第30話 青の下で

「私が持っているより、あなたの方が適任だからです。この本は眠らせておくべきではない。価値のわかる人間が、活かすべきです。これは外よりもたらされたものなんです」

 彼女は平静にと努めつつ訴えた。これだけで彼には伝わるだろうか? 外がどこを意味するのか理解してくれるだろうか?

 上層部へと献上したものが、適切に扱われるという保証はない。シリンタレアはまだまだ混乱の中にある。どこで誰に目をつけられるのかは、予想できなかった。

 かといって彼女がジブルに持ち込んだとしても、それを活用する当てがない。第一、この本は医術書だ。知識の面でいえば、医術師が用いるべきものだ。

 彼が返答に窮しているのは感じ取れた。当然だろう。突然こんなことを告げられて、当惑するのが普通だ。だからここで急かしてはいけない。そうは思うのに、待つだけの時間は長かった。本を持つ手が痺れてくる。

「本当に?」

「これが私の判断です。あなたなら、と」

 確認の声に、彼女は心底安堵した。それはつまり、彼に拒絶の意志がないことを意味していた。受け入れられるというのがどれだけ喜ばしいことなのか、心底実感したような気になる。

 だがまたしばし、彼は黙り込んだ。彼女はさらに待つ羽目になった。分厚い本を掲げているのがますます辛くなってくる。布の下で、彼女は固く目を瞑った。

 そのうち二人の姿が見当たらないことに気づいた誰かが、ここにやってくるだろう。本を見られたら終わりだ。それでも急く気持ちを抑え込みながら、彼女はじっと耐える。ここは彼を信用するしかないところだ。信用しなければ信用されない。

「わかりました」

 まるで儀式の続きのように、静かな彼の声が沈黙を裂いた。彼女がはっとした次の瞬間には、両の手の重みが消えていた。壊れ物を扱うかのように丁寧に受け取られた本の行く先を、彼女は見つめる。ほうっと思わず吐息がこぼれた。

「責任を持って受け取ります」

 灰色の布の陰で、彼の表情は見えない。きっと彼女の顔も、あちらからは見えないことだろう。それでも彼の指が、布張りの表紙を慈しむように撫でる様が、ついと目に入った。それはこの本の重みを受け取ってくれた証のように映る。

 彼女は瞳を伏せた。どうしてだか泣きたい気持ちにさせられた。何度も味わった絶望故の涙ではなく、安堵からの感涙だ。

「よろしくお願いします」

 彼女は深々と頭を下げた。揺れた白い布の艶めいた音が、静かな室内に染み入った。




 久しぶりの晴天だった。

 風に吹かれて揺れる上着の音が、爽やかな空気へと吸い込まれていく。腕を掲げたディルアローハは、瞳をすがめて静かに空を仰いだ。

 奥の層に閉じ込められた療養期間が終わってからは、国を出るための手続きに奔走した。気づけば季節は夏へと移り変わっていた。

 シリンタレアの夏は短いが、抜けるようなこの青空が特徴的だ。もっとも、じっくりとこのように眺める機会は滅多になかった。いつだって勉学や研究に追われていたから、ぼんやり景色を眺めることなど初めてかもしれない。

 今日、ついにジブルへと出発する。ジブルの使者たちの準備が終われば、彼女はこの地を離れることになる。

 二度と戻れないわけではない。だが、それがいつのことになるかはわからない。その時シリンタレアがどのような形になっているのかも不確かだ。彼女は唇を引き結んだ。

「空って、本当に青いのね。お部屋と同じ」

 そんな彼女の服の裾を、ぎゅっと握る小さな手があった。リビントハウラだ。

 ふと視線を落とすと、灰色の長衣を身に纏った少女が、じっと空を見上げていた。先日肩ほどで切り揃えてもらったばかりの金髪が、夏の微風に揺れる。

 聖の間にいたリビントハウラは外の空気を吸うことすら初めてなのか。ディルアローハはそんな事実に気がつく。聖の間を出ても、ずっと建物の中にいた。この小さな眼には、外は全て物珍しく映るのだろう。

「雲が動いてる」

 小さな指が空を指す。まるで教えられた事実を確かめるような言動だ。

 母たちはこの子どもに、外の世界をどのように説明していたのか。部屋を出られる可能性が限りなく無に等しいと思われていた時に、手の届かぬものたちをどう表現していたのか。

「ええ」

 それでも今、確かにリビントハウラはこうして空を見上げている。絶対などあり得ないことを証明しているかのようだ。ディルアローハはつい頬を緩ませた。

 これから出会うだろう苦難を思うと気が塞がる一方だが、こういう姿を見ることができるのなら、悪いことだけではないのかもしれない。

「ディルアローハ」

 すると背後から声をかけられた。身を固くしたディルアローハは、肩越しに振り返った。

 神妙な顔で正門の前にたたずんでいるのは、父ミッシュエルンだった。先日久方ぶりに顔を合わせたのだが、さらにやつれたように見える。急に年老いたようにも。

 しかしまさか父が見送りに来るとは。そんな期待をしていなかった彼女は、思い切り目を丸くしてしまった。だがそれはそれで失礼だったかと思い至り、慌てて軽く頭を下げる。

「お母さんをよろしくお願いします」

 まず口をついて出たのはそのことだった。別れの時に何を言うべきなのか、経験がないのでわからない。それでもこれだけは口にしなければならなかった。

 無論、娘に頼まれなくとも、父はきっとそうするだろう。しかしそれでも、言わずにはおれなかった。それが父を療養塔に置き去りにしていた彼女の責務だ。

「ディルも気をつけるんだぞ」

 何かを躊躇ったように、父はそう告げた。言いたいことは山ほどあったことだろう。それでも全てを飲み込んだのは、ディルアローハの足枷を外すためかもしれない。いや、それは考えすぎか。父には父の矜持と責任がある。

「はい」

 父は昔から口数が多くはなかった。流暢に話す母とは、そこが対照的だった。父はゆっくりと考えることが得意だった。

「ディルアローハ!」

 ぎこちない沈黙が生まれかけたところで、正門の奥からサグメンタートが走り寄ってくるのが見えた。

 薄緑の羽織を身につけている姿は初めて見る。何か作業中だったのかもしれない。それでもこうして見送りに来てくれるとは律儀だ。――あの父親に言われたのだとしても。

「間に合ってよかった」

「わざわざありがとうございます」

 息を切らすサグメンタートへと、彼女は静かな笑みを向けた。彼は彼で様々な思いを押し殺して手を貸してくれていたのだろうと思うと、今までずいぶんひどい態度を取ったかもしれない。今さらながらそう反省する。

 それにとんでもなく重い物まで押しつけてしまった。それでもこうして来てくれることには、感謝しかなかった。

「サグメンタートくんも来てくれたんだな」

「親父は仕事で……すみません」

「いや、いいんだ。大人数で行うものでもない」

 サグメンタートを見て、父はゆっくりと頭を振った。実に優しい声だった。

 この二人が言葉を交わしているのは初めて見る。なんだか感慨深いものを覚えるのは何故だろうか。父といる時の方が、サグメンタートは穏やかな顔をしている。

 不思議な心地で彼女が黙していると、ぐいと袖が引っ張られる感触がした。はっとして視線を落とせば、リビントハウラが不安そうな顔で後ろに隠れようとしていた。

 そうか、父たちとは顔を合わせたこともなかったのか。いや、もしかすると、大人の男性が傍に来たことすらないのかもしれない。リビントハウラの検査や体調管理を行っていたのも、母の知り合いである医術師の女性だった。

 体が大きい成人は、もしかするとあの時のキャレンを想起させるのかもしれない。聖の間での出来事をこの少女がどれだけ覚えているのかは杳として知れないが、何かが刻み込まれていたとしても不思議はなかった。

 ディルアローハはその小さな頭を撫でる。

「ディルアローハ、これは薬術師長からの餞別だ」

 そうしてなだめていると、サグメンタートがずいと近づいてきた。顔を上げたディルアローハが瞳を瞬かせれば、ぐいと強引に革の袋が押しつけられる。

「きっと役に立つだろうって」

「あ、ありがとうございます」

 彼の意味深長な視線を訝しみつつ、彼女はちらと袋の中を盗み見た。一つは、何か小さな本のように見えた。薬術に関するものか? それとも備忘録用の書き付けか? 何にせよ、貴重なものを渡してくれたことには間違いない。

 もう一つは、花のように見えた。もっともこんな袋に無造作に入れられる花など存在しないから、花を模した置物か小物入れか、何か実用品であろう。

 直接の知り合いではない薬術師長がわざわざ託してくるようなものとは思えないから、サグメンタートのだろうか? 不思議に思って視線を上げれば、彼は複雑そうに眉根を寄せた。

「もう一つは妹からだ。小さい女の子がいるなら、必要だろうって」

「妹さんまでいらしたんですね。ありがとうございます。きっと喜びます」

 目を見開いたディルアローハは、リビントハウラとサグメンタートを見比べた。てっきり彼は兄との二人兄弟かと思っていたが、実は違ったらしい。

「そうか、ディルは知らなかったのか。彼のところは五人兄弟だ」

「え、五人ですか!?」

 そこで突然父が笑う。喫驚した彼女は、サグメンタートの顔をまじまじと見上げた。いくらシリンタレアでも、それだけ大人数を無事に産むことができる女性は少なかった。彼の母はよほど丈夫だったのだろう。そして、運がよかった。

「親父が、人数は多い方がいいって」

「ゼランは賑やかなのが好きだったからなぁ。妹さんは、確か十歳だったか?」

「……生意気な奴ですよ。兄は皆大馬鹿者だと思っています」

 サグメンタートが視線を逸らすその横で、父は嬉しそうに破顔した。

 サグメンタートがいつも何故か所在なさげであった理由が、ようやく飲み込めたような気がした。それだけいると、兄弟の中で居場所を確保するだけでも一苦労しそうだ。彼はもしやそこでも立場が弱いのか。

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