ずぶ濡れのまま仁くんは家に戻りました。

彼女と同じ水を纏ったまま、布団に入り込み、眠ります。


心というものは常に空きを作って置かなければなりません。

その空間に今やっている勉強のことや、工場での仕事のことを放り込むのです。

集中するというのは、物事を心に捉えておく行為なのですから。


ですが、仁くんの心に空きはありませんでした。

何をしても、あの美しい人魚のことが頭から離れないのです。

水槽の時のことを思い出すと、頬は赤くなり、顔が蕩けます。


字を書き損じるとか、工具を地面に落としてしまうならば、まだいいぐらいで。

教導の時間に、人魚のことを思い出して、何を学んだのか全く思い出せなかったり、

あるいは機械の部品をあべこべに付け替えてしまったり、

とにかく仁くんの心は人魚でいっぱいで、日々の生活どころではなかったのです。


これ以上はない。

その日、教導者と工場長の二人から、仁くんは同じようなことを言われました。

二人は仁くんの心の中にあるものの正体は知りません。

しかし、これ以上心の中を関係のないもので満たすならば、

それは心から飛び出して、人生をも燃やすだろうというようなことを言いました。

恋の力とは実際そのようなものです。

心の中で収めておけるのは全く稀で、大概は心の外に飛び出してしまうものです。


何を考えているのかはわからないが、

幸福になりたければ、それを捨て去れと仁くんは二人の大人に言われました。


全くその通りだと思いました。

田舎に帰ったところで、そこに仁くんの居場所はありません。

土地というものはその家の長男が全て継承するようになっています。

そして仁くんは四番目に生まれた子供であるのです。

都会に出て働くのでなければ、兄にへつらって生きるしかありません。

それは一生、喜びもなく家に縛り付けられることであるのです。


叔父がへつらいの笑みを父に浮かべる様を今でも覚えています。

彼は、家畜小屋の一角で寝泊まりし、

食事だって鶏よりも少しだけ良いものを食べるぐらいです。

どんな理不尽にも逆らえません、

何故ならば父にとって叔父は、

いれば役に立つがいなくても困らない存在だからなのです。

そんな生活が死ぬまで続くのです。


心を改めようと、仁くんは思いました。

見世物小屋も次はいつ来るかわかりません、

一年後か、十年後か、それだけ経てば人魚も自分のことを忘れてしまうでしょう。


それでも、なんだかとても寂しくて、

工場帰りの真夜中に、

仁くんは神社の境内のかつて見世物小屋があった場所に行きました。


そこに見世物小屋があったなどと誰が信じるでしょう。

何もない、だだっ広い空間が広がるだけです。

見世物小屋の人間というものは、とても器用に一夜の舞台を組み上げて、

そして、とても綺麗に解体してしまうのですよ。


ぼん、どったど」

ぼんやりと何もない空間を眺めていると、仁くんは後ろから声を掛けられました。

それはどうやら神主のようでした。

肌はよく日に灼けていて、右目は切り傷で潰れていて、

と言っても、神主装束を着ていなければ、香具師と区別はつかなかったでしょう。


「見世物小屋のことを思い出してました」

「見世物小屋か、ありゃええな。人魚見たど?」

「見ました」

「そっけ、そっけ」

愉快そうに神主は笑います。

ただ神主と話す仁くんは、

あの人魚が思い出の中にしか無いことを強く実感させられるだけで、

何も愉快なことは有りませんでした。


「あの……僕、帰ります」

「待っけ、坊。お前、アレだな……人魚と水槽で踊った奴だな」

「見ていたんですか?」

「そら、おらァ、あの見世物小屋の座長と親友よ。

 神様拝んでなきゃあ、ずーっと見世物小屋で酒飲んでっけな」

そして、神主は愉快そうにウキキと笑いました。


「あの、神主さん……あの見世物小屋の人たちって次はいつ来ますか?」

神主の言葉を受けて、仁くんは尋ねます。

見世物小屋の座長と知り合いというのならば、

次に彼らがいつ来るか知っているかもしれません。


「ウキキ、坊、人魚に恋したな」

そんな仁くんの真剣な様子を見て、やはり神主は笑います。


「無理ねぇわな、あんな別嬪さんおらんげ。

 でもな、次は何時になるかわからんど、早くても十年後がいいとこや」

「そうですか……」

神主の言葉に仁くんはがくりと肩を落としました。

けれど、これで良かったのかもしれないとも思いました。

これできっぱりと諦めることが出来ます。


「坊……あの娘に会いたいけ?」

仁くんの態度に、何かを思いついたかのように神主は笑いました。

仁くんは何度も何度も頷きます。


「やったら、人魚やるか?人魚と人魚の子は人魚や。

 アイツはいっつも人魚のつがいを探しとる、

 あの娘が死んだらそれだけで終わりやけんな」

「人魚を……やる?」

「腰から下ぶった切って、魚の尾っぽをつけるんや。

 そしたら、人間から人魚になれる……といっても、魚の尾っぽは貴重品や。

 見目麗しくない奴にゃ付けたないやろが……その点、坊なら文句は無いやろ」

「僕が人魚に……?」

「なりたいんなら、医者も紹介したるし、

 なったらなったで見世物小屋に連絡取ったんど。

 強制はせぇへんが早い方がええやろな、

 そもそも魚の尾っぽがあるかどうかもわからん」

「なります」

「せやせや、よう考えといたほうが……なに?」

「僕は人魚になります」


神主だって、別に善人というわけでもなかったのでしょうが、

それでも口をぽっかり開いて、驚きました。


「ええんか、お前、人間に戻れんぞ。

 しかも、一生見世物小屋に縛られるで」

「構いません」


恋というのは本当に恐ろしいものです。

心の隙間が無くなるぐらいにぎゅうぎゅうに、相手のことが詰まってしまうのです。

仁くんの目の輝きに、神主も何か言うのはやめて、黙って頷きました。


それから、善は急げとばかりに神主は闇医者の医院の戸を叩きました。

夜中だろうと関係ありません。


「おお!起きろ!起きろ!人魚になりたい坊がおる!

 尾っぽあるか!?坊に付けたってくれ!!」

「……入りたての尾っぽがあるけどね、時間ってのを考えて欲しいな」

「うっせぇど!とっとと坊に手術したれい!

 俺ァ!見世物小屋に連絡入れんど!

 坊は人魚になれる!見世物小屋は人魚が手に入る!お前は金!俺も金!

 全員が幸福になれる!はよ手術したれ!!」

「うるせぇな……」


それから凄い早さで物事は動いていきました。

今はもう仁くんの腰から下は、あの人魚の少女と同じ銀色の尾っぽが付いています。

ただ、陸にはいられないというので、見世物小屋の人間が来るまで、

彼は神社の池でひっそりと待っています。


教導院も、工場も、仁くんを探しているのでしょうか。

だとしたら、申し訳ないなと仁くんは思います。

それでも、仁くんは幸せでした。


それから、しばらく朝も夜も仁くんは池の中で微睡んでいました。

見世物小屋の人間は北の方にいて、ここに来るまで長い時間が掛かるというのです。

仁くんはは、人魚の少女と二人で踊る日々を夢見て、微睡み続けます。


ある日、仁くんは夢を見ました。

水槽の夢です。

水槽の中には赤い血が煙のようにもくもくと広がっていました。

あの人魚が下半身から血を流しているのです。

人魚の腰から下はありませんでした。

魚の尾っぽは水槽の底にごろんと転がっています。


慌てふためく、見世物小屋達の人間を尻目に、

人魚は夢の中で夢見るように呟きます。


「私に脚を付けて、魚の尾っぽなんかじゃ駄目よ。

 彼に会いに行ける二本の脚を、

 そしたら……私達、二人でどこまでも歩きましょうね。」


仁くんは彼女によく似た尾っぽを動かしながら、池の中をくるくると泳ぎます。

夢を見るのです。

二人の人魚が水槽の中をくるくると踊り続ける夢を。


もうすぐ、見世物小屋の人間が来ます。

仁くんは人魚に会うために脚を差し出しました。


彼女は、魚の尾を付けて待っているのでしょうか。

それとも、人間の足でガラス越しに彼を見つめるのでしょうか。


恋というものは全く恐ろしいものです。

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人魚と水槽で踊る 春海水亭 @teasugar3g

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