第28話 子どもたちの未来

 それは予想しなかった。ジブルにとって、彼女という存在は何ら役には立たないはずだ。

 ――そこまで考えたところで思い当たるものもあった。あのクロミオだ。ジブルの人間は彼女のことを、クロミオの弱点とでも考えたのだろうか?

「人質のつもりなのかどうか。何にせよ、ジブルは使えると判断したってことだろう。おそらく親父たちは抵抗できない」

 なるほど、昼にある話というのはそれか。彼女は頷く。父ミッシュエルンから依頼を受けたことを考えれば、それはゼランツウィーシュたちにとっては苦渋の決断となるのだろう。

 けれども生きていれば機会はある。やり方は色々ある。一生会えないわけではない。彼女は肩の力を抜いた。

「それはそうでしょう」

「……それで、いいのか?」

「ジブルは留学経験もあります。命を狙われるのとは違いますから、心配はしませんよ」

 ふっと彼女は相好を崩した。何をされるかわからない恐怖を味わった後であれば、全てが小さく感じられた。相手が利用してくるつもりならば、対抗策はある。そう考える度胸もついた。

「それよりも、今まで培ってきたものが失われる方が不安です。重層構造による感染対策は、実質壊れたようなものです。ナイダートもジブルの皆さんも、いきなり奥の層に入ってきてしまいましたからね」

 そこで彼女はため息を吐いた。彼女としてはこの問題の方が気がかりだった。いきなり根本の部分を打ち壊されてしまったため、これを立て直すのにも時間はかかりそうだ。

 例外的な判断ばかりを迫られる上層部は、さぞ頭を抱えることになるだろう。おそらくそちらの方が大変だ。ゼランツウィーシュも父も、きっとそのために奔走することになる。

「ディルアローハは……強いな」

「そうですか?」

「まあ、ディルアローハのことは、クロミオがいるからあんまり心配してないけどな」

 そこでサグメンタートは右の口の端を上げた。まさか彼がクロミオの名を出してくるとは思わず、彼女は目を丸くする。

「クロミオくんは、もう私になんて興味ないですよ」

「そうか?」

「彼はシリンタレアを守りたかっただけですから。だから私がシリンタレアを離れるなら、もう近づく意味はないでしょう」

 笑った彼女は拳を解いた。ジブルが勘違いしているとすればそこだ。彼はシリンタレアとの繋がりを維持したくて彼女に近づいた。姉のために。だがこんな形で決着がついてしまえば、もうディルアローハは用済みだろう。

 そのことを恨みがましくは思わない。むしろ彼には悪いことをした。大事な本をくれたというのに。

「そうは思えないけどな」

 だが何か確信を得たように肩をすくめ、サグメンタートは失笑する。

「それだけなら、あの場でいきなりマスクを取るなんて危険な真似はしないだろうさ」

 そう指摘されて彼女は考え込んだ。そうだろうか? あれはあの場で彼女を遠くに隔離させないための、本を守るための行動だったように思える。

 彼とてきっと、あの本は何度か眺めていただろうから、彼女が言わんとすることもすぐに理解できたはずだ。

「まあいいさ。そのうち答えはあの少年がくれるだろう。それよりも今後のシリンタレアの方が問題だ」

「そうですね」

 深みにはまりそうになったところで、サグメンタートが話を戻す。はっとした彼女は相槌を打った。それから、一つ気づく。

 ――彼女が国を離れなければならないなら、この本をどうするべきなのか。

「ジブルを出し抜くだけの力がなければ、俺たちは飲み込まれてしまう」

「その件で、お願いしたいことがあります」

 疑われ、探られ、狙われ、それでも守り抜いた本。彼女の命を救ってくれたようなものだ。この知識を活かすことができる人間は、シリンタレアにしかいない。

「お願い?」

「あなたに渡したいものがあります。でも今はまだ……」

 選択の余地などない。彼女が手渡しできる相手は、サグメンタートくらいしかいなかった。いや、理由はそれだけではない。託すこと、託されること、繋ぐこと。その意味を理解してくれる者でなければ。

 しかし今は駄目だ。療養区画を出る時には持ち物を検査される。それは彼も同様だ。ここから何かを持ち出すことが許されるのは、再度の儀式の際だけだ。

 全てが落ち着いた後には、改めて儀式が行われることが昨日決まったという。それが最初で最後の機会となるかもしれない。その後は彼女も何がどうなるかわからない。

 そうなると、儀式で献上するものは別の何かにすり替えておくしかないだろうか。最悪、抜き取った紙一枚でもいい。そう考えれば、彼女の心は固まった。

「……わかった」

 怪訝そうな面持ちをしながらも、彼は首を縦に振った。いつになるのかは、彼女はここでは明言しなかった。儀式の後などと言って彼を挙動不審にしてもいけない。

 こんなものを押しつけられては彼も迷惑かもしれないが、しかし彼女の気持ちはわかってくれるだろう。今ならそう信じられる。

 ――クロミオも、このような心境だったのだろうか。ふとあの時の少年の顔を思い出した。わずかな不安と、達成感。共犯者を増やすような心地を味わわせる、どこか背徳的な行為だ。

「ああ、そうだ。療養期間が終わる前に、アマンラローフィ医術師に会っていかないか? 明日だったらと、親父には言われてる」

 そこでサグメンタートは話を変えた。母に面会できると思っていなかった彼女は、思わず前に身を乗り出した。

 それなりの期間、聖の間にいた母の扱いは、ディルアローハたちよりは厳重になっているはずだが。それでも「発症」するかどうか経過観察中の今であれば、許されるということか。

「本当ですか? わかりました。それでは明日」

「ああ。じゃあ今日はここで。親父たちともまた話があるからな」

 彼はゆっくりと椅子から立ち上がった。

 そうした話し合いは頻繁に行われているのだろう。あの時青の廊下へと足を踏み入れた人間は、今も全員経過観察中だ。だからゼランツウィーシュが会える人間も限られている。

 そういう点でも、サグメンタートは頼りにされているはずだった。

 これで少しでも親子の会話が増えればいいと願ってしまうのは、何も知らぬ人間のお節介だろうか。父親から信頼されているということに、彼がいつか気づいてくれるとよい。ついそう願いたくなる。

 今のシリンタレアでは、人手不足は深刻だ。青の廊下に足を踏み入れなくとも、煙のせいで体調不良となっている者は大勢いたようだった。

 あの煙はキャレンがナイダートから持ち込んだものだという。あらゆる感覚を鈍らせる作用を持つ、ある種の毒性を持つ煙だそうだ。賊を相手取る時に主に使用されるらしい。

 命に関わるようなものではなくとも、濃い煙に晒されればしばらく目は使い物にならなくなる。火の手に駆け寄った者たちの多くが、今も視覚を奪われたままだそうだ。

「あ、そうだ」

 扉に手をかけたところで、サグメンタートは肩越しに振り返った。癖のある赤茶色の髪が、ふわりと揺れる。

「あの子どもが、お前についていきたいと言っているそうだ」

 そう告げられて、ディルアローハは瞬きをした。あの子どもというのが誰を指しているのか、すぐには思い当たらなかった。

 彼が複雑そうに顔をしかめたのを見て、ようやく理解する。聖の間で生まれたというリビントハウラのことだ。

「あの子がですか?」

「身よりがいないらしい。父親も……わからないらしい」

 そう続ける彼の顔が曇った。躊躇したところをみると、真実は違うのだろうか。父親は亡くなっているのか? いや、それなら口にできるはずだ。ならばまさか、罰される側にいるのか?

「そうですか。しかしそれは、許されることなんでしょうか?」

 事情がどうであれ、一つ問題がある。彼女の意志よりもまず、ジブル側が受け入れるかどうかだ。彼女が今後どうなるのかは、全てジブルに左右される。そこに幼い子どもを一緒に連れて行くというのはどうなのだろう。

「ジブルがってことか? ジブルはかまわないらしい。大国の余裕なのか。いや、違うな。聖の間で育った少女っていう希有な存在を、どうせ何かに利用できるとでも思ってるんだろうさ」

 彼はふっと苦い笑みをこぼした。その指摘はもっともだ。彼女は小さく相槌を打つ。ジブル側にとって、彼女らは駒だ。利用価値があるかどうかが重要だ。しかしそれをこの場合も、逆手に取ることはできる。

「――私はかまいません」

 しばし逡巡した後、彼女はそう答えた。彼は意外そうに眉を上げた。てっきり断ると思っていたのだろう。そんな危険なところにつれてはいけないとでも言って。

「この国もきっと、あの子の扱いには困ることになるでしょう。あの子が一番、聖の間にいた時間は長いことになります。それに、あってはならぬ黒い歴史の証人そのもののようですから。ここで一人腫れ物のごとく扱われるのでしたら、私と二人で疎まれていた方が幾分かはましかもしれません」

 そう告げて彼女は頬を緩めた。母が無事に目覚めるとの確信があれば、置いていってもかまわない。しかしその保証はなかった。

 あの遺産は単に意識を奪うためのものかもしれないが、倒れた際に頭を打っていないとは限らなかった。大体、目覚めるとしても、いつになるかが不明だ。

「君も変わってるな」

 彼はどこか呆れたように首をすくめた。そんな風に言われたことなどなかったが、変わっているだろうか?

 だが縋るものを失った幼子の気持ちは痛いほどに想像できる。多くの人間に支えられていると理解するまでには、まだ時間がかかるはずだ。

「ただ、念のためもう一度確認してください。子どもの気持ちは移ろいます」

 それでも彼女はそう付言した。あの時、どうしようもない中で差し伸べられた手が忘れられないだけならば、異国の地を踏む必要はない。

「……そうだな」

 何か考えたように黙り込んでから、彼は頷いた。そして再び扉へと手を掛ける。彼もまた、幼い頃に何か辛い思いをしたことがあるのだろう。兄弟がいても、家族がいても、それで救われているとは限らない。

 そこまで考えたところで、ニーミナの少年のことが脳裏をよぎった。彼は確か、たった一人の姉のためにあらゆる決断をなしていた。

 そうさせるだけの関係が築けるというのは幸運なことだ。他にどれだけの不幸が降り注ごうとも、確かな道標となる。

「ああ、そうなのね」

 扉が閉まる音を耳にしながら、彼女は瞳を伏せた。国という形にこだわらないのなら、血筋というものにもこだわらなくてよいのかもしれない。必要なのは繋ぐことであり、繋がることであり、絶やさぬことだ。

「偶然の縁も、何かの意味があるのかもしれないわね」

 母が守ろうとした命を、ディルアローハが傍に置くことも、また一つの縁だ。少なくとも彼女がそう思う限り、それは確かな道筋となるだろう。

 彼女はやおら立ち上がり、祈るように目を閉じた。同じ過ちが、繰り返されることがないように。一人で泣く子どもが生まれないように。眩しい両親のようにはなれなくとも、やるべきことはある。

「どうか」

 声がこぼれ落ちた。それはどこかにいるという女神への、宣誓のように感じられた。

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