第27話 仕切り直して
「ディルアローハ薬術師、中に人は?」
「母と、もう一人男性が、倒れています。この子は、中にいました」
くぐもったゼランツウィーシュの声を聞き取るのに、彼女はやや難儀した。余計なことを口にしてはいけないと考えるまでもなく、端的にしか答えられなかった。
するとゼランツウィーシュはため息を吐く。そこに込められた感情は、彼女には読み取れなかった。
「やはりリビントハウラは無事なのか」
「……え?」
「その少女の名だ。以前に聖の間で研究をしていた女性が、中で産んだ子だ。彼女が亡くなってもなお、その子は生きている。だから我々は、長らく訝しんでいたのだが」
中で産んだ? ディルアローハは思わず抱いた子を見下ろした。では聖の間で出産したのか? そんなことが可能なのか? 相当の安産でなければ無理だろう。そもそも、妊娠している女性を聖の間に入れるというのが許されざることだが。
「君は平気なのかね? 聖の間は――」
「私は、おそらく最初から、ずっとかがんでいたので平気です」
思考が過去へと戻りかけたところで、即座に現実へと引き戻された。そうだ、彼らがこんなに厳重にマスクをつけているのはそのためだ。彼女からの感染を恐れているのだろう。
どうすれば伝わるのか? 考えながらも、まず彼女は単刀直入に口にすることにした。
「母たちが倒れているのは、おそらく、遺産の効力です」
「……遺産?」
「天井近くに、青い光が見られました。背の高い男性がすぐに倒れたのも、おそらくそのためでしょう。こんなに早く感染は成立しません。この子が平気なのも、もしかしたら」
訥々と彼女はそう語った。そこまで口にすれば、医術師であれば何が起きているのか理解するには十分だっただろう。驚愕したゼランツウィーシュは手を震わせる。辺りにも、にわかに動揺が広がっていった。
「そんな、まさか……」
「母たちを助けてください。ただ、気を失っているだけです。それでも、このまま放っておけば、いずれ餓死します。もちろん、慎重に動くのもわかりますが」
彼女はゆっくり頭を下げた。これでゼランツウィーシュたちが安全を優先して様子見という選択をすれば、おそらく二人は助からないだろう。
そうした決定権がゼランツウィーシュに委ねられているのかはわからないが、彼女には頼み込むしか方法がない。
念のため聖の間に入った人間を、そのままにすること。その命を諦めること。彼女の言葉を信じて、その前提で動くこと。どちらをとっても何かを失うのは明白だった。これは身を切るような決断だ。どちらを選んでも責任を負わされる。
それがわかっているのか、誰もが口を閉ざしていた。彼女とて理解はしている。これだけ重大な判断が、この場にいる人間に可能だとは思えなかった。
大体、これだけ人がいるというのに、見覚えのある顔がほとんどいないのは不思議だ。だがナイダートの人間であれば、サグメンタートたちと一緒にいるのはおかしい。一体どうなっているのか?
「遺産のせいなら助けてあげれば? それに、中にいるのはナイダートの重要な証人だから、できれば生かしておいて欲しいところだよね」
辺りを満たす重苦しい沈黙を、破る声がした。この場には似つかわしくない、少年の声だった。彼女はあんぐりと口を開ける。
「クロミオくん!?」
現れたのは見知った顔だった。生成り色の羽織を身に纏ったクロミオが、悠然と進み出てくる。
皆がざわつく中で、彼は口を覆っていた重厚なマスクを自らの手で剥ぎ取った。傍にいた青年たちが慌てるも、かまわずクロミオは微笑みかけてくる。
「ディルさん、お待たせ。ナイダートが動くのを待ってたらぎりぎりになっちゃった」
歯を見せて笑う少年の顔を見ていると、どっと肩の力が抜ける思いがした。しかし安堵してもいられない。クロミオが動いているとなると、今ここにいるのはおそらくジブルの者たちだ。
つまり、遅かったのか。ディルアローハたちは間に合わなかったのか。耳の奥で心臓の鼓動が鳴るような錯覚がする。
いや、まだ全てが終わったわけではない。関与していた者たちを引き渡すことで、被害を最小限に食い止めることはできる。
「クロミオ殿」
と、聞き覚えのある声がした。ゆっくりとマスクを手に取りながら近づいてきたのは、あの時のジブルの使者――ガウーダだ。
「危ない真似はなさらないでください。あなたの身に何かあったら」
「ディルさんの身に何かあっても困るでしょ? ほら、早く中で倒れてる人を助けにいってあげてよ。できるだけ背の低い人でね。そうじゃないと僕が行っちゃうよ?」
困ったように笑ったガウーダへと、クロミオはいつもの余裕の笑顔でそう答える。まさか乗り込むことは全て元から計画されていたのか? 彼女たちは手のひらで踊らされていただけなのか?
疑る心が湧き上がったところで、再びクロミオの言葉を思い出した。
『隠し事がある人はみんな怪しく見えるものさ』
そうだ、全てが全てクロミオの思う通りに進んでいたはずがない。
ナイダートの男だけが意識を失ったのは偶然だった。状況によってはディルアローハが先に倒れていた可能性もあった。そうなればこの本の扱いも、証拠の行方も変わってくる。
「わかりました。しかしこれから聞き取りしなければならないこともあります。勝手に連れ回したり、連れ込んだりしないでくださいね、クロミオ殿」
「それくらいわかってるって」
「それでしたら。ではシリンタレアの皆さん、中にいる者たちの救助をお願いします」
深く頷いたガウーダは、ついと振り返りそう声を掛けた。「お願い」と口にしているが、そこには有無を言わさぬ響きが含まれていた。シリンタレアの感染対策など知らぬと、これは異常事態だと、拒否権はないのだと告げるように。
それを感じ取ったのか、ゼランツウィーシュは奥歯を噛みつつ首肯する。これは事実上、指揮権をジブルに握られたことを意味していた。――友好条約違反の疑いがかけられている以上、詮のないことではあるが。
ディルアローハは唇を引き結び、抱いたままであった子ども――リビントハウラを見下ろした。半分まどろみの中にいるリビントハウラは、それでも必死に布袋を抱きしめていた。
奥の層の端に位置する特別療養室に閉じ込められてから五日。ようやく疲労が抜けてきたところで、本日も訪問者が現れた。
「ディルアローハ、起きているか?」
「起きています」
戸を叩く音と共に、サグメンタートが入室してくる。案の定、彼は今日も疲れた顔をしていた。簡素なマスク越しでも、その頬にはまだ殴られた痕がある。
火事騒動の最中、「反逆者」の一人にやられたのだと聞いたのは昨日のことだ。ディルアローハは瞳をすがめる。
「おはようございます」
「朝早くに悪いな」
「いえ、ここではやることもないですから」
彼女は首を横に振った。殺風景な部屋の中には寝台と小机、椅子くらいしかない。こじんまりとした白い椅子を手で指し示し、彼女は小机の上を片付け始めた。ここを訪れるのは彼だけとはいえ、油断して大事な本を出しっぱなしにしていた。
「どうぞ」
動かない彼へと再度椅子を勧め、彼女は寝台の隅に腰掛ける。彼は渋々といった調子で椅子に座った。
あの騒ぎの大半は、シリンタレアの人間が起こしたものらしい。彼がそう話してくれたのも昨日のことだった。ナイダートとの繋がりが明るみに出るのを恐れ、その前に片をつけようとしたのだと。
母を聖の間に送ったのも、母が「反逆の証拠」まで辿り着いてしまったためらしい。なるほど、母は療養塔の奥まで担当することもあった。その際に偶然知ってしまったのだろう。母が狙われたのは、父たちが目立ったからではなかったのだ。
もしかするとディルアローハがナイダートの追っ手に襲われたのも、母から証拠品を託されているのではと疑われたせいかもしれない。証拠品が見つからないことには、その者たちも安堵できなかったのだろう。
母があれらの紙を巧妙に持ち込んだ術は想像するしかないが、おおっぴらに身体検査をする建前はなかっただろうから、やり方はいくらでもある。それにまさか中に持ち込むとは、思ってもみなかったのかもしれない。
「悪いな。あまり長居はできないんだ。それに昼頃には親父が来る。だから、その前に話しておこうと思って」
「何か動きがありました?」
顔をしかめるサグメンタートを見て、彼女は眉根を寄せた。彼女やリビントハウラが特別療養室に隔離されている間は、情報源は彼のみだ。彼も特別な監視対象となっているために、ここへの出入りを許されている。
ジブルの要請は要請として、シリンタレアはできる限りの対策を講じたい。そういうことだろう。
母とあのナイダートの男――キャレンの意識が戻らないことも聞いた。
聖の間の天井辺りから、謎の物質が検出されたことも知った。クロミオによって、遺産と思しき小瓶の一つが同定されたことも知らされた。
もちろん、それだけで、長年皆を苦しめてきたものが、遺産によるものだったと決定づけられたわけではない。さらなる検証が必要だ。それでも謎を解く光明が見えたことは疑いようがなかった。
また秘密裏に治療を受けていたナイダートの子どもたちが保護されたことも、昨日説明された。ナイダートで居所的に流行した病が、そのきっかけだったとも。
大体が彼女の予測通りであったため、虚言でなかったことが裏付けられてきている。
「ああ。ジブルは今回の件でいたくご立腹だ。いや、ナイダートを出し抜く機会だと思ったのかもしれないな。条約内容の見直しを要求してきた」
しばし躊躇った後に、サグメンタートはそう告げた。さもありなんという内容だった。
しかし「出し抜く」というのは少し間違っている。外の星との繋がりがある宗教国家ニーミナ。そのニーミナに現在一番近しいのは大国ジブルだ。既にジブルの方が力関係では上だった。そう考えると、ナイダートが焦っていた理由が腑に落ちる。
今までの歴史を振り返るに、ナイダートがこれだけ迂闊な行動に出ることはなかった。均衡の崩れは、その時点から既に始まっていたのだ。クロミオの婚約者の件と同じ。ジブルが一歩先を行ったために、ナイダートは無理を承知で挑んできた。
「そうですか」
「国の立て直しも要求されている。おそらくシリンタレアの内政にも、これから口出ししてくるつもりだろう」
説明するサグメンタートの声は渋い。彼女の視線も床へと吸い寄せられた。仕方がないこととはわかっているが、それでも気分は沈んでいく。
形ばかりのシリンタレアが守られたところで、一体何の意味があろうか。医術に対する知識のない者たちによって無残に打ち崩されていく国を思うとやるせなさが湧き上がる。
いや、まだ諦めてはいけない。形などどうでもいい。彼女らが守らなければいけないのは、そういうものではない。知識だ。技術だ。それを運用するための仕組みだ。それが今までは、たまたま国の形をしていただけ。彼女は膝の上で拳を握る。
「その手始めに、ディルアローハの引き渡しを要求してきた」
「……私?」
しかし次に放たれたのは全く想定外な話だった。顔を上げた彼女は小首を傾げる。
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