第2話

 


「トランスセクシャ……なんだっけか」


「トランスセクシュアルシンドローム。突発性性転換症候群……長いからTS病って呼ばれてる」


「数奇な病気もあるもんやな」


「俺が一番そう思ってるよ」


「まあ、それはそうか」


「うん」



 大和は寿司下駄の上に乗せられたマグロの握りを摘まみながらそう答えた。

 赤酢が良く効いていて、ネタも新鮮。ねっとりと舌に絡む魚の脂は上質そのもの。シャリの握り加減も絶妙で、舌の上に乗せた瞬間にほどけていく感触はやはり一流だ。


 アメリカ暮らしが長かった大和が日本に抱く象徴といえば、やはり祖父の握るこの寿司だった。


 温かい緑茶……寿司屋で言うところの『アガリ』で口内の脂を流し込むと、大和はカウンター越しの源一郎の手際を眺めた。キレが良いというか、ひとつひとつの所作の流れが美しく、大和は“寿司職人”をやっている時の祖父の姿が好きだった。


 柳刃包丁を巧みに操りながら、源一郎は躊躇った様に口を開く。



「……圭子から聞いたが、野球はもうしないんか」


「やらない」



 重たそうに聞いた源一郎とは裏腹に、大和の返しは軽々けいけいとしたものだった。

 あっけらかんと口に寿司を放り込む孫の姿に、源一郎は肩透かしを食らった気分になってしまう。



「何でやらんのや。女子やって今どき野球くらいするもんじゃないんか?」


「……こんな田舎に女子野球のクラブなんてある?」


「……無いな」



 首を振る源一郎に、大和は白けた視線を向けた。


 そもそも日本に於いて、女子野球というのはあまりにもマイナーな競技過ぎる。人口も少なく、プロもないことはないがそれも認知している人間がどれだけいることだろうか。


 リトルリーグであれば男子に女子が混じることも珍しくないが、高校以上の水準の野球ともなれば話は変わってくる。


 “野球は男子のスポーツ”。

 という印象は令和に年号を変えた今でも、中々に覆らないものだった。



「しかし探せば今時女子の野球クラブやってあるやろう。大和がやりたいんなら車出しもするが。なぁ順江」



 急に話を振られた順江も聞き耳を立てていた様だった。



「ええ、勿論。大和ちゃん、野球やりたいなら応援するからね」


「いやいいよ。野球はもうしないつもりだったから」


「そうなの……」


「うん」



 顔を見合わせる源一郎と順江。

 彼らの胸中にある想いは“勿体ない”という一言に尽きる。


 大和に眠る類稀な才能……野球への適性。

 その片鱗の僅かを日本から伝え聞いていた彼らのそれでいいのかという思い。

 溢れだすその思い……疑問は、ごく自然なものだった。



「なんで辞めるんや、野球」


「……」



 源一郎の問いに、大和は口を閉ざした。

 言葉を吐き出す代わりにその小さな口にかんぴょう巻きを放り込み、視線を逸らす。


 言葉少なで、表情も読みにくい。

 一見、氷のイメージを抱かせる“現”少女は、ただただその話題に触れてくれるなというオーラを発した。



「……野球は、もういい」



 大和は静かに、それだけ告げて最後のネタを摘まんだ。

 おしぼりで細指の脂を拭き取り、小ぶりな桜色の唇を拭うと、行儀よく手を合わせる。



「ごちそうさま」



 話を早々に打ち切ろうとする意思が透けて見えるが、源一郎はそれを咎めない。

 多感な思春期に性別が変わるという難儀を抱え、元々が気難しい性質をしていたのが大和だ。孫との距離感を見誤らぬよう、源一郎は慎重だった。



「大和、この後暇やろ」


「え?」


「地図渡すけんお客さんとこに出前で出した寿司桶とってきてくれや」


「……」



 なんで俺が、という表情を隠そうともしない。

 源一郎はその表情のまま固まった大和に、雑把な地図を描いたメモ切れを押し付けると「んじゃ、頼むわ」という言葉を残して奥へと引っ込んでいく。


 立ち尽くす大和と目が合うと、順江は困ったように微笑んだ。



「ごめんなさいね、頼まれてくれる?」


「まあ……うん。寿司桶取りに行く格好ジャージとかでもいいよね?」


「大丈夫よ。遅くても夕方までに取りに行ければ大丈夫やけん」


「わかった」



 大和は頷くと三階へ上がり、適当な空き室に荷物を置いてさっさと着替えた。

 上下黒を基調としたウインドブレーカーは、やはり大和にとって着慣れない女子のファストファッションよりかは随分と着心地が良い。ポケットにスマートフォンと、手慰み用の硬式ボールを捻じ込むと、寒さに身をぶるりと震わせながら一回へと降りていく。年季が入った木製の階段板は、軽身の大和が踏みしめただけでもギィギィと悲鳴を上げ、この家の老朽化を物語っている。


 源一郎に手渡されたメモを確認しつつカウンターを横切り、玄関口の引き戸に手を掛けたところで順江が声を掛けた。



「気を付けりね。アメリカや東京と違って車の通りは少ないと思うけど、田舎って結構運転粗い人多いけん」


「ありがとう、気をつける」



 平坦な調子で感謝する大和だが、彼女なりに精一杯の表現をしたつもりだった。

 順江はうんと頷くと、重ねて「気を付けて」と告げて、愛孫の背中を見送った。


 ぴしゃりと引き戸が閉じられ、小さな静寂が訪れる



「……大和ちゃん、本当に野球やらないつもりなのかしらね」


「それは分からん。でも“あんなこと”があった後に好きな事をやってもいいと言われても、難しいやろう。野球をやらんっていうのは、大和なりの由衣……母親に対する贖罪なんやろう」


「可哀想ね……。そんなこと、まだ子供のあの子が背負うようなことじゃないのに」


「それもこれも、“あいつ”が悪いんや……あの男のせいで由依と大和は……!」


「……支えていきましょう。せめて今はあの子のことだけでも」


「ああ……勿論や」



 それから暫く、大和がいなくなった『源寿司』の店内には重たい沈黙が支配していた。

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