第24話 証拠持ち

「火の手は!?」

「早く消火を!」

「準備班は緊急連絡も急げっ」

 指示を出す叫びが、悲嘆に暮れる声に覆い尽くされていく。彼女は息を呑んだ。ここで慌ててはいけないとわかっていても、どうしても気が急いてしまう。

「ディルアローハ薬術師、ここで待っていなさい」

 本が腕の中にあることを確かめていると、薬術師長がそう言い残して傍を離れた。頭の布を取ってもよいかどうか、彼女は逡巡する。式が続行できないのは明白だ。辺りが確認できないのは不便なので、できれば捲り上げてしまいたいのだが。

「煙だ! 薬品が燃えている!」

 忽然と、よく通る声が中央の間に響いた。一気に動揺が広まる気配がする。

 もう待ってはいられないと、彼女は布を捲り上げた。どうやらそれは何かで髪にくくりつけてあるらしい。簡単には剥ぎ取れそうになかったので、仕方なく頭の後ろに追いやるだけにする。

「これは……」

 視線を巡らした彼女は固唾を呑んだ。半球状の天井からぶら下がる明かりに照らし出され、灰色の衣に身を包んだ者たちが右往左往していた。

 そのうちの一部が向かっているのは、どうやら左手に見える廊下のようだ。その先に何があるのか咄嗟には思い出せない。奥の層はほとんど出入りしない場所だから記憶が薄い。

 戸惑いながらも、彼女はちらと広間の奥側へ一瞥をくれた。本来なら元首がいるはずの場所は、今は空っぽだった。もう従者たちに避難を促されたのか。それとも顔を出す前だったのか?

 誰もいない祭壇と、傍で揺れる大きな旗が、そこはかとなくむなしく映る。

 いや、それよりも今は煙の方だ。薬品が燃えているのが本当なら尋常な事態ではない。

 布袋を抱きしめるようにしながら、彼女はもう一度辺りを見回した。サグメンタートの姿はすぐには見当たらない。皆が皆同じ恰好をしているせいで、瞬時に区別がつかなかった。

 サグメンタートの父たちや、上司の姿も見つからなかった。既に火の手の方に向かってしまったのだろうか?

 彼女はゆっくりと歩き出す。惑う人々をかき分けるよう、一歩一歩進む。

 警戒しつつ匂いを嗅いでみたが、先ほどと同じ甘やかな香りが残っているだけだった。匂いが濃いのは煙っている方か? 煙が肉眼でもわかるのは、左手の廊下の奥だけのようだ。彼女は眉根を寄せる。

 シリンタレアの人間が、そう容易く薬品を燃やすだろうか? それがどれだけ危険な行為かわかっていない者がいるだろうか? 彼女を襲う時でさえ、鎮静薬のみを持ち出すような慎重な態度なのに。

 どくりと鼓動が跳ねる。まさか先ほどのあの発言が誘導だとしたら? いや、本当は、もう既に、大国が動き出していたのだとしたら?

 嫌な考えが幾つも脳裏を駆け巡っていった。白いスカートを揺らしつつ、彼女は歩調を速めていく。何かを自分たちが見落としているような気がしてならなかった。

 行方不明の子どもたち。

 ナイダートの遺産探索警告。

 ジブルがかけてきた嫌疑。

 夜に鎮静薬を持って忍び込んできた子ども。

 そして何故か、慌ただしく聖の間に送り込まれた母。

 誰かが何かを隠しているのではなく、誰もが何かを隠している?

 ディルアローハは布袋を両手で抱え込んだ。

『隠し事がある人はみんな怪しく見えるものさ』

 クロミオの声が蘇った。他の星から託された本を抱えている彼女とて同じだ。隠されたものが何か知らないからこそ、全てを疑り、慌て、深みへとはまっていく。それは誰か一人ではなかったのではないか?

 背後から誰かに呼び止められたが、彼女は意に介さなかった。何かが一つの糸で繋がったような、そんな感覚があった。頭の中で幾つもの欠片が組み合わさり、一枚の絵が浮かび上がる。

 ジブルの言う「友好条約違反」が、虚偽の情報を流したことに対する警告でなければ? 秘密裏に動いたことへの嫌疑でなければ? たとえば、『均等条約』の反故に対する嫌疑であったなら?

 ほとんど駆けているような速度で進みつつ、彼女は唇を引き結んだ。優美な白い布が足に纏わり付いて鬱陶しい。履き慣れない靴の硬さも、足の運びを邪魔していた。

「ディルアローハ!」

 今度は聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。サグメンタートだ。振り返るべきかどうか躊躇っていると、灰色の布を纏ったサグメンタートが彼女の横へと並んだ。頭に被っていたと思われる布を片手に、彼はこちらへと一瞥をくれる。

「この先に聖の間がある」

 端的にそう言い残し、彼はそのまま速度を上げた。翻った灰色の布がばさりと乾いた音を立てる。

 思わず彼女は瞠目した。この先に聖の間がある。つまり、母がいる。

「もう転ぶなよっ」

 皮肉混じりの言葉が、灰色の廊下に響いた。彼はどうやら、先に聖の間に向かうようだった。いや、煙の元を確かめるつもりなのか?

 どちらにせよ彼女を待つ気はなさそうだ。その方が正解であろう。治っていない足に、慣れない靴という枷をはめているようなものだ。まともに走れやしない。

 小さくなっていく彼の背中を見つめつつ、彼女は息を弾ませる。鼻をつんと刺すような酸味のある、それでいて甘い匂いが気がかりだった。

 さすがに毒を撒いている人間がいるとは思いたくないが、よくない物まで燃えてしまっている可能性は念頭に置くべきだろう。しかし防護服やマスク、覆いを準備するような時間はない。

「嫌になるわ」

 彼女は眉間に皺を寄せた。安全に治療を行うための技術も、被害を広げないための知識も、こういう時には何の役にも立たない。

 研究室や実験室での火災は想定されているが、こんな場所で煙が発生する場合など予想の範疇外だ。奥の層はどうしても空気の流れが滞りやすい。

 そこまで考えたところで、彼女ははっとした。

 感染制御のためにはそうした空気の流れを制することも必要だ。それは聖の間も例外ではない。あの部屋は、何らかの感染源がある前提で対応されている。故に、あの部屋からの空気の流れは限定されている。

 要するにあそこは、周囲の空気を集めやすい構造になっていた。火の手がどこであれ、煙が生まれたのであれば、それは確実にあの部屋を目指す。

 目の前が暗くなる思いがした。煙だけなら、聖の間に保管されている遺産や資料そのものには被害はないかもしれない。しかしそこにいる人間の命は保証されない。強く唇を噛むと、血の味がした。

 しばらくもしないうちに、廊下の左手に人垣が見えた。その奥が火の手だろうか? 人の隙間を縫って溢れ出してくる煙は、驚くほどに黒い。

 ただの煙にしては奇妙だ。それは皆も感じているらしく、誰もが何かを口々に叫びながらまごついている。そして溢れ出した黒い煙は――。

「さらに奥ね」

 こちら側へは流れず、さらに奥へと向かっているように見えた。それは、廊下の奥側が薄暗く見えていることも証明している。きっと聖の間のある方だ。

 ちらちらと人垣を横目にしつつ、彼女はさらに足を進めた。人だかりの中に、サグメンタートらしき姿はなかった。やはりこの先にいるのだろうか?

 前へ前へ行くと、甘い香りがますます強くなった。鼻や喉の奥がちくちくとする。

 これはおかしいと、彼女はやにわに足を止めた。この感覚は、刺激物への反応と同じだ。毒かどうかは不明だが、まともに吸っているのは危険だった。

 辺りを見回したが、やはり防護服の類が落ちていたりはしない。仕方なく、彼女は頭の布を無造作に剥ぎ取った。

 巻き込まれた髪の一部が引っ張られて痛みが走る。抜けたものもあるだろう。せっかく結ってもらった髪が台無しだ。しかし今は躊躇している場合ではない。

 一度その場でしゃがみ込んだ彼女は、本の入った布袋を膝の上に置いた。そして艶やかな白い布を、そのまま口と鼻を覆うよう巻き付ける。

 専用の覆いのようにはいかないが、何もないよりはましだろう。少なくとも直接吸うよりはよいはずだ。

 意を決した彼女は布袋を抱え、再び白い布の下へと隠した。これを奪われるのだけは防がなければ。

 彼女は辺りを一度見回してから、また小走りに進み出した。この先は煙でろくに視界が利かない。さらに神経を研ぎ澄ませる必要がある。彼女はできるだけ瞳も細めつつ、煙の中へと飛び込んだ。

 匂いはさらに強くなった。むせかえるような甘さに、頭がくらくらとする。この調子ではサグメンタートたちが無事かどうかもわからない。

 彼は何か装備を隠し持っていただろうか? 儀式に参列する者たちがどの程度服装を制限されているのか、彼女は知らない。

「止まれっ」

 警告は、唐突に響いた。それは灰色の煙の向こうからだった。かなり大柄な男の影が、うっすらと浮かび上がって見える。彼女は足を止めた。

「女が何故こんなところにいる?」

 男が何かを構えているのは、朧気な輪郭からでも察することができた。息を呑んだ彼女は身を固くする。

 だが今の一言ではっきりした。この男はシリンタレアの人間ではない。シリンタレアの人間なら、この場で白い長衣を身につけた者がただ一人であることを知っているはずだ。

 彼女は目を凝らした。男の手に、何か光る物が握られているのが見える。短剣か? それとも遺産の類か? どちらにせよ、危険物には間違いない。迂闊には動けない。

「キャレンさん、その女が証拠持ちだ!」

 刹那、今度は別の声が男の背後から響いた。男ははっとして振り返る。危険を察した彼女は、思わず一歩後退った。証拠持ち。その単語が意味するものは重い。

「親父!」

 しかし男が再び彼女の方を振り返るより早く、別の何者かが動いた。それは灰色の影だった。どんと鈍い音が響いて、同時に男性の呻き声がする。

 奥で何が起こっているのか? そう狼狽えたのは彼女だけではなく、キャレンと呼ばれた男もだった。キャレンは彼女と煙の奥を交互に見比べ、大きく舌打ちする。

 このまま煙に向かってくれたらいい。だがそんな彼女の希望は、すぐさま打ち砕かれた。

 キャレンが逡巡していたのはわずかな間だけだった。彼は「証拠持ち」を優先することにしたらしく、また彼女の方へと向き直る。

 彼女はさらに後退した。この男が手にしているのが銃のような遺産であったら、ここで走り出すのはまずい。ではどうしたらよいのか。焦りばかりが募り、答えが出ない。

「おとなしくすれば乱暴なことはしない。こちらへ来い」

 マスクでもしているのか、声がくぐもっている。しかし流暢な共通語だ。けれども証拠物を渡せと言うのではなく、彼は降服を要求してきた。そこが奇妙だった。

 ――いや、この男が他国の人間だからか。彼からすれば、こちらが今それを持っているのかどうかも判断できないのか。

 儀式が始まる前であれば彼女が手にしているはずだとわかるのは、儀式の手順がどのようなものであるかを知っている者だけだ。

 彼女はおずおずと頷いた。時間を稼ぐ意味があるかどうかはわからなかったが、それでもこの男が油断する隙を待つ方が得策だろう。少なくとも現時点で、男の方には彼女に危害を加えるつもりはなさそうだ。

 だからわざとたどたどしく、危うい足取りで、彼女は近づいていった。先ほど通り過ぎた人垣のうち誰かがこちらに来てくれればいい。そう願いつつ、男の様子をうかがう。

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