第6話 呼び方
八月三十一日。暦の上では夏が終わるはずなのに、未だ外界は唸るような暑さだ。連日各地の気温をニュースで見ては、「暑そうだなあ」なんて呟き冷房の効いた室内でだらだらと過ごしている。
メイドさんが我が家に来てからすでに十日ほど経過した。多少は距離が縮まったと信じたいが、普段は塩対応のままなのでわかりづらい。そして何より、最初の日以来名前を呼ばれていないことが距離が縮まったかどうかの判別をしにくい大きな原因となっている。
呼び方。対人関係において重要なファクターの一つだ。呼び方ひとつで信頼度や親密度が測れると言っても過言ではない。
別に「ご主人様」とか、そう呼んで欲しいわけではないのだ。いやまあ、呼ばれたいか呼ばれたくないかで言えば呼ばれたいけど。
ただ、このままずっと具体的な呼び方なしで過ごすのがなんとなく寂しいのだ。どうにかならないものか。
そんなことを考えていると、ゴミを出しに行っていたメイドさんが帰って来た。
「郵便物です」
そう言って渡された紙たちはチラシやら広告やらいらないものばかりだったが、ひとつメイドさん宛の封筒を発見した。
「これ、メイドさん宛だよ」
「私宛……?」
彼女は封を切り、中身を確認する。すると、手紙らしきものと紙切れが2枚入っていた。
「実家からでした」
「なるほど」
当たり前だけどメイドさんのご両親俺の家知ってるんだよね。これいつ乗り込まれてもおかしくねえじゃん。まじで色々と気をつけよ。
いつか起こりうる恐怖に身を震わせていると、手紙と同封されていた紙切れを持ってメイドさんがこちらにやって来た。
「これ、東京サマーパークのチケットらしくて……」
「あ、そうなんだ。こっちに誰か知り合いとかいるの?」
なんだかいつもと感じが違うメイドさんにそう聞くと、「いえ、それが……」と口籠る。何か言いにくいことでもあるのだろうか。
「明人さんのお子さんと行って来いって……」
「まじで言ってんの?」
もしかしてメイドさんのご両親、倫理観ぶち壊れていらっしゃる?一人娘をメイドとして一人暮らし男子大学生の家に送り込むだけでは飽き足らず今度は一緒にプールに行ってこいとおっしゃるんですか?やばすぎでは……。
脳内でめちゃめちゃ失礼なことを言いつつ、なんとか回避できる方法を探す。
「どうにか誤魔化したりとかって……」
「写真を撮ってこいと……」
あくまで証拠を要求しますか。そうですか。
そうなると、もはや潔く覚悟を決める方が賢いかもしれない。
「……水着って、持ってる?」
「……必要になると思ってなかったので」
「買いに行くしかないね……」
「そうですね……」
メイドとして勤めるための上京に誰が水着を持っていくだろうか。ごくごく一般的な枠組みに従って判断をした彼女を責める理由はどこにもない。
責めるべきは彼女の両親だ。もし会う機会があったらそれとなく文句言ってやる。
頭の中で毒づきながら、水着を買いに行くための準備を始めた。
◆ ◆ ◆
自分の中でプールと言えば、去年惜しまれつつ閉園した遊園地のプールが思い浮かぶ。練馬駅から一駅の距離にあったその歴史ある遊園地は、目新しいものこそないものの夏には多くの客が訪れ、地元民から愛されていた。
小さい頃は毎年一回必ず親父が忙しい間を縫って連れて行ってくれ、その思い出は今でも胸に刻まれている。行かなくなってから久しいが、思い入れのある大切な場所だ。
だからと言って、他のプールが嫌いなわけじゃない。行く友達がいないだけで、行きたいなとは思っていたのだ。
今回行くことになったテーマパークもその一つ。あきる野市にあるその複合型レジャー施設は、日本最大級の流れるプールやドーム内プールなど、多彩なウォーターアトラクションが売りの遊園地だ。ちなみに、流れるプールの発祥は我が愛しの遊園地らしい。諸説あるが、事実ならばなかなか誇らしいものである。
誰に話すわけでもない雑学を思い浮かべていると、どうやらメイドさんも準備できたらしい。今日は夏らしい白いブラウスに黒のストレートパンツという出立ちだ。恐らくモノトーンが好きなのだろうが、服装のシンプルさ故に顔がより良く映える。いや、顔の良さが服を引き立たせているのか。どちらにせよ、黒と白の衣服に包まれたメイドさんは文句なしに美しい。
思わず見惚れそうになる前になんとか雑念を振り払い、メイドさんに声をかけ家を出る。
「じゃあ行こうか」
「はい」
今日の目的地は池袋だ。たかが水着に車を出す気にもなれず、十分程度で着きなおかつ買い物に困らないここがベストだった。
……二人で出かけなくてもよかったんじゃ?という雑念が脳内を横切ったが、華麗にそれを無視して歩を進める。
メイドさんも嫌がんなかったから!あと二人できた方が効率も良いし!
そんな建前全開の言い訳を心の中でしつつ、電車に乗り目的地に向かう。
池袋に着くと、日曜日ということもあり人でごった返していた。池袋でこのレベルなら新宿や渋谷はもっと人が多いだろう。今日の目的地を池袋にしたのは正解だった。
世間では夏休み最終日ということもあり、そもそも水着が売られているかどうかの心配はあったが、数軒回ったところで俺もメイドさんも無事に買うことができた。水着にはなんのこだわりもないので、なるべく地味で目立たないような黒主体のものを選ぶ。
メイドさんの買い物にもしれっとついて行こうとしたが、「ついて来るな」という無言の圧を感じたので、大人しくお店の外で待っていた。どうやら水着は当日にお楽しみにしなければならないらしい。だが、焦らされるのも悪くはない。
◆ ◆ ◆
プールに必要なものはまるで自宅に存在していなかったのでその辺りの買い物もしつつ、外出は三時間ほどで終わった。
「明日っていうのも急だから、明後日行こうか」
「かしこまりました」
買ってきたものを片付けながら日程を決め、そのままメイドさんは夕食の支度を開始する。何か手伝いたい衝動に駆られたが、雇用関係になってしまった以上、手を出すことは憚られる。いつまで経っても慣れないななどと思いつつ、汗と雑念を洗い流すために先にお風呂に入ることにした。
お風呂から上がりスキンケアをしてから髪の毛を乾かし終えると、すでにテーブルの上には今夜食べる食事が並んでいた。
「ごめん、待った?」
「いえ、出来上がったばかりですので」
そうありきたりな返事をしているが、何度も偶然が続けばそれは必然というものである。俺が先に風呂に入った時は決まって、脱衣所から出たタイミングと食事の準備が終わるタイミングが一緒なのだ。時間管理の鬼である。間違いなくこちらに合わせてくれているが、彼女がそう言う以上、余計なことは言いたくない。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
メイドさんの作る料理は本当に美味しく、驚くべきことにまだ一度も同じものを食べていない。一人暮らしだった頃はローテーションがほぼ固定されていて、新しいものを食べる機会はそうなかった。だが、彼女のメニューは種類が豊富なだけでなく、栄養も満点だ。容赦なく野菜も出てくるが、食べないわけにもいかない。
改めてメイドさんのスペックやばいな……。一体どこでこんなスキル磨けるんだろう……歳変わんないのに……。メイドさん、おそろしい子……!
そんな寸劇を頭の中で行っているうちに、食事を終えてくつろぎタイムに入っていた。メイドさんも洗い物を終えて暫しの休憩タイムだ。
そうだ、聞くならここしかないと思い立ち、今朝つらつらと考えていたことをメイドさんに問うた。
「あの、メイドさん」
「なんでしょう」
「ちょっと気になることがあって。えっと、その、なんで名前で呼んでくれないの?」
「……は?」
うわ生き急ぎすぎた。テンパってクッソ気持ち悪いこと口走っちゃったよ。メイドさんも「は?」とか言っちゃってるし。どうすんだこれ。
とんでもなく気持ち悪い発言をされた身として当然の反応をしたメイドさんを責めることはできず、急いで弁明する。
「いや!えっと、そのですね、人間関係において呼び方って大事じゃないですか」
「……はあ」
「それでですね、これから一緒に暮らしていく上でずっと今日までみたいな感じなのもどうかなあと思いまして……」
「……はあ」
今までの関係より一歩踏み出した提案だ。だからメイドさんが了承してくれる保証もないし、拒否されたらそこまで、一種の賭けみたいのものだ。
メイドさんはしばらく考えたが、納得したように「それもそうですね」と言い、
「では、なんてお呼びすればよろしいでしょうか」
と、真っ直ぐな瞳で俺にそう聞いてきた。
了承してくれたことに一安心だが、なんて呼んでもらうかは全く考えていなかった俺は、
「……メイドさんのお好きなように……」
そんな情けない返事しかできなかった。
メイドさんは「なんですかそれ」と言わんばかりの目線を向けてきたが、「はあ」と諦めたようにため息をつく。
「じゃあ、ご主人様?」
「いやさすがにそれはちょっと……」
本当は呼ばれたいけど!などとは言えず断ってしまう。
「……恵人様?」
「様って付けられるほど立派な人間でもないし……」
明らかにめんどくさい返しをした俺に、明らかに「めんどくさ」と思っている目が向けられる。
「……めんどくさい人でいいですか?」
「それだけは勘弁してください」
「じゃあ童貞拗らせ野郎」
「待って?急に悪口だね?」
「もしかして違いますか?」
「いやそうだけど……」
「そうなんですね……」
「そんな悲しい目で見ないで!」
あれ?いつの間に毒舌属性追加されたの?いやまあ、これはこれであり、というかむしろウェルカムなんだけど。
これもメイドさんの新たな一面なんだろうか。そうだとするなら、また少し距離が近づいたと思いたい。
するとメイドさんは可笑しそうに「ふふ」と笑って、
「じゃあ恵人さんで」
と、微笑みながらそう言ってきた。
そのあまりに魅力的な笑みに一瞬心が持っていかれそうになるがそれをなんとか抑え、「わかった」と答える。
「じゃあこれからもよろしくね、メイドさん」
「……恵人さんは、メイドさん、のままなんですか?」
「へ?」
思ってもなかった追及に、変な声が出てしまう。
言われてみれば確かに、自分のことは名前で呼ばせて自分は一般名詞で呼ぶなんて変な話である。
「えーと、じゃあ、橘さん?」
「……どうて」
「
とんでもない呼ばれ方をされる前に答えを出し、その答えを聞いてメイドさんが満足そうに笑う。先ほどとは違う、口角が少しだけ上がった嬉しそうな笑み。
ただメイドさんはそれ以上何も言うことなく、「お風呂いただきます」と脱衣所に向かってしまう。
リビングに一人になり、静寂が訪れる。
「ふう」
なんだか、予想以上に疲れた。こんな展開になるとは全くもって思っていなかったのだから、当然と言えば当然かもしれない。だが、当初の目的は達成された。メイドさんがなぜOKしてくれたのか、そこに疑問は残るが、関係が進んだから良しとしよう。
ただ、メイドさん、もとい日和さんは、俺が思っている以上に感情豊かな人なのかもしれない。
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