第29話 託すもの

 訪れた病室は、驚くほど静かだった。ここに辿り着くまでの間に考えていた様々なことが、全て塗り潰されるくらいには静謐で、穏やかで。ディルアローハは拍子抜けした心地になる。

 案内してくれた壮年の男性に礼を述べつつ、彼女はゆっくりと扉を閉めた。足を踏み出すと、濃紺の治療衣がふわりと揺れる。

 療養塔ではよく見かけた類の、薄灰色の壁、床、天井。扉とは逆側の壁に沿って、簡素な寝台が置かれている作りだ。分厚い青い毛布が、この部屋で唯一の色と言ってもよいだろう。

 息を呑んだ彼女はおもむろに寝台へと近づいた。簡素な床頭台には、一冊の本が置かれているだけ。使われた形跡が乏しいのは、そこに寝かされている母が目覚めていない証拠だ。

「お母さん」

 小さく呼びかけた声が、室内に染み入った。しかし返る言葉はない。規則正しい呼吸が繰り返されるばかりで、それ以上の動きもなかった。

 寝台脇で足を止めた彼女は、やおら母を見下ろす。毛布の下に隠れた体はやけに小さく見えた。目を瞑ったまま静かに眠るその頬もこけている。大した栄養がとれていないせいだろう。

 母が眠り続けて、一体何日になるのか。眠っている人間に栄養をとらせる方法は限られている。直接血液に投与するものは、最早禁じ手のような扱いだった。定期的に口から管を入れて投与するのがせいぜいだ。

 幸い、口に注げば母はどうにか嚥下してくれるらしい。それでも量が限られるから、このままの状態が続けばいつかは死に至る。今まで聖の間で亡くなっていった者たちのように。

「お父さんが待っているわ」

 それでも声は聞こえているかもしれないと、ディルアローハはそう告げた。父のためなら、母は頑張ってくれるかもしれない。そんな予感があった。誰かのためであれば無茶をする母のことだ。父のためであれば、力の限り生きてくれることだろう。

 目を伏せたディルアローハは、そっと寝台傍の床頭台へと顔を向ける。母が肌身離さず持ち歩いていた、一冊の本。深い赤の表紙に金の縁取りが映える、美しい詩集だ。

 医術書やその類ばかりに目を通す母としては珍しい持ち物だった。そこには母の信念を照らすものが描かれているのだという。

 人のために生きること。人と共に生きること。真っ直ぐ進むこと。そんな美しく、厳かで、到底誰しも手が届かない生き様を目指していた母は、聖の間で一体何を思っていたのだろう。

「どうして、聖の間に入ったの?」

 答えがないことを知りながら、ディルアローハは問うた。母ほどの人間であれば、聖の間送りを遅らせるだけの策を練ることはできたはずだった。だが母はそうはしなかった。きっとリビントハウラがいたからだ。

 母に証拠を掴まれたことを疑った者たちは、母を聖の間送りにすることを計画した。当初、母は躊躇ったそうだ。それでもその部屋に一人の子どもが取り残されていることを知り、最後は受け入れたという。

「この国を左右するかもしれないものよりも、子どもを優先したの?」

 証拠品について父に知らせなかったのも、療養塔に送り込まれたのが子どもだったからだろうか? 子を思う親の気持ちを想像してしまったのか?

 それを情に厚いと褒め称えるべきなのか、合理的ではないと責めるべきなのか、ディルアローハには判断できなかった。

 ただ一つ言えることがあるとすれば、母らしかった。理性で判断しようとしても、最終的には感情を無視できない人間だ。もっとも、ディルアローハにも、その一端は受け継がれているのかもしれない。

「ねえ、お母さん」

 娘が一人異国の地で泣いていたあの頃は、何もしてくれなかったのに。そんな風に責めても仕方がない。たくさんの人間に尊敬されている者にだってできないことはある。大人になるにつれてわかってしまった。

 それに、子どものために必死になるあまり、破滅を導いた者たちもいる。ナイダートを結果的に沈めたのは、そういう人間たちだ。

 疫病が流行り、我が子だけでも助けたいと無理を通そうとした者たちが、シリンタレアに詰めかけたのだという。受け入れたシリンタレアの者が単に情にほだされたのか、それとも利権に目がくらんだのかはわからないが。

 何にせよ、大切な者のために視野が狭くなるというのはありがちな話であった。それが決定的な事態を招いてしまうのなら、防ぐための機構も今後は必要かもしれない。

「私、またジブルに行くの」

 ディルアローハはゆっくりと、母の方へ視線を移した。何度呼びかけたところで母は微動だにしない。家族の呼びかけで目を覚ますなどというのは、お伽噺の中だけで起きる奇跡だ。否、逆か。奇跡だけがお伽噺になれるのだろう。

 そこでふいとクロミオのことを思い出す。彼はその奇跡に遭遇した人間だという。女神との邂逅を果たした、女神に助けられた少年。なるほど、彼が特別扱いされるはずだ。奇跡を諦めていた者たちの目には、それはさぞ神々しく映るだろう。

 ふっとディルアローハは息を吐く。しかし、今は奇跡を期待するところではない。これ以上の破滅を生み出さぬように、頭を働かせるところだ。

 聖の間の秘密は明かされつつある。あの棚に眠っていた遺産も、これから少しずつ調べられていくことだろう。ジブルが力を注ぐのだから。

 世界が動きつつある。しかしシリンタレアは過ちを犯した。二大国の顔色をうかがい続ける、今まで通りのやり方ではもう生き残れない。新たな道を模索しなければならない。

 大国ナイダートも岐路に立たされている。この件で結果的に得をしたのはジブルだけだ。ジブルは勢力をさらに強めるに違いなかった。

 そうなれば他の小国全てが巻き込まれていく。そんな中で、ディルアローハには何ができるだろうか。知識も乏しい、立場も危うい一人の薬術師に、できることがあるのか。

 それでもただジブルで何かを待っているだけでは駄目だ。それだけは確かであった。自ら動かなければ。見習うとすれば、クロミオのような立ち回りか。

 そうやってあれこれと考えていけば、心が整理されていく。破顔したディルアローハは、もう一度母の顔を見下ろした。

 かつてのように、ジブルで一人泣くことはないだろう。大体、一人ではない。もう彼女は誰かを守らなければならない立場だ。大人だ。

「頑張ってきますね。お土産、待っていてください」

 彼女は笑みを深めた。そしてゆったりと踵を返す。ふわりと濃紺の長いスカートが揺れて、衣擦れの音を立てた。静寂の部屋から、やはり声は返らなかった。




 顔を覆う布の向こうで明かりが消えると、ディルアローハは息を吐いた。同時に儀式の終わりを告げる鐘が鳴る。本来の人数よりも少ないとはいえ、無事に終えられたことに、胸を撫で下ろさずにはいられなかった。

 彼女が頭を下げていると、一つ、また一つと足音が遠ざかっていった。白い布の隙間から見えるのは灰色の床だけだが、周囲の気配が薄くなっていくのは感じ取れる。

「ディルアローハ薬術師」

 しばしそうしていると、背後から声をかけられた。悠然と振り返った彼女はわずかに顔を上げる。この声はサグメンタートだ。

 本来であれば儀式にはそれぞれの役割に適した人が選ばれる。しかしようやく療養期間が終わったばかりの者たちを、元首に会わせるわけにはいかない。薬術師長もあの騒ぎで怪我をしたというし、他にも煙のせいで儀式に参加できない者が大勢いた。

 だから本来では何の役目もないはずのサグメンタートまで、こうして引っ張り出されてしまっている。彼女にとっては好都合なことだった。

 そうまでしても、形だけでも儀式を行う。やはりこれはシリンタレアでの一種の宗教なのだろう。それを利用しない手はなかった。

「ありがとうございます」

 彼女が片手を差し出すと、遠慮がちに手を引かれた。どこまで儀式を徹底すればよいのか、彼は戸惑っているに違いなかった。観衆がどんどんいなくなっていくのはわかる。だがぎりぎりまで彼女は、疑われぬよう徹底するつもりだった。

 彼に手を引かれながら、長い廊下を歩く。儀式用の艶やかな衣が揺れて、時折彼の姿が目に入った。灰色の衣装を身につけた彼の後ろ姿からは、まだ緊張が見て取れる。

 足音に気を配りながら、彼女はひたすら耳を澄ました。廊下に面した部屋の数は、あらかじめ図面を見て頭に入れておいてある。あとは確実に人目がなくなる機会を逃さなければいい。

 もうしばらく進んだところで、彼女は決意を固めた。ぐいと手に力を込めると、彼が怪訝そうに振り返るのがわかる。

 手を離した彼女は、何も言わずにそのまま手近にあった扉の中へと入り込んだ。彼が慌てる気配がするも、迷わずそのまま室内へと潜り込む。

 そこは空っぽの棚が、ただ置きざりにされた部屋だった。本来の用途は不明だが、例の煙がここまで流れ込んできてしまったため、中にあったものは全て別の場所に保管されているようだった。よほど煙はひどかったらしい。

 彼が慌てて追いかけてくる気配に安堵しつつ、彼女は狭い通路を奥へ奥へと進んだ。ふわりと揺れる白い布が、時折頬をかすめる。

 ある程度進んだところで、彼女は突として足を止めた。ここまで来ればもう声は外には漏れないだろう。姿を見られることもない。ならば少しでも早く、これを渡してしまわねば。

「突然すみません」

 彼女がおもむろに振り返れば、彼が困ったようにたたずんでいる姿が見えた。もっとも、布の影に隠れた顔まではわからない。だが今はその方がよかった。つんと黴臭い空気が彼女の鼻をつく。

「一体急に――」

「ですが、今しかないと思って」

 絞り出した声が震えそうになった。託すと既に決めているというのに、今さらながら緊張していた。――拒絶されたらどうしよう。まるで乙女のようなそんな不安が、彼女の胸の中を埋め尽くす。

 この本を献上しなかった時点で、こうするしかないというのに。もう決断してしまったというのに、今さらながら躊躇っているらしい。そんな自分に苦笑したくなった。出会いの時のことが、どうしても思い出される。

「この本を、あなたに託したくて」

 しかし時間はない。彼女はおずおずと、布の内に隠していた本を両手で差し出した。白い布がたおやかに揺れて、衣擦れの音を立てる。

 彼が息を呑む気配が感じられた。この本が一体何であるのか、すぐに察したことだろう。

 先ほどの儀式で、彼女が本を献上しなかったことを怪訝に思っていたのかもしれない。彼には何度か表紙を見られている。中身までは知られていなくとも、彼女がずっと持っていたものであることはわかるはずだ。

「どうして?」

 問いかけの意味は複数あるだろうか。どうして国に渡さなかったのか。どうして彼に託すのか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る