第25話 聖の間

 少しずつ近寄れば、キャレンと呼ばれた男の様子がはっきり見えるようになった。予想通り、口元は特製のマスクで覆われている。やや浅黒い肌が印象的で、額には深い皺が刻まれていた。

 見たところは壮年の男だ。筋肉質な首や体格の良さを見るだけでも、やはりシリンタレアの人間らしくはない。あれは鍛えられた体だ。

 その手に握られているのは、見慣れない機械のようだった。ボッディが手にしていたような銃とは違う。ジブルでも見かけたことはない。

「キャレン殿!」

 彼女が愛想笑いをした、次の瞬間だった。悲鳴じみた声に続いて、キャレンの体が傾いだ。誰かがその胴に体当たりしたためだと気づいたのは、絡みつく腕が見えたからだ。

 慌てて飛び退ろうとした彼女は、体勢を崩して廊下の壁に背中ごとぶつかった。鈍い痛みと共に、肺から空気が無理やり絞り出される。それでも布袋を落としてはいけないと、彼女は腕に力を込めた。

 灰色の煙の中で、キャレンという男が体を起こそうとするのが見えた。いや、そうしようとしたところで、傍にいる誰かの腕がその口元へと伸びた。

 何者かの大きな手が剥ぎ取ったのは、特製のマスクだ。同時にキャレンは盛大に咳き込む。そうか、その手があったか。この隙に遺産を奪い取ることができれば。

 彼女は壁から背を離す。煙の向こう側で、また誰かの呻き声がした。複数の人間が入り乱れていることはわかるが、誰が誰なのか、味方がどれだけいるのかも判然としない。しかし迷ってもいられなかった。

 倒れたキャレンと、もう一人の男が床でもがいている。遺産を探しているのか? 一歩進み出た彼女は目を凝らし、視線を彷徨わせた。こんな場所で危険な物を使わせるわけにはいかない。

 ――あった。逆側の壁だ。そこに床とは違う色があるのを捉え、彼女は駆け寄った。けれどもぐらりと体が傾ぐ感触がして、まともには走れなかった。ほとんど崩れ落ちるような勢いで、彼女は床に倒れる。

 本をかばったせいで、肘から先に強い痺れが走った。口元の布も捲り上がりそうになる。何かに躓いたのか? 顔をしかめた彼女は、それでも懸命に上体を起こす。

 煙のせいか目が痛い。涙が滲む。そんな視界でも、目の前に青い四角い何かがあるのが見えた。遺産かと思った彼女はそっと手を伸ばす。が、機械に触れる感触はなかった。それはただの四角い何かだった。

 途端、壁の方からぎぎっと軋んだ音がする。

「……え?」

 彼女はゆっくり顔を上げた。何が起こったのか、一瞬わからなかった。何度か目を瞬かせて、それでようやく理解する。

 壁だったはずの一部が、ぽっかり口を開けていた。それまでたゆたっていた灰色の煙が、その奥へと流れこんでいく。そこで彼女は我に返った。これは隠し扉だ。そして煙が流れ込んでいるということは――。

「もしかして」

 よろよろと彼女はどうにか立ち上がった。口元を覆っていた布がひらりと揺れ、落ちる。その軌跡を呆然と目で追いかければ、廊下の向こう側でキャレンが立ち上がる姿が目に入った。鼓動が強く鳴る。まずいと、彼女の頭の奥で直感が告げた。

 考える暇などなかった。彼女はそのまま、隠し扉の奥へと駆け出した。その先が行き止まりであることは予想できたが、戻るという選択肢はなかった。布袋を抱える手に汗が滲む。

「待ちなさい」

 背後で低い声がするが、素直に聞いていられるわけがない。キャレンの手に遺産があったかどうか確認はできなかった。しかしこの体格差だ。どちらにせよ彼女に勝てる要素はない。

 忽然と泣きたくなった。縋れるものであれば、何でも頼りたかった。

 しかしもうボッディやサグメンタートの助けは期待できない。もちろん、クロミオもいない。自分の身は自分で守るしかない。そんな当たり前の事実に、絶望的な心境になる。

 息を切らして走りつつ、彼女は周囲へも注意を払う。通常の廊下とは違い、壁が薄青く塗られていた。間違いない。ここが聖の間へと続く道だ。

「止まりなさい」

 背後から迫る靴音が大きくなる。距離が詰められている。さらに速度を上げたかったが、足に纏わり付く布が邪魔をしていた。

 体中あちこちが痛むし、喉の奥もひりひりとする。覆いがなくなってしまったからだろう。頬まで引き攣るような感覚があるのは、気のせいだと思いたい。

「あっ」

 さらに進むと、突き当たりに戸があった。青い枠に白い扉がはめ込まれているように見える、異質な扉だ。通常のものとは明らかに材質が異なっていた。

 何よりその扉には窓がある。これほど透明な硝子がはめ込まれているものなど、なかなかお目にはかかれない。

 聖の間の入り口だ。彼女は祈るような気持ちで、その取っ手へと右手で触れた。そして肩越しに後方を振り返る。

 先ほどよりも薄くなった煙の向こうに、キャレンがいた。こうして見ると大男だ。髭をたくわえた男の手には、細長い金属の棒のようなものが握られている。先ほど手にしていたものとは違う。まさか別の遺産まで携えていたのか?

「そこまでだな。行き止まりだ。おとなしくこちらへ来なさい」

 重たい靴音を掻き消すよう、キャレンの声が響く。この男が一体何の目的でここにいるのか、考えを巡らしながらも彼女は固唾を呑んだ。

「この先は聖の間です。あなたは、ご存じないかもしれませんが」

 まず一言、彼女はそう口にした。するとキャレンは思いきり眉根を寄せた。そこに怪訝そうな色はなかった。まさか聖の間を知っているのか? それはつまり、シリンタレアの内情にも通じていることを意味している。

「この扉を開ける意味は、わかりますね?」

「正気か? 君も死ぬぞ」

「それは、どうでしょうか」

 やはりこの男は聖の間のことを知っている。誰かが話したとしか思えなかった。

 彼女はちらと後方の窓を見遣った。中の者と意思疎通を図るための小窓だが、その奥は灰色に濁って見えた。どこからか煙が入り込んでいるに違いない。この中に母がいるのだとしたら、安否が気にかかる。

 今ここで、ディルアローハが手にしている武器は「証拠品」と聖の間だ。前者は使えない。となると、後者を使って揺さぶるしかない。自分の命をかけることになるが。

 だがそれしか手がないなら、やりきるしかない。腹を決めた彼女は、まず取っ手を握る手に力を込めてみた。

 そもそもこの扉が容易く開けることができるものなのかも知らない。だがここに外から入り込もうという人間など普通はいないはずだ。だから外からであれば開くのではないかという、根拠のない期待が彼女にはあった。

「賭けてみますか?」

 相好を崩した彼女は、ぐいと扉を引っ張った。予想通り、それは難なく動いた。かすかな風が生まれ、彼女の髪や長衣を揺らす。目を見開いたキャレンが後退る様に、彼女は口の端を上げた。

「中でお待ちしています」

 そのまま扉の内へと身を滑り込ませ、彼女は唇を引き結んだ。本来なら許されぬ行為だが、他国の人間がこんな場所にいること自体があってはならぬことだ。儀式の最中に火の手が上がることも、無論そうだ。

 ここまできてしまったからには、キャレンを引き入れた何者かを引きずり出すしかない。

 煙を吸わないよう身をかがめた彼女は、そのまま辺りを見回した。

 聖の間は、小さな会議室程度の空間だった。廊下と同じ、薄青の壁に囲まれている。

 同色の天井はさほど高くなく、吊り棚を含めあちこちに古い棚が置かれていた。詰め込まれた本、紙束、硝子瓶、木箱といったものが目立つ。これが遙か昔から保管されているという遺産だろうか?

 そして肝心の母は――部屋の隅にいた。気づかなかったのは、床に倒れ伏していたからだった。

 即座に駆け寄ってよいものか、ディルアローハは躊躇する。倒れている理由が煙のせいなのか、それとも「聖の間の病」のせいなのかは判別がつかない。

 ぎゅっと唇を引き結ぶと、母の体が動いた。否。母の体の下から、何かがもぞもぞと顔を出した。ディルアローハは目を見開く。

 それは大きな布にくるまれた子どもだった。煙を吸ったのか、寝ぼけているのか、ぼんやりとした眼で辺りを見回している。

「どうしてっ」

 子どもが何故この部屋に? 衝撃を受けると同時に、彼女は小走りに駆け寄った。深く考える必要はなかった。誰の仕業にせよ、ここにまだ生きている子どもがいるなら守らなければならない。

 布袋を脇に置いたディルアローハは、子どもの体を母の下から引っ張り上げる。その拍子に、ずるりと布が落ちそうになる。

 子どもを抱えつつ布を引き上げた彼女は、そこでさらに息を止めた。土色の大きな布の内側には、何かがびっしりと書き込まれていた。

「……え?」

 何から何まで予想外のことばかりだ。混乱しながらも煙で痛む目を瞬かせ、彼女は布に顔を寄せた。片手で抱いた子どもは、ぐずるように身を寄せてくる。

「これは……」

 よく見ると、布に直接書き込まれているのではなく、何枚もの紙が縫い付けられていた。幾つかは慌てて書き留めたもので、残りは何かの説明書のようだった。地図まである。

 彼女は眉根を寄せる。見覚えのある図面は、療養塔の内部構造についてだ。そこに名前らしきものが書き込まれている。

 だがそれは、シリンタレアの人間につけられる名ではない。この国で名付けられるものよりもずっと短かった。それこそ大国のような。

「もしか、して……」

 名前の横には数字がある。五だの十だのと書き込まれている。年齢だろうか。その下には、出身地と思しき地名がある。そのうち幾つかには聞き覚えがあった。どれもナイダートの地だ。

 戸惑いながらも、彼女は縫い付けられた書き付けを順繰り見回した。

「そういう、ことなの?」

 これは、国外の者を、公には知られずに、療養塔に引き入れるための算段を記したものだ。そう確信してしまえば、何が起きているのか全ての糸が繋がった。先ほど脳裏をかすめた予感が裏付けられてしまった。

「友好条約違反って、そういうこと」

 大国ジブルが疑っていたのはこれだ。シリンタレアの内部が、ナイダートへ不当に便宜を図っていることを指摘していたのだ。

 シリンタレアが各国の要人を受け入れることは大して珍しくもない。療養のために、出産のために、権力や富を持った人間がここへとやってくる。

 だがそのための手続きは煩雑であるし、なによりジブルとナイダート均等に受け入れるというのが条件となっていた。二大国どちらかと親密になるというのは、最も避けなければならない事態だ。

『私たちは中立であることで生かされている』

 母が繰り返していた言葉が蘇る。そう、中立でなければならない。どちらかに偏ってはいけない。二大国の間に挟まれたシリンタレアが、守らなければならない重要な掟だ。

 泣きそうな気持ちで布を見下ろしていると、受け入れ患者の一覧らしきものが目に入った。その名と先ほどの図面を見比べようとしたところで、彼女ははっとする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る