第23話 献上の儀
長くもない髪が結い上げられていく様を、ディルアローハは鏡越しに見つめていた。
磨き上げられた大きな鏡はそれだけで貴重だが、そこに自分の姿が映し出されているというのは奇妙な心地だ。狭い薄灰色の室内で、その鏡だけが異様な存在感を放っていた。
「お綺麗ですよ、ディルアローハ薬術師」
無言でいるのをどう勘違いしたのかわからないが、髪結いしてくれている女性が鏡の向こうで微笑む。
黒い長衣に身を包み、白髪交じりの髪をきっちり束ねたその女性は、おそらく母とそう変わりない年だろう。だからこそますます居心地が悪い。
「アマンラローフィ医術師の若い頃にそっくりですね。髪質まで。腕が鳴ります」
「……そうですか」
実に嬉しそうに笑うその女性は、シリンタレアでは珍しい髪結い専門の人間だ。献上の儀や、任命の儀などの際にしか出番がないだけに、髪結いになれる者は限られている。
医術師や薬術師、訓練師といったものがほぼ無制限であることを考えると、その差は明確だ。
医術国家という地位を守るために、全ての職が存在している。そういっても過言ではない。それはつまり、それ以外の部分を大国に依存していることにもなる。
全く別の小国であるニーミナを訪れて初めて、ディルアローハはその危うさを知った。他国と比べても、シリンタレアは偏りすぎている。それはおそらく半分は、二大国の意思も関与しているだろう。
「アマンラローフィ医術師の髪は、よく結わせてもらいましたからね。婚約の儀の時はそれはそれは盛大で。ああ、ディルアローハ薬術師もそろそろそういう時期ですか? 二度も留学されましたものね。きっとそろそろたくさんお声がかかりますよ」
仕上げとばかりに偽花を散らせながら、髪結いの女は明朗に語る。ディルアローハは曖昧に微笑んだ。
二度の留学という響きに違和感を覚えたが、ニーミナへの訪問も留学扱いとなっているのかと思い至る。留学経験は箔がつくものの一つだ。様々な知識を吸収することは、素晴らしいこととされている。
もっとも、ある程度の役職についてしまうと、留学はなかなか難しくなる。だから親は皆、幼い内に子を留学へと行かせたがる。
「いえ、そんなことは」
「ありますよ。血筋も何もかも文句なしですもの。献上の儀が終わったら大変なことになりますよ」
鏡に映る女性の笑顔は実に眩しい。なるほど、何も知らぬ者の目から見たら、現状はそう認識されるようだ。そのことがディルアローハには新鮮だった。
この国が揺らがされていることも、大国が動いていることも、この女性は知らない。ただただ今までと同じ日々が続いていくものと思い込んでいる。
「そうなるといいですね」
ディルアローハがそう答えたところで、仕上げは終わったようだった。頬を縁取る柔らかい髪の一房が、女性の手によってくるりと巻かれ、解かれる。
「はい、終わりです。ディルアローハ薬術師はもっと自信をお持ちくださいね」
鏡越しに目が合った。柔和に微笑まれて、ディルアローハは若干戸惑う。自信がないつもりなどはなかったが、女性の目にはそう映るらしい。婚約の話に微妙な返答をしたせいだろうか。
ディルアローハは慎重に椅子から立ち上がった。白い長衣がたおやかに揺れ、衣擦れの音を立てる。儀式用の衣は普段は目にすることがない、艶やかな布を使用している。彼女が普段身につけるようなものとは、肌触りがまるで別物だった。
「この花はパイエオンといって、かつて医を象徴するお伽噺には必ず描かれていたものなんですよ。もちろん、偽物ですが」
視線を落としていると、女性の声が背後から響いた。ゆったり振り返れば、手を合わせた女性はうっそり瞳をすがめている。
それは髪に散らされたこの花のことだろうか? 儀式の際には布に隠れて見えなくなってしまうので不思議に思っていたが、意味があるものだったらしい。
「そうなんですか。知りませんでした」
「アマンラローフィ医術師やミッシュエルン医術師は絵本を読んでくださいませんでした? 確かお持ちでしたはず。ああ、すみません、お忙しいですもんね。私のような暇人とは違いますもんね。いけないいけない」
一人で勝手に結論づけながらお喋りを続けるこの女性は、ひょっとすると雑談に飢えているのだろうか。同業者がほとんどいないとなれば、それはさぞ孤独だろう。
と同時に、別の側面にも気がつく。それだけ母のことを知っているというのは、母もこの女性の前では話していたことを意味している。
たわいない話をする母というのが想像できず、ディルアローハはひっそり眉根を寄せた。医に関わらぬ者の前の方が気負わずにいられたのだろうか。
「ああ、また余計な話を。ではディルアローハ薬術師、仕上げのベールを」
促されたディルアローハはそのまま少しだけ背をかがめ、膝を折った。長いスカートの裾を両手でつまみ上げると、艶やかな白が天井の明かりを反射して煌めく。
しかしそれらはすぐに、視界を遮る布によって陰った。頭をすっぽりと覆う大きな布は、身につけた長衣と揃いのもののはずだ。しかしディルアローハからは見えない。布の隙間からかろうじて足下が見えるだけなので、歩く時にも気を遣う。
「さあディルアローハ薬術師」
俯いていると、布袋が両の手に乗せられた。――本だ。頷いたディルアローハは、そのまま片手で本ごと抱えこむ。こうすれば、頭から被った布に隠れて遠くからは見えまい。片手で持つにはいささか重いが、儀式の終わりまでの辛抱だ。
「行きましょう」
そっとあいている方の手を取られ、ディルアローハは小さく首を縦に振った。これから赴くのは、儀式が行われる中央の間だ。奥の層の真ん中に作られたその広間は、奥の層のどこへ行くにも必ず通らなければならない場所だった。
ここからなら、聖の間に行くこともできる。もちろん何者かが本を奪ったとしても、どこにでも逃げることができる。動くにはうってつけの場所だった。誘うにも、誘われるにも、今しかないと思わせる、思える場所。
危険だが、彼女たちには悠長に構えている時間がない。いつ大国が次の手を打ってくるかわからないのが現状だ。
彼女は履き慣れない靴で、手を引かれながらゆっくりと歩き出す。部屋を出ると、真っ直ぐ中央の間を目指す流れだ。
見えないせいもあり、廊下を進む時間がいやに長く感じられた。布の隙間から見えるのは灰色の床のみ。いつもとは違う靴が奏でる甲高い音が、次第に鼓動を速めていく。
儀式には、サグメンタートや上司たちも参列することになっていた。もちろん、その他の人間も。父は療養塔で治療中ということになっているので不在だが。
しかしこの恰好では、彼女からは何も確認できそうにない。頼りになるのは聴覚くらいだ。こういう時、人より少し耳がいいというのは役に立つ。
「ディルアローハ薬術師、緊張するなといっても無理でしょうが、どうぞ体の力を抜かれてくださいね。すぐに終わりますから」
ディルアローハの動きが固いことを、髪結いの女性はそう勘違いしたらしい。いや、緊張していることには変わりないか。理由が違うだけだ。ディルアローハは曖昧に相槌を打つ。
この女性が付き添ってくれるのは中央の間の入り口までだ。相手方が動き出すとしたら、広間に入ってからだろうか?
この女性を巻き込まずにすめばよいと、願わずにはいられない。何も知らずにこのまま平穏な生活を送って欲しいと。決して叶わない夢を見たくなる。
「そろそろです、ディルアローハ薬術師」
しばらくすると、女性の歩調が落ちた。『その時』が近づいてきたことを察して、ディルアローハは固唾を呑む。布袋を抱える腕に、自ずと力がこもった。
「ドバルスボーク薬術師長」
揺れる白い布から見える床の色が変わった。そこで髪結いの女性は、口を開いたようだった。呼ばれたのは薬術師長の名だ。ディルアローハのような末端の人間が普段顔を合わせるような地位の者ではない。自然と背筋が伸びる。
「よろしくお願いします」
「承知しました」
低く抑えた男性の声がする。ドバルスボーク薬術師長だろう。髪結いの女性の手が離れ、かわりに大きな手がディルアローハの指先に触れた。ごつごつとした、ざらついた肌。上司たちと同じ、長年植物を扱った者の手だった。
「ディルアローハ薬術師、行きましょう。元首がお待ちです」
「はい」
穏やかな声音で呼ばれ、ディルアローハは首肯した。薬術師長でさえ、こちらの味方とは限らない。そうサグメンタートに釘を刺されたことを思い出す。小さく喉が鳴った。
俯くと、揺れた白い布の影が踊っているのが見える。明かりが増えたのだ。
そこは既に、中央の間のようだった。靴音の響き方から、周囲に広大な空間が広がっていることを察する。そこに大勢の人間がいることも、気配から感じ取れた。誰もが口を閉ざしながら『その時』を待っている。
布袋を抱く手にますます力が入った。まだどこからもさざめきは伝わってこない。つまり、動きはない。今度は別の意味での緊張感が背筋を這い上ってくる。
このまま何事もなく儀式が終わってしまった場合については、何も考えていないに等しかった。そうなった場合はどうすればよいだろう? いや、確実に何かは起きるはずだ。
大国が動き出す可能性を恐れているのは、ディルアローハたちだけではない。誰であろうと、大国が大義名分を作り上げて乗り込んでくる事態を恐れている。その前に片をつけたいと願っているはずだ。
どんなに策を弄したところで大国には敵わない。それがシリンタレアの現実だ。――だから内部で分裂している場合ではないというのに。
と、薬術師長が足を止めた。つられて彼女も立ち止まった。二人の靴音が止むと、正真正銘の静寂が広間に満ちた。
彼女はゆっくりと顔を上げる。白い布で覆われた視界の向こうに、うっすら明かりがともされているのが見えた。布越しでもわかるほどの強く暖かな光は、実験室でもないと見ることなどあたわない。
「ディルアローハ薬術師」
薬術師長が低く名を呼ぶ。頷いた彼女は、静かに一歩前へと進み出た。不意に、どこからともなく柔らかな風が吹き込んだような錯覚に陥った。
山で漂うような甘やかな花の香りを含んだ、まるで初夏の風だ。特別なお香でも焚かれているのだろうか?
否。そんなはずはない。いくら厳粛な儀式が行われる広間でも、そういった物を使用することはない。特に大勢の人間が集まる場合は。大概の者は匂いにも敏感であらねばならない。だから強すぎる刺激を用いるようなことはしない。
「倉庫で火が!」
遠くで、誰かが叫ぶのが聞こえた。疑惑は確信へと変わった。――やはり、何者かが動いた。ざわめきが辺りに広がっていくのが感じ取れる。
奥の層にある倉庫には薬品類は置かれていないはずだが、しかし火の手は何にとっても敵だ。どんな資源であれ無駄にはできない。
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