第32話 先輩、語りモードに入る

「外崎ってね、あの映像撮った監督なんだよ。監督っても、ただサークルの映画撮ってるだけで、その先映画で喰っていきたいとか、そういうのはなかったみたいだけど」

 先輩の慌てたような口ぶりから、明らかに距離感の近さを感じる。だが同時に、今は付き合いがない雰囲気もあった。

「その外崎って人、もしかして彼氏ですか?」

 つい、最も「そうじゃなかったらいいのに」ということを尋ねてしまう。予防線を張るような会話の仕方に、自らうんざりする。

「ん」

「えっ!」

 先輩の短い肯定に、驚きの声を上げてしまった。

 ちょっと待て。彼女は、「セックスをしたことがない」と言っていた。大学生のとき、その外崎と付き合っていたのなら、一般的に考えれば「して」いてもおかしくない。

「彼氏っていうか、婚約者というか」

 婚約者。

 話が急に加速し、それは僕を完全に置き去りにする。目まいさえする。

 先輩の過去が気になるとは言っていたが、急に先輩と結ばれる未来が完全に崩れさった。

 案の定、なんて安いフレーズで逃げようとするが、どう考えても僕はガッカリしている。

「あ、元ね、元。逃げられたから」

「逃げられたって……?」

 セーフ。ギリセーフ。

「もうキミとはやっとれんわ、みたいなことだよ」

「どうしてですか」

 声が細かく震えた。

 先輩を捨てる?

 僕にとってそれは信じられないことだった。

「私は、脚本家になりたかったの。だからふつうの企業への就職なんて目もくれず毎日脚本書いて、コンクールに応募してって生活してたの。親はすごく応援してくれて、中途半端なバイトをするくらいなら書けってくらいで。お察しの通り、箸にも棒にもってやつで……。童貞を喰い荒らす、高等遊民の誕生さ」

 先輩の夢。そんなことにさえ、考えを巡らせたことがなかった。

「脚本家になりたかった」と過去形で語っているが、きっと、今でもそうに違いない。

「外崎は普通に就活したけど、うまくいかなくて。大学卒業してすぐ、それでも私は結婚したいと思ってた。親に反対されてね」

 そりゃまぁ、普通は反対するだろう。せめてその外崎という男に職があれば別かもしれないが……。それがうまくいってないから、先輩は今こうして僕の隣にいるんだろうけど。

「ちょっと待って下さい。勝手に語りモード入ってません?」

 一回。一回冷静になろう。

「だって樹くん、気になって仕方ないって顔してる。それに、私がどうしてセックスしたことがないか、知りたいんじゃないの」

「……後で、喋りすぎたって後悔しますよ」

「今逃したら、一生聞けないかもよ?」

 その笑顔はずるい。先輩は処女かもしれないけど、僕を飼い慣らす術だけは確かに知っているようだ。

 怖いけど、知りたいに決まっている。

 先輩はきっと、ずっと誰かにその過去の話をしたいと思っていたのだろう。

 ミステリーの犯人のように、事情を問い詰められて告白をするような時代じゃない。

 素敵に自意識過剰なゆとり世代の僕らは、いつでも誰かに自らを語りたがっている。

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