第3話

 



『源寿司』を出た大和は白い吐息を漏らした。


 凝った体を解し、新調したランニングシューズの具合を確かめる様に二度土を蹴る。“転性”前から着用していたウインドブレーカーはだぼつきはしているものの、裾を捲れば何とか使える。……が、シューズともなるとそうはいかない。


 小さな自分の身にあったレディース用のランニングシューズは先日購入したばかりで、未だに新品特有の硬さと匂いを帯びていた。



「……」



 地図を再度確認。

 軽いストレッチの後、大和はゆるりと走り出した。


 どうやら目的の場所は片道一キロ程度らしい。ジョギングで体の鈍りを解消するには丁度良い距離だろう。


 曇天の空の下……走りだした大和の鼓膜には自身の息遣いとウインドブレーカーが擦れる音、それから砂利を踏みしめた時の音のみが届いていた。


 田舎は音が少ない。

 人の往来もなければ、車道を走る車も僅かだ。


 田お越しの時期を迎えた田園にはまばらにトラクターが見えるばかりで、都会と比べると視覚的情報量の少なさが際立っている。





 ゆっくりと走って五分程度。

 体がようやくぽかぽかとしてきたところで目的の家が見えてきた。


 比較的大きい平屋の一軒家で、この地域では特段珍しくもない如何にも日本風といった風体だった。良く言えば景色に馴染んでおり、悪く言えば没個性。大和は表札の『小夏こなつ』の文字を確かめると、息を整えた後にチャイムを鳴らした。


 玄関の奥の方から気忙しい声が聞こえて、バタバタとした足音が近づいてくる。



「こんにちは」



 ガラリと引き戸を開いて姿を現したのは、大和と近しい年齢の少女だった。


 血色の良い肌。薄いフレームの眼鏡。

 目尻は凛と吊り上がり、細めのシルエットも相俟って大人びた印象を受ける。身に纏うセーラー服から伸びる手足はすらりと長く、同世代の女子の平均身長と比べてもやや小さい大和は自然と少女を見上げる形となった。



「こんにちは『源寿司』の人間です。えと、寿司桶の回収に来ました」


「あっ寿司桶ですね……ちょっと待っててください」



 少女は柔和な笑みを浮かべて小さく頭を下げると、居間の方へと戻っていった。後ろから見たボブカットの髪が、可憐に揺れている。


 手持ち無沙汰に待っていたところで、大和はポケットからボールを取り出した。


 にぎにぎと握ったり、掌の上を転がしたり、摘んだり、弾いたり。


 変化球の一種であるフォークの形を作ろうとした時、ボールは大和の手から逃れた。



「あっ」



 牛革の硬式ボールは玄関に落ちると二度跳ねた。


 自分で思ってるよりも、大和の手は小さく細い。男だった時の感覚で握ろうとしても、若干の狂いは生じて当然。


「……」



 大和は自身の手をまじまじと見た。

 ゴツゴツとして、何度も豆を作っては潰れたあの時の手はもうない。


 細く、滑らかで、初雪の様な手。

 だがその手は紛れもなく大和自身のものなのだ。


 大和は徐にその手を握り込むと、様々な感情が入り混じった溜息を漏らした。


 僅かな沈黙の後、大和がボールを拾おうとして――それよりも先に別の手が伸びてきた。



「え」



 まさに電光石火の出来事だった。


 ボールを拾った手の主……小夏家の娘は、ボールと大和の顔を一秒間に何度という頻度で視線を左右させている。その瞳には、爛々と輝く星が瞬いていた。



「えっ、と……」



 謎の圧に気圧された大和――を逃すまいと、少女の手ががっちりと大和の肩を掴んだ。



「このボール、貴女の私物……!?」



 そう問うた少女の鼻息はどことなく荒い。



「いや……」


「違うの!?」


「あ、いや……俺のです、はい」


「そうなんだ! そうだよね! もしかして、貴女野球が好きなの……!?」


「まぁ……どちらかといえば」


「そうなんだ! わ、嬉しい〜!」



 大和が少女に抱いていた大人びた印象というのは、この時破壊された。童の様にはしゃいでいる彼女は、今にも飛び跳ねそうな程に浮き足立っている。



「あ、ごめんなさい興奮しちゃって……! と、とりあえずこれは返すね」


「どうも」



 少女から大和の手に、ボールが帰ってきた。

 大和はそれをポケットに突っ込むと、居心地が悪そうに小さく喉を鳴らした。


 しかし目の前の少女はお構いなしだ。



「うわぁ、私周りに野球好きな女子一人もいないのよ。ねぇ、球団はどこ推しなの? 好きな選手とかいる? というか貴女北見坂の生徒、じゃないよね? 多分見たことないし……」


「球団とかは分からないですけど……四月から北見坂一年です」


「うそ! じゃあ新入生か! もしかして、リトルとかやってた?」


「まぁ少しだけ……もう野球はやってませんけど」


「そっか! そっかそっか!なるほどなるほど。じゃあ野球の知識はバッチリってことなんだね」



 少女は少し考え込む仕草をして、ハッとして大和に振り返る。表情がコロコロと変わるヒトだな、と大和は思った。



「ごめんね、自己紹介まだだったね。私の名前は小夏撫子。北見坂高校一年……あーまぁ三月で二年にあがるんだけど、野球部のマネやってるの」


「へえ……」



 両者の温度差たるや。

 しかし撫子は、更に一歩踏み込んでいく。



「それで、折り入ってお願いがあるんだけど」



 勿体ぶった素振りの割には、そのお願いというのは大和でも流石に予測できた。



「もし良かったら、入学したらうちの野球部に入らない!?」



 煌々と目を輝かせる撫子。

 しかし野球に対する大和の方針は既に決まっている。



「いや俺はもう野球は――」


「マネージャーって大変なこともあるけど、すごくやりがいもあるの。野球の知識があるなら是非とも大歓迎なんだけど、どうかな?」



 言葉を遮った少女の言葉で、大和は肩透かしを食らった。


 次いで納得が追い付く。


 大和はもう、男ではない。

 一般的な高校の野球部に勧誘される女子といえば、マネージャーとしてということしか有り得ない。


 ただの一般女生徒としか見てない彼を選手としても見ていないことは至極当然なことだ。


 今まで野球を通してその様な扱いを受けたことがなかった大和にとって『マネージャーをやらないか』という誘い文句は新鮮であり、且つ腹の底がむず痒くなる様な奇妙な感覚だった。



「それで、どうかな! マネージャー!」


「やりません」


「え」


「寿司桶受け取ります。『源寿司』のご利用、またよろしくお願いします」


「いや、あのちょっと待っ――」



 大和は撫子の手から寿司桶をふんだくると、それだけ言ってピシャリと戸を閉めた。



 選手だろうがマネージャーだろうが監督だろうがコーチだろうが、大和は野球を断つと心に決めているのだから。



「……変な奴」



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