第十一話「冷たい花」
◆
「……つまり、どういうことですか」
駅内の喫茶店。目の前に座るその男に、私は問いかける。
「ああ。だから結論を言うと、君のバンド……なんだっけ、芦田くん」
「ヴィクトリカです」
「その、ヴィクトリカでデビューさせてあげるのは無理なんだ。僕が評価してるのはあくまで君自身で、残念だけどバンドの方じゃない」
口に残ったコーヒーの味が、やけに苦く感じた。
「一人、君と同じ歳くらいの子で、デビューさせたいボーカリストが居る。君にはその子と組んで貰いたい。つまり二人組のユニットという形で僕がプロデュースして、活動してもらうという事になるな。楽曲制作には君も加わる事になるが、基本的にはこちらの用意した曲と指示に従って貰う」
「……そんなのは」
「卑怯だ、とでも言いたいか? 堅く考えすぎだ。君の提案は聞くし、持ってきた曲が採用される事も、もしかしたらあるかもしれない。バンドなんて真っ当にやってたらある程度有名になる頃には二十も半ばだ。その手間を省いてるだけだよ。別にバンドでデビューした方が偉いってわけでもないだろ。それに僕から言わせたら、スタジオミュージシャン達こそ、本物のプロだ。彼らと仕事をするのは、君にとっていい経験になるだろう。売れるかどうかはまた別だが、少なくとも業界に君の名は残るし、次の仕事が来るかもしれない」
言っている事は、辛うじて理解ができた。
だけど、どうしても納得できない事がある。
「……私達のバンドは、どこがダメなんですか? 具体的に理由を教えてください」
「具体的に、か。……まあ、強いて言うなら全部だな」
「……全部?」
「単純に未熟ってことさ。もちろん、高校生にしてはよくやってる。やりたいことも分かるよ。ああいう昔臭いハードな曲をやるガールズバンドはあんまり居ない。だけどそれは中学生がビートルズのカバーをして、おじさんたちに今時珍しいなんて褒められる――その程度のことでしかない。つまり、本質的な個性。オリジナリティが欠けてるんだ。そういうモノに、僕は価値を見出さない」
これまでの全てを、踏みにじられるような言葉だった。
煮えくり立つ感情を抑え込みながら、必死に声を絞り出す。
「じゃあ、……私の価値って、なんですか」
「……僕は嘘が嫌いだ。君もそういうタイプだろ? だからこの際はっきり言おう」
煙草を灰皿に擦りつけると、目の前の男は掛けていた真っ黒なサングラスを外す。
「君の一番の才能は、君が若い女の子で、容姿が優れているということだ。だからこそ、そのギターの腕にも代えがたい価値がある。言い方は悪いが、これは重要な事だ。より多くの人間に、音楽を届ける為にはね」
皺の刻まれた目元は穏やかで、話す言葉はどこまでも優しげで。
だから余計に、癪に障った。
「……売れる事って、そんなに大事ですか」
「さあな。だが、機会は大事だろう? 誰にも知ってもらえない音楽に、何の価値がある? そんなものは、存在していないのと変わらない。才能があるのに、つまらない価値観にこだわって、結局何もできず消えていった人間を僕は何人も見てきた」
どこか遠い眼をしながら、男は私の顔を見る。
「……君も、そういう目をしているな」
そして、何故か。ひどく楽しそうに男は笑った。
「し、真行寺さん。若い子相手に厳しく言いすぎですよ。しかも初対面なんだから。その、もう少し、気を遣って言葉を」
「ん、そうか? ……まあいい。それじゃあ音無くん。君の結論を聴こうか」
「……お断りします」
決まりきった答えを返すと、目の前の男はやはり嬉しそうに笑みを零す。
「なるほど。了解した。それじゃあ交渉は決裂だな」
「はい」
コーヒーを一口啜った後、男はサングラスを手に席を立つ。
「時間をとらせてすまなかったな。気をつけて帰るといい。芦田くん、会計は僕が済ませておくから、あとは頼むよ」
「は、はい。分かりました」
「ああそれと最後に一つ。老婆心で言っておきたいことがある。聞く気はあるか?」
「……。聞くだけなら」
挑発的な物言いに、挑発的な口調で返す。
「君のバンド、君ともう一人の子で別々に曲を作ってるだろう。長く続ける気なら、君はサポートに徹した方がいい。曲はもう一人の子に任せるべきだ」
「……? なぜですか」
「君、苦しみながら曲を書いてるだろう」
ぞわりと、腹の底に嫌な感覚が立ち上った。
「夢中になった結果として苦しむならいい。だがもし最初から無理に書いているのなら、やめておけ。君には向いてない」
「……向いてないって、なにが」
「重すぎるのさ。君の、根底にあるものが。憎しみか、嫌悪か。はたまた孤独か。勿論そういう鬱屈とした感情を好む人間もいるだろう。だが少なくとも僕は見たくもないし、触れたくもない。――だってそんなもの、自分の中だけで十分だろう?」
サングラスを掛けなおしながら男は言う。
「何かを為したいのなら、独り善がりはやめろ。周りを見渡して、自分が何をできるのかを考えろ。……言いたいことは以上だ。それじゃあな」
そして男は喫茶店を去っていった。勝手な言葉と、煙草の嫌な匂いだけを残して。
残ったモンブランケーキに口をつける気にもなれず、しばらく私は黙り込む。
「すまない。……引き合わせるべきじゃなかったのかもしれないな」
「……いえ」
芦田さんが申し訳なさそうに頭を下げてくる。父さんと同じくらいの歳の、音楽雑誌の編集者。先月あった軽音楽部の全国大会の時に知り合った人だ。この人を伝って、あの音楽プロデューサーが私に興味を持ち、わざわざ東京から会いにきた。
「真行寺さんは、ああ言っていたけど。僕はヴィクトリカの曲は全部、凄く良いと思ってる。だから、っていうのもなんだけど……どうか気を落とさないで欲しい」
「はい。……それじゃ、練習があるので」
「ああ。……頑張って」
喫茶店を出て芦田さんと別れた後、すぐに電話をかける。
「……終わった。……ああ。分かった」
言われた通り、すぐ近くのコンビニを目指して歩く。
駐車場に辿り着いてから数分、赤い車が外に聞こえるくらいの重低音をまき散らしながら姿を現した。それが近づくにつれ、さーっと血の気が引いてくる。かけている曲が、物凄く聞き覚えのある……というか、私の作った曲だったからだ。
ドアを開いて助手席に座るなり、私は速攻で音量をゼロにする。
「……いい年した中年が。街中で爆音流して恥ずかしくないのか」
「かつてある男は言った。――音量を下げるくらいなら、俺は死を選ぶと」
「そんな面白い死因じゃ、残された家族も浮かばれないな」
「はっはっは。相変わらず手厳しいな楓は。せっかくいい曲だったのに」
車を出しながら、ティアドロップ型のサングラスをかけた父さんは笑う。むかつくからサングラスを奪い取って私が掛ける。
「それで、そのプロデューサーってのはどんな人だったんだ?」
私は無言のまま、ポケットに突っ込んでいた名刺を手渡す。
「真行寺……? って、まさかあの真行寺正隆か! 凄い人に会ってきたな」
「知ってる?」
「いや、俺もよくは知らないけどな。楓が生まれた頃に、色んなアーティストをプロデュースしてバンバンヒット曲出してた人だよ。俺でも覚えてるんだから、相当な有名人だ」
「……へえ」
どおりで態度がでかいわけだ。
「それで、どんな話をしてきたんだ? 一応、スカウトってことだったんだろ?」
「断った。全員じゃなくて、私だけとかいう話だったし」
「……そうか。でも、本当にいいのか? 舞子ちゃん達とちゃんと話し合ってから」
「あいつらがどう思うかなんて関係ない」
「楓」
「私が、あいつらと一緒にやりたいんだ。誰に何を言われたって――私は、」
あいつらの事が好きだから。初めて出来た友達だから。
言葉にしてしまえば、あまりにも幼稚で。とてもじゃないけど声には出せない。
「……そうか」
だけど、父さんは笑った。私が言葉を詰まらせるのを見て、何かを分かったみたいいに。とても幸せそうに笑った。――この人はいつもそうだ。勝手に自分の中の想像で私という人間を決めつける。だけど、それであっているのだから、私もどうしようもない。本当に、単純で――どうしようもない。
車は大通りから脇道に入り、スタジオ近くの公園前に留まった。
後ろの席からギターケースを引っ張り出すと、父さんが私を呼び止める。
「楓。さっきはよく言った。それでこそ俺の娘だ」
「…………ちっ」
「いや何も舌打ちすることないだろ……」
するに決まってるだろ。さっきのいけ好かないプロデューサーといい、いい年こいてクサい台詞ばっか吐きやがって――そんな嫌味でも返してやろうと思ったその時、公園で私を待つ三人の姿が目に映った。
「ほら、行って来い」
「……ん」
ギターケースを背負って歩いていくと、三人はすぐに私の姿に気がついた。
「あ、楓先輩」
「ん? おおお! 楓せんぱああい!」
「やっと来た。パパに送り迎えして貰うなんて、お嬢様みたいねアンタ」
「おまえん家が貧乏なだけだろ」
「ああん!? 別に貧乏じゃねえわ! 愛情がねえのは確かだけど!」
「ま、また始まった……」
「もー二人ともほんと仲良しなんですからー。ほら、行きましょ行きましょ!」
父さんが居て、舞子達が居て。あの頃の私には、それだけで十分だった。
ただそれだけで、十分だったのに。
◆
「音無さん?」
「……え?」
一ノ瀬の声がして、我に返る。目の前にはコーヒーと手つかずのモンブラン。
あの日と同じ駅内の喫茶店だった。だからだろうか。つい昔の事を考えていた。
「ぼーっとしてたけど、大丈夫? お腹痛いとか?」
「……いや、別に」
フォークで、手つかずのモンブランを食べ始める。
その時、ふと。ある事に気が付いた。
「一ノ瀬。今日って何曜日だっけ」
「? 木曜日だけど。どうしたの?」
「……。しまった」
「え?」
◆
今日は木曜日。私が夕飯を作らなければならない日だということをすっかり忘れていた。一ノ瀬と別れた後、何とか日が暮れる前に家に辿り着く。いつも通り、まずは愛犬のザックの居る中庭を覗くと、そこには祖父の姿があった。
「やあ、カエデ。おかえり」
「……ただいま」
「今日は帰りが遅かったんだね。フミコが少し心配していたよ」
白い口髭を貯えた祖父はそう穏やかに笑う。フミコ、というのは祖母の名前。時計を確認するともう六時を過ぎていた。
「……ごめん。ザックの世話、私の仕事なのに」
ザックはもうご飯を食べ終えたらしい、私を見るなり尻尾をぶんぶん振って駆け寄ってくる。
「いいんだよ気にしなくて。それに散歩はヒビキが行ってくれたから」
「……響が?」
「ああ。さっき一人で来てね。今日は泊っていくって」
「……そう」
響。四つ下の弟。この家に来るのはいつぶりだろうか。
でも何で急に。――まあ、いい。やることを優先だ。
祖父と一緒に玄関に戻り、カラカラと鳴る横引き戸を開ける。
古びた二階建ての一軒家。一年前から私はここで父方の祖父母と暮らしている。
父さんが死んで一年経った後、母親は再婚した。相手は同じ年に妻と子供を亡くした人だった。母親が強い人間ではないことも、その人が決して悪い人ではないことも、頭では分かっていた。だけど私はそれを受け入れられなくて、元々仲が悪かった母親と大喧嘩をした。別に殴りあったわけじゃないけど、言葉で斬り合い刺し合い――思い出すだけで胸糞が悪くなる。
結局あの人は強引に事を運び、元々住んでいた家を思い出がちらつくからと売り払い、弟を連れて再婚相手の家で暮らし始めた。当時十四歳の弟は養子縁組を断れず名字が変わり、私は祖父母の養子縁組にしてもらってこの家に来た。父さんの私物と、愛犬のザックを連れて。
「あら楓ちゃん。おかえりなさい」
台所に入ると、既に祖母が夕飯の支度を始めていた。少し小柄で痩せた人。いつも元気でにこにこ笑っている。父さんはきっとこの人に似たんだろうと思う。私は、全然似ていない。
「おかえり、姉貴」
その傍らには、弟の姿。相変わらず鏡でも見てるみたいに私と顔がそっくりで気色が悪い。また少し背が伸びて、もう私と同じくらいになっている。思春期に入ってから急に生意気になった眼つきと口調はそのままだ。耳のピアスとやけにでかい眼鏡は、ファッションのつもりだろうか。
「……ただいま」
「帰りが遅いから心配したのよ。何かあったの? 大丈夫?」
「別に何も。……あといいよ。私がやるから」
「そう? じゃあお願いするわね」
「おまえも、いいから」
「ああ。……姉貴。あとでちょっと話があるんだけど」
「……話? 何の」
「それは、……とにかく、また後で」
それから夕食を終えた後、二人で階段を登る。二階は手狭で、登り切った先には二つの扉があるだけだ。右は私が寝室として使っている部屋、左は昔父さんが住んでいた部屋。
「……うわ」
開口一番、左の部屋に入るなり響は顔を顰めた。少し埃っぽい、六畳間の部屋。家具や壁には煙草の匂いが染みついてすっかり黄ばんでいる。貼られっぱなしのポスターと棚の中に納められた大量のレコードは父さんが十代を過ごした80年代の時のままだ。そこに私が前の家から持ってきた大量のCDや雑誌が詰まった段ボールが適当に散らかっていて、ほとんど足の踏み場もない。
「少しは片付けろよ。ああ、もう。こんなに埃が……」
言うと響はゴミ箱に突き刺さったハタキを手に取って勝手に掃除を始めだす。そのうちやるつもりだったのに、余計な事をする。……でもまぁ少し片づけるか。
家に居る時の大半の時間を、私はこの部屋で過ごす。CDとレコード両方を再生できる機器があって、ブラウン管のテレビはもう何の番組も見れないけれど、DVDを見たりする分には支障がない。
置いてあるギターは三台。父さんの白いギブソン・レス・ポール・カスタム、マーティンのアコギ、そして私が小さい頃から使っている、塗装の剥げた赤いフェンダー・ストラトキャスター。他にもあったけど残ったのはこれだけ。他は全部、家と一緒に母親が売ってしまった。
「……それで? 話ってなんだよ」
あらかた片付け終えた後、テーブルを囲む二つの古びたソファーにそれぞれ腰を落ち着ける。
「一応、昨日メール送ったんだけど、見た?」
「全然」
「まぁ、だと思ったけど」
呆れた様子の響を無視して、制服のスカートのポケットから携帯電話を取り出す。新着メールが10件以上。全部こいつからだ。今の私のアドレスを知ってるヤツが他に居ないせいだけど、ぱっと見、なんだか気味が悪い。
「いいよ、もう。直接話す。……オレ、こないだ舞子さんたちのバンドのサポートやったんだけどそれは知ってた?」
「知るわけないだろ、そんなこと」
「……金子さん達は会いたがってたよ。舞子さんも、すごく心配してた」
国枝舞子とは同い年。一つ下の後輩の金子姉妹と一緒に私は二年前まで「ヴィクトリカ」というバンドをやっていた。だけど方向性の違いから仲違いをして、私がバンドを出ていく形になった。それからは何の音沙汰もない。絶交状態だった。
「……で? あいつらに、伝言でも頼まれたのか」
「いや、それは別に。ただちょっとオレも、元々やってたバンドと色々あって。今は別のバンドやってんだけど」
「回りくどい。さっさと本題を言え」
「……。今やってるその別のバンドっていうのが、うちの高校の軽音楽部の先輩たちのバンドで、オレも今週軽音楽部に入ったんだけど。……姉貴も軽音楽部だったろ。今ちょうどギター探してるんだ。だからその、……一緒にバンドやらないかって」
「バンド? ……今更やるわけないだろ、そんなの」
「何で?」
何でもなにもない。理由なんか単純だ。
「無駄だから」
「……無駄?」
「だって、無駄だろ。金と時間かけて、狭苦しいスタジオで練習して、それが終わったらライブして、高いノルマ代払って。ずっとその繰り返し。一体何の意味があるんだ? どうせやるのは誰かの真似事だろ。……くだらない。馬鹿みたいだ」
吐き捨てるように私は言い切った。
「……何だよ。なんなんだよ、それ」
響の目つきが険しくなる。
「くだらない? 馬鹿みたいだ? ……何で、そんなこと言えんだよ。姉貴だって、前はあんなに必死に、バンドやってただろ」
「やってたから言えるんだろ。あんなの何の意味もない。……全部、無駄だった」
思い起こすのは、過ぎ去った日々の残響。閑散とした客席に、私達の音楽が空しく溶けていく。注いだ情熱も、込めた思いも。何一つ届かない。たとえ『それ』をどれだけ自分が好きでいても。『良いもの』だと信じていても。――結局。私達以外にとってそれは『どうでもいいこと』の一つに過ぎなかった。
「……誰にも届かない音楽に、一体何の価値がある? 答えてみろよ、響」
「……別に。音楽をするのに理由とかいらないだろ。楽しければ、それで」
「……楽しければ? それって結局、自己満足だろ? それに音楽をやることに理由がいらないなら、音楽をやらないことにも別に理由はいらないだろ。……いい加減わかれよ。私はもう、音楽なんてどうでも――」
「っ……!」
怒り、目を見開いて、響が立ち上がる。
「なんで……なんで姉ちゃんはいつもそうなんだよ! どうしてそんなに卑屈になって、何でも悪い方に決めつけるんだ! そんな風にしてたって、何も変わらないってこと、自分が一番よくわかってんだろ!? いつまでもグチグチ言って引きこもってるだけで、そんなのまるで、……子供みたいじゃんか!」
響はそう声を荒げた後、我に返った様子で目を伏せる。――こいつがこんなに怒ってる所、初めて見た。言っている言葉は、今更過ぎてまるで胸に響かないけど。
「……それで? 言いたいことはそれだけか」
「……っ父さんだって、きっと、こんなこと望んでなんか」
その言葉にだけは、黙っていられなかった。
響の胸倉を無理やり掴んで、力任せに引き寄せる。
「……死んだ人間のことを。おまえが勝手に語るな」
「……ごめん」
お互い深く息を吐きながら、ソファーに座り直す。
「……姉貴」
「……今度はなんだ」
「……本当は、……怖いだけなんだろ?」
目線も合わせず、響は言う。
「……何もしないのは、何もしたくないからじゃない。何かをするのが怖いんだ。自分や誰かが傷ついたり、変化が起きる事を恐れてる」
「……は?」
「そのくせ、現状への不満だけはしっかりあるんだろ? 今の自分とか、生活とか。あらゆることに納得がいってない」
ぴくり、と無意識の内に身体が動いた。
「今、むかついただろ。でも何も言わなかった。……そういうとこだよ。姉貴はほんとは何かやりたいくせに、ずっとそれを我慢してるんだ」
「……違う」
「違わないだろ。本当に何もやりたくないなら、こんな風にちゃんとギターの弦を張り替えたりしない。わざわざ楽譜に付箋なんか入れたりしない。……ジブリの曲なんて、柄じゃないよな。誰かに聞かせるつもりだったんじゃないのか? 最近話してる、あの背の低い先輩にとか」
「……っ!?」
無造作にテーブルの上に置かれた楽譜本をぺらぺらとめくりながら響が言う。いつの間に、それの存在に気づいてたんだ。一ノ瀬が知ってそうな曲が思いつかなかったから、最近はずっとそれを練習していた。
「音楽がどうでもいいなんて嘘だ。本当だったらこの部屋はもっと片付いてる。CDもレコードも、ギターだって全部捨ててよかったはずだ。なのにこうして残ってる」
言い返そうとしても、何も言葉が出てこない。
どうでもいいはずの言葉が、胸に突き刺さって抜けなかった。
「……なあ、姉貴。ほんとはもうとっくに、気づいてんだろ? 姉貴を責めてるのは、姉貴だけなんだって。もういいだろ、そういうの。……どんなひどい奴だって、前に進んでいいんだ。そんな風に自分を、苦しめ続けなくていいんだ」
また、腸が煮えくり返るような感覚が襲った。
奥歯を噛み締めながら、私は響を睨みつける。
「……響。おまえ、さっきから何がしたいんだ? なんで今日に限って、そんなに突っかかってくる」
昔からコイツとは喧嘩なんかほとんどしなかった。したとしても、すぐにコイツの方が折れて有耶無耶になっていた。なのに、なんで今日に限ってこんなことになる。
「……オレは、ただ」
目を逸らし、絞り出すように響は声を震わせる。
「姉貴と、バンドがしたい。父さんと三人でやってた――子供の頃の時みたいに」
「……え?」
まさか。さんざん引っ掻き回しておいて。まさかそれが、本音なのか?
それって、おまえ、
「し、シスコン野郎……」
ドン引きしながら私は言った。
「は? ……あ、いや、ちがっ!? オ、オレはただ、姉貴が音楽やってないのが、むかつくだけなんだ! オレと組みたくないんなら、それはそれで別にどうでもいいっていうか」
「……なんだ、それ」
どっちにしろ意味がわからない。
「っ……とにかく、一度先輩たちに会ってみて欲しい。それで一回だけでもオレたちと音合わせて、それでも音楽がどうでもいいっていうんなら――もう何も言わない。だから、……頼む」
そう言って響は深く頭を下げる。下げたまま、ずっと動かない。
大きく溜息を吐いた。嫌味を吐くのもそろそろ面倒くさかった。
この調子だとこいつは毎日家に来るんだろうし、仕方ない。
「……そのドラムの先輩、ってのは。どんな奴だ」
「! ええっと。金髪で、ちょっと目つきは悪いけど、凄い良い人で」
金髪で、眼つきの悪い女……? それってもしかして。
「……お前のバンドってもう一人、変な茶髪の奴が居たりしないか」
「え? ……ああ。もしかして、この人?」
響が携帯の画像を見せつけてくる。そこには案の定、あのサングラスのアホが映っていた。なるほど。お前がうちの弟をたぶらかしたのか。……なら。
「分かった。じゃあ今度、そいつらのとこに連れてけ」
「! ああ、じゃあ――」
「響ちゃ~ん、ちょっと手伝ってくれる~?」
「はーい! 姉貴、すぐ戻るから話はまた後で」
下の階の祖母が響を呼び、私は部屋に一人きりになる。
赤いストラトを抱えながら、私は響の携帯に映る茶髪の顔を睨みつけた。
……お前も、響も、別にバンドでも何でも好きにすればいい。
……だけど響は、お前なんかが関わっていい存在じゃない。
あいつは、私と違ってまともに育った。
だから、まともに生きなくちゃいけないんだ。
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