさそうにテレビを見ている時間が多かった。

 その間、私は自分の部屋でひたすら曲を作り続けていた。

 別人のようなあの人に、一体何を言えばいいのか分からなかった。

 さんざん依存してきたくせに、ありきたりな優しい言葉しか吐けなかった。

 自分とバンド、そして音楽。抱えている問題は山積みで、足りない時間と一向に好転しない状況に挟まれ――私は結局、自分の時間だけを優先した。

 早くプロになって、あの人を安心させようなんて、そんな絵空事を思いながら。

 

(その結果が――これなのか)

 

 死因は、窒息死だった。

 珍しく早起きしていたあの朝、父さんは学校に行く私を玄関で見送った後、泥酔したままリビングのソファーの上で眠り、吐瀉物を喉に詰まらせた。昼前に起きてきた母親がそれを発見して、連絡を受けた私はすぐ病院に向かった。

 病室のベッドに横たわった父さんの姿は、とても死人には思えなかった。

 すこし疲れて、眠っているだけのように見えた。

 だけど、もう。私がいくら声をかけても目を覚まさなかった。

 医師や母親の言葉も殆ど耳に入らず、涙の一粒も出ないまま、いつの間にか夕方になっていた。放課後にライブがある事を思い出した私は、浮ついた足取りのまま病室を抜け出して、そのままステージの上に立ち、ボロボロの演奏をした。


 やるべき事は分かっていたはずなのに、いつもそうだ。

 なんで何一つ、私はうまくできない?


 家族としての役目も果たせず、さんざん迷惑をかけてきた恩も返せず。

 大切だった音楽も、大好きだった人達も、ぜんぶ無茶苦茶にしてしまった。

 

「……何が、音楽だ」


 何が好きな事だ。やりたい事だ。

 私の音楽も、私の存在も。結局、誰かを不幸にしただけじゃないのか。

 こんなモノに馬鹿みたいに時間を割いて、馬鹿みたいな夢を見なければ。

 あいつらの邪魔をすることもなかった。あんな風に傷つけることもなかった。

 その代わりに、どんなにヘタクソでも「まとも」になる努力をしていれば。

 私は父さんを、死なせずにすんだんじゃないのか。

 あのビール缶の山の代わりになるくらいの事は、出来たんじゃないのか。


「っ、……」


 それも、ただの言い訳だ。

 後悔しても遅い。過ぎ去った時間はもう元には戻らない。

 でも、どうすればいい? 

 バンドにはもう戻れない。あの人の居ない家に居たくない。葬式なんて考えたくもない。どうしても帰りたくなくて、私は当てもなく街を彷徨い始めた。

 うだるような暑さと、汗ばんだ服の嫌な感触を今でも覚えている。

 夜は街中の運動公園でほとんど寝れずに朝を待ち、昼は座れる場所を転々として、浅い眠りに身を委ねた。最初の夜に音楽プレイヤーの電池が切れた。二日目の昼に携帯の電池が切れて、三日目の朝、うとうとしていた隙に財布を盗られた。

 五日目、駅のトイレの鏡に映る自分の顔は幽霊のようだった。ろくに飲み食いもしていないせいか頬は痩せ、隈がひどくて、唇が割れていた。ほんの数日、風呂に入っていないだけでひどい臭いがした。横に立つ女が、私を見て顔を顰めていた。

 七日目はもう、殆ど歩けなかった。トイレの個室でぐったり気を失っていると、清掃員に扉をドンドン叩かれて目が覚める。外に出るともう夜で、運動公園まで歩く力もなかった。今頃とっくに父さんの葬儀は終わって、遺体は骨になっているに違いなかった。砂漠のような街を彷徨いながら、私も骨になってしまいたかった。

 やがて、路上でうずくまっていると、知らない男に声を掛けられた。

 朦朧とした意識の中、適当に頷いていると、マンションの部屋に連れていかれた。与えられたコンビニ弁当を食べ、服を脱ぎ、シャワーを浴びた。脱衣所で裸の男とすれ違い、下着姿でベッドに寝転んだ。知らない臭いに吐き気がした。コンドームの箱で眩暈がした。だけどもう、全部どうでもよかった。自分を粗末に扱いたかった。クズの私に相応しい、ゴミのような報いが欲しかった。

 男がシャワーを浴びる音を聞きながら、ぼうっと天井を見上げていると、さっき充電し始めたばかりの携帯が鳴り響いた。不在着信が46回、新着メールが24通。待ち受け画面の愛犬が、舌を出して微笑んでいた。   

 そして、急に怖くなった。

 すぐに服を着て、逃げるようにマンションを飛び出した。走って、走って、明け方になる頃、やっとおじいちゃんの家まで辿り着いた。おばあちゃんが私を抱きしめて、震えが止まるまで手を握ってくれた。埃だらけの父さんの部屋で、メタリカのレコードを聞きながら、ようやく私は眠りについた。

 母親の怒鳴り声で目を覚ました。思い切り平手が飛んできて、私も平手を打ち返した。おじいちゃんが仲裁に入って、しばらくそっとしておいてくれと言った。吐き気と頭痛は、まだ収まらなかった。

 暗い部屋で毎日を過ごした。何を食べてもすぐに戻した。頭の中が無茶苦茶で、音楽を聴くことさえも苦痛になっていた。痛みだけが自己嫌悪を紛らわせた。煙草を吸って、酒を飲んで吐きまくって、それでもまだ足りなかった。

 苦しみから逃げ出したくて、ドアノブにベルトを引っ掛けた。ギターを届けに来た弟が、倒れている私を見つけた。


 それから何も起きない。

 何も起きないまま、一年が過ぎた。


                 ◆

 

 ある日の夕方。

 ザックの散歩をしていたら、河川敷であいつの姿を見た。傾いた草むらに座り込んで、アコースティックギターを鳴らしながら、ひどく寂しい曲を歌っている。

 私はザックと一緒に足を止めて、その歌に聞き入っていた。

 

 あいつは一体、今何を思ってるんだろう。

 

 あの日、何が起こっていたのか。ぼんやりと噂には聞いた。

 辛かったはずだ。逃げ出したかったはずだ。

 嫌になるくらい、自分の惨めさを噛み締めたはずだ。

 だのに何でお前はまだ、そんなものにしがみつく。


 理想を殺せば、楽になれる。

 夢を諦めれば、平穏に生きられる。

 人生なんて、そういうモノだろう。

 もうお前だってそれくらい、知ってるはずだろう。


(……変な歌)


 日が沈んでも、いつまでも歌い続けている。

 自分で色を変えられない、カメレオンの歌。

 居場所を見つけに行く、はぐれ者の歌。

 

 そんな風に生きたいのか。まだそんなモノに、お前は憧れるのか。 

 見苦しい。いっそ、消えてしまえばいいと願う。


 だけど、いつまで経っても消えない。

 目を逸らしても、焼き付いて離れない。


 ずっと、耳に残り続けて。

 私の胸を、燻ぶらせる。


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