第26話 遺産の力

 大概の受け入れ患者は子どもだった。三歳の子から、一番上は十代半ばの若者まで。頭を抱えたい気分になった。おそらくナイダートの要人の子息や親類に違いない。

 そうなると、シリンタレアの子どもたちが行方不明になったのも合点がいく。この患者の代わりに、他国に出されたのだ。

 療養塔の奥であればかくまうことはさほど難しくはないが、食料等の物資が異常に減れば、疑る者が出てくる。どこかで何かの帳尻が合わなくなる。その代わりに一時的に留学させられたのだ。

 もちろん正式なものではないため、回りの子どもたちは不思議がるだろう。突然いなくなったとしか見えない。

「ああ……」

 全てが繋がっていく。

 もっとも、誰もが探していた証拠品がここにある理由も、こんなところに子どもがいる理由も不明ではあるが。

 困惑しながらも、彼女はその証拠の布を、手にしていた布袋の中へと押し込んだ。これを失うわけにはいかない。たとえ聖の間から出すことができないとしても、字が読めるようにしておくことは必要だ。ましてや大国の人間に奪われてはいけない。

 一息ついたところで、ぎゅっと子どもがしがみついてきた。金色の髪が、濁った空気の中でも煌びやかに見える。

 ディルアローハは眉根を寄せた。まだ四、五歳ほどに見えるが、一体いつからこの部屋にいるのだろう?

 それを知っているだろう母は、傍で倒れ伏したままだった。呼吸は規則正しいが、微動だにしていない。子どもが無事なのは母が守ったからなのか? それすらも判然としない。

 先ほどよりもくらくらしている気はするが、息苦しさは廊下よりはましだった。そうなると、倒れた理由は入り込んだ煙のせいだけではないだろう。

 熱気が原因か? 確かに、ディルアローハの額や首からもじんわりと汗が滲んでいる。空気の流れが悪いせいか、それとも実は火の手が近いのか。外よりは明らかに温度が高い。

 あれこれ考えていると、がちゃりと乾いた音がした。はっとした彼女は、肩越しに振り返った。

「聖の間は危険だと聞いていたが、はったりだったのか」

 キャレンだ。どうにか扉をぎりぎり通れるといった体躯が、ぬらりと部屋の中に侵入してきた。彼女の無事を確かめ、ここは安全だと判断したのだろう。

 扉の窓の位置を考えると、彼女が何をしていたかまでは見えないはずだが。それでも彼女が動いていることはわかる。聖の間の病がすぐに発症することはないという話を、この男は知らないのか。

「わからないものはすぐに禁忌にしたがる者が多くて困るな。臆病者たちめ」

 鼻で笑ったキャレンは、ゆっくりとこちらへ向き直った。天井が低いので、大柄な彼はわずかに背をかがめている。この部屋の中で見ると、彼はまるで巨人のようだった。これでは逃げ場などない。

「そうでなくとも頭が固い」

 キャレンのなんてことない苦笑からも、肌を刺すような威圧感を覚える。もう打つ手が見当たらないと、彼女は歯噛みした。

 今ここで確実に守らなければならないのは、本当の証拠だ。ではクロミオから受け取った本を手渡してしまうか?

 いや、それも駄目だ。あの本の価値がこの男にわかるはずがない。他の星より持ち込まれた貴重な資料を、価値のわからぬ人間に手渡すのは大きな損失だ。

「さあ、渡しなさい」

 キャレンは悠然とこちらに近づいてくる。勝利を確信した者のみが持ち得る余裕の笑みを浮かべ、長い腕を伸ばしてくる。

 手袋に包まれた大きな手を、彼女はねめつけた。今の彼女に一体何ができるのか? 全てが奪われてしまった後では取り戻せない。心臓がうるさく鳴り響くと、しがみついた子どもが小さく頭を振った。答えを求めるよう、彼女は視線を巡らせる。

「さあ早く」

 さらに一歩、キャレンが踏み込んできた時だった。伸ばされていた腕がかすかに震え、小さな呻き声が漏れた。違和感を覚えて彼女は顔を上げる。

 眉をひそめたキャレンは、困惑したように額を押さえていた。ここにきての体調不良か? 煙を吸いすぎたのか? しかし彼は先ほどまで特製のマスクをしていた。煙を吸った量なら彼女の方が多いだろう。

 では誰かが何かをしたのかと見回してみたが、聖の間には彼女たちしかいなかった。閉じられた扉の向こうにも、人の影らしきものは見当たらなかった。助けが来たわけではないらしい。

「どう、しましたか?」

 思わず彼女は問いかけた。しかし顔を歪めたキャレンから、返事はなかった。何かを求めるよう深い呼吸を繰り返し――唐突に、全ての動きが止まる。そして次の瞬間には、大きな体が左へと傾いでいた。

「……え?」

 重たい音を立てて、キャレンの体は床へと倒れた。頭もぶつけたらしく、嫌な音がした。つまり、意識がない。彼女は子どもを強く抱きしめた。

 まさか聖の間の奇病か? しかし一体急に何故? 彼女は平気だったというのに、突然どうしたのか? 過去の記録から、聖の間の奇病が発症するには、それなりの時間がかかるはずだった。こんなに急に倒れるなど聞いたことがない。

 全身から血の気が引いていく。心臓がばくばくと強く鳴る。彼女の額から汗が一筋、頬を伝って落ちていった。

 ここで駆け寄るべきか? 何らかの感染症であればこんなに急に発症するはずがない。違うのであれば、助けられるかもしれない。しかし原因がわからなければどうにもならない。彼女は医術師でもない。

 狼狽えつつも、彼女は必死に考えた。キャレンと彼女たちの違いは何だったのか。もしかしたら、母が倒れている理由も同じなのか?

 あちこちへと視線を彷徨わせた彼女は、ふと天井の一点に目を奪われた。今、一瞬だけ、青い光が見えたような気がした。薄青に塗り込められた壁のせいで、煙も青っぽく見えているのだと思っていたが。まさか、上に何かがある?

 彼女は瞠目した。

 どうして気づかなかったのだろう。気体の中には、上に溜まるものと下へ落ちていくものがある。もしも『病』を引き起こす何かが、上に溜まっていたのだとしたら?

 青く光る、人の意識を奪う何か。そこまで考えたところで、彼女は布袋を見下ろした。そしてしがみついてくる子どもを小脇に抱えるように位置をずらし、布袋の中をまさぐる。

 焦りのために時間がかかった。取り出したのは、クロミオからもらった本だ。慌てて頁を捲る指が震える。

「確か、確か」

 いつかテントの中で見た記述の中に、そのようなものがあった。第一期の時代からの遺産だ。クロミオたちが、星外の研究者たちが探っている、「魔法の時代」の遺物。

 物質の詳細は不明とされていたが、それは単に意識を奪うだけの道具らしかった。吸うか触れるかすると、昏々と眠ると書かれていた。中には深く眠りすぎて命を落とす者もいたと。

「あった!」

 ようやく手が止まった。図を見つけ出した。そうだ、瓶だ。シリンタレアであればさほど珍しくない小瓶。そんなありふれた物の中に、その物質は封じ込められているという。

 彼女は辺りを見回した。しかし該当しそうな瓶は、あちこちの戸棚に複数収められていた。その奥にある分も含めたら、相当な数になるだろう。

 けれども逆に言えば、そういった物の中に、こうした遺産が隠れている可能性は十分あった。

 通常の物質であれば、こんなに長期間安定しているものは希有だが。しかし第一期の時代のものであれば、そうであっても不思議はない。何せ魔法扱いされていたくらいだ。

 ――病ではなかったのだ。遺産の力だ。遺跡群の傍で遭遇したあの霧と同じだ。感染症ではない。本来はこのように誰かを隔離する必要などなかった。

 唇を震わせた彼女は、力が抜けたように母を見下ろした。もしかしたら母は、煙が入り込んだことで脱出口を求めて探し回ったのかもしれない。

 自分一人ならともかく、ここには子どもがいる。母なら必死になるだろう。通気口は必ずあるはずだと、天井も見ようとしたのかもしれない。

 何だか泣きたい気分になった。笑い出したくもなった。しかしこの場を何とかしなければならないという事態には変わりがない。

 倒れた大人が二人と、状況を理解していない子どもが一人。意識がある大人はディルアローハだけだ。ここには助けがいる。

 意を決した彼女は、もう一度本を布袋へと押し込んだ。理解を得るためにはこれが必要だ。病と勘違いされて出してもらえない未来が来たとしても、この本と証拠品だけは、誰かに手渡さなければ。

 そのまま立ち上がろうとしたところで、子どもの手がそれを邪魔した。寝ぼけているのか、不安なのか、まるでぐずるような調子で彼女にしがみついている。自然と彼女の眉尻は下がった。

 離れて欲しいと、伝える残酷さを彼女は知っている。縋るものがない世界に、置き去りにされる心細さも知っている。仕方がないと、彼女は膝立ちになった。そして子どもの顔をのぞき込む。

「これ、重いけれども、持っていてね」

 そう告げると、彼女は布袋ごと子どもを抱え上げた。上体を完全に起こすわけにはいかないから中腰だ。

 慣れない恰好で慣れないことをしているせいで、もう既に息が上がっている。頭がくらくらするのは、あの青い気体を吸ったからではないと信じたい。

 彼女は壁を伝うように一歩一歩、重い体を引きずりつつ、扉へと向かった。ほんの少しの距離なのに、気が遠くなりそうだった。あの扉を体で押し開けることができればいいのだが。今の自分に可能だろうか。

 途中でちらとキャレンの方を見遣ったが、彼はその場に倒れ伏したままだった。母も、身じろぎ一つしなかった。嫌な考えが彼女の頭をよぎる。しかし母はまだ規則正しい呼吸をしていた。そんな事実を思い出し、気持ちを奮い立たせる。

 もしここに自分一人であったら諦めていたかもしれない。そう思うと、守らねばならない存在がいるというのは大きい。現実的な思考を放棄させないという意味では。

 彼女はさらに前へと進んだ。やはり室温も上がっているのだろう。汗は噴き出る一方だ。たった一歩進むだけでも、全身の力を振り絞らなければならない。だがもう少し体力があればなどと、再び後悔しても詮がない。

 傾ぎそうになる体を壁にもたせかけつつ、ようやく扉まで辿り着いた時には、膝ががくがくと震えていた。それでもどうにか体当たりする勢いで扉を押し開く。

 ぶわりと、灰色の煙が入り込んできた。新鮮な空気とは言い難い。それでも熱気が和らいだことに、彼女は少しばかり安堵する。

「ディルアローハ!」

 と、顔を上げたところで、耳馴染んだ声が響いた。目を凝らした彼女は息を呑んだ。

「……え?」

 聖の間の外、薄青の廊下には、人だかりができていた。どれも見慣れぬ恰好をした男たちだった。その向こう側に、ちらとだけサグメンタートの顔が見える。

 まさかナイダートの者たちに捕まったのか? キャレンだけではなかったのか? この局面は、どうしたところで乗り切れるとは思えない。

「無事なのか!」

「落ち着きなさい、サグ。まずは状況確認だ」

 彼女が呆然としていると、人だかりの中から一人、灰色の儀式服を身につけた者が進み出てきた。サグメンタートの父親――ゼランツウィーシュだ。すぐに気がつかなかったのは、重厚なマスクをつけていたからだった。

 一体何が起こったのかわからず、彼女は瞬きをした。男たちの声に驚いたらしく、腕の中では子どもが身じろぎをする。

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