第17話 医の通りへ

「ディルさん、すまんね。ここらで俺は離れるよ」

 外套をテント代わりとして眠っていたディルアローハは、肩を揺さぶられてはっと目を覚ました。この声はボッディだ。

 瞬きをすれば、頭上には見慣れたボッディの顔がある。黒い帽子に黒い外套にと、既に身支度を調えていた。まだ日が昇りきっていないため、その姿は周囲の薄闇に溶け込んで見える。

「もう行くんですか?」

「この先はしばらく一本道だ。君たちから目を逸らしてもらうには、ここらがちょうどよい。しかも夜明けだ。動くのなら今が最適さ」

 もうすぐ山に入るというその麓で、彼女たちは夜を明かそうとしていた。この先は山を突き抜ける一本道。大国によって整備された、数少ない道の一つだ。

 整備といっても獣道を少しばかり太くしたようなものだが、他の山が放置されていることを考えるとありがたいことではある。

「ディルさんたちもすぐに出な」

 ボッディの声に焦りはないが、待つつもりもないらしい。もしかすると、夜の間に距離を詰められているのかもしれない。山中で夜を明かすのは危険だという判断だったが、麓でも似たようなものだったのか。

「ここまで本当にありがとうございました」

 体を起こした彼女は、静かに頭を下げた。この気持ちに偽りはない。ボッディには助けてもらう一方だった。依頼だったとはいえ、それだけでは説明できないくらいに、彼はよくしてくれた。何より本気で案じてくれていることが伝わってきた。

 ただ安全に送り届けることだけを考えるなら、余計な話をする必要はない。それこそサグメンタートのように振る舞ってもいい。しかしボッディはそうしなかった。

「そりゃあ、クロミオ少年の婚約者だからな。恩を売っておかないと」

 そう思っての礼の言葉だったのに、ボッディの調子は軽かった。彼女は手ぐしで髪を整えつつ、顔をしかめる。こんな時だというのに、冗談を言わなくともよいと思うのだが。

「あの、それは……」

「ディルさん、あれは本気だと思うよ? クロミオ少年、女神崇拝者だし。姉にぞっこんだし。年上が好きなんでしょ」

 それなのに朗らかな顔のままとんでもないことを口にされ、彼女は絶句した。ボッディはあの少年に姉がいることまで知っていたのか。それとも、その事実はニーミナでは有名なのか?

 いや、そんなことよりも「女神崇拝者」という表現の方が気にかかった。やはりボッディはウィスタリア教を信仰していないらしい。ニーミナにはただ居着いているだけなのだろう。

「ああ見えて、クロミオ少年も孤独な人だからね。よろしく頼むよ。老人の世迷い言だと思って、頭の片隅に留めておいてくれ」

 彼女が返答に窮していると、ボッディはぽんと軽く肩を叩いてきた。手袋越しに感じられる体温から、自身の体が冷えていることにも気づかされる。彼女もすぐに身支度をした方がよいだろう。

「わかりました」

 彼女が頷くのを見届けてから、ボッディは歩き出した。草を踏みしめる靴音が、早朝の静寂に染み入る。その後ろ姿を見送り、彼女は叩かれた肩に触れた。

 託されるというのは重い。そこには責任が発生する。クロミオのことまで気にかけるような余裕は、今の彼女にはない。

 そう胸中で言い訳しつつも、背負い続けた本の重みを思い出してしまった。もう彼女は託されている。そう思えば今さらの話なのだろうか。既に彼女は深くニーミナにも関わってしまっている。

 彼女はぐっと奥歯を噛んだ。思考の海に潜っている場合ではない。そのことを考えるのは後回しだ。まずは無事にシリンタレアに辿り着くことが先決だった。

 それにここからはサグメンタートと二人きりになる。ボッディの手を借りることはできない。彼女はそっと右手へと視線を向けた。もう一つの木陰に、サグメンタートは身を潜めている。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、テント代わりにしていた外套を手に取った。シリンタレアを出る時は汚れ一つなかったのに、今や使い込まれてぼろぼろだ。旅路の険しさが凝縮されているような気がして、自ずと口の端に苦笑が浮かんだ。

 と、吹き荒んだ風が木々の枝を揺らした。慌てた彼女は、素早く外套を身につける。続いて傍に置いてあった革袋を背負った。本が入っているせいでずっしりしているが、これにも慣れてしまった。

 支度を調えた彼女がもう一度右手を見遣ると、いつの間にかサグメンタートが立ち上がっていた。既に彼も身支度も終えていた。では起きていたのか?

 そう考えたところで、近くにいたボッディが、サグメンタートにだけ声をかけずにいるわけもないと気づく。つまり先ほどの会話も聞こえていたのだろう。若干の気まずさが胸に広がる。

「出発するんだろう? もう用意はできている」

 サグメンタートの無愛想な声が、早朝の空気を揺らした。早くも息が詰まりそうだった。しかしこんなところでへこたれもいられないと、彼女は首肯する。

「はい、行きましょう」

 朝日が昇りきる前に、少しでも山道を進んだ方がよい。この薄暗さでは足下に注意が必要だが、整備されているので気をつけていれば躓くことはないだろう。

 頷いた彼は無言で歩き出した。そして彼女の前を通り過ぎようとしたところで、何か考え込むよう立ち止まる。いつになく不自然な動きだった。彼は思い切り顔をしかめつつ、やにわにこちらを振り返る。

「どうかしましたか?」

 そう彼女が問いかけた途端、長い腕が伸びてきた。それはぐいと力強く、彼女の手首を掴む。

「もう転ぶなよ。山を下りたら門まで一気に走る。いいな?」

 告げる彼の声は硬かった。手を握る力も強かった。けれども嫌だとは言えない切迫感が漂っているせいで、彼女は何も言えなかった。

 ボッディの言葉を気にしているのだろうということも、容易に想像できる。やはり根は素直なのだ。

 当惑しながらも、彼女は小さく首を縦に振った。こうしている間にも、わずかながら辺りに朝の匂いが立ちこめ始めている。急がなければ。

 そこからは黙々と歩き続ける時間が続いた。本当に全く会話がなかった。

 完全に朝日が顔を出すと、彼らはさらに速度を上げた。

 手を引かれながら歩くというのは幼少期以来だったので、何だか不思議な心地がする。同時に、実に歩きにくい行為であったことも知った。あの時両親は何を思っていたのだろう。

 絶えず背後の気配に耳をそばだてていたが、誰かが追いかけてくるような音はしなかった。ボッディがうまく引きつけてくれているのだろうか? 獣の気配も感じられない。

 山道をさらに進むと、徐々に道幅が広くなった。そして所々、道に細い筋がついているのが目に付くようになる。

 これはおそらく何らかの遺産が通った跡だろう。車輪を使って走行する型の遺産なら、彼女もジブルで幾つか見かけた。複数人で乗る物や、一人で移動する用の物など、多岐にわたっている。中には原始的な機構で動く物もあった。

 この道はそれらが使えるほどに整備されていたのか。ニーミナに向かった際にも通ったはずなのに、既に記憶が薄らいでいる。

 途中で幾つか、分かれ道もあった。ジブル側へと抜ける道や、ナイダート側への近道だ。もっとも、慣れぬ者が慢心で利用するとたちまち迷ってしまう小道でもある。

 普通、大国を目指すなら、山は通らず谷沿いに作られた大通を行く。もしくは、大平原を貫く「船の道」を使う。その方が圧倒的に楽なのだという。ただしシリンタレアを目指すなら、この山道が一番近い。

 太陽が空高く昇ると、ますます歩きやすくなった。しかし周囲へ気を配りながら歩を進めるのは骨が折れた。それでも不気味なほどに何も起こらなかった。

 山を下り始める頃には「もう大丈夫ではないか?」という楽観的な気分が湧き上がるくらいにはなった。ボッディの勘違いだったのか。それともボッディが相手を攪乱してくれたおかげか。

 日が傾き始め、見慣れた木々が増えてくると、さらに心が沸き立った。

「もう少しだな」

 小さく漏れたサグメンタートの声も、喜びと安堵の色を孕んでいる。

 さらにひたすら山を下っていると、少しずつ木々が開けてくる。その先に、懐かしい小道が見えた。医術国家シリンタレアへと続く道。通称、医の通りだ。ただし山側から見下ろすことはまずないので、印象としては新鮮だった。

 医の通りは大きな一本道と、それを貫く緩やかな曲がり道からなる。交差している場所は『心臓』とも呼ばれている。

 貫く道を左に行けばナイダート、右に行けばジブルへと繋がる。そのため医の通りの中でも、『心臓』は重要な地点と位置づけられている。が、そこに何かが置かれているわけではない。ただの交差路だ。

 大きな一本道を突き進んだその先にあるのが、大門だった。感染源の侵入を防ぐために厳密に出入りを管理されている、一種の関門だ。

 故に、門を抜ければ大国であろうとも簡単には手出しできなくなる。そのことをボッディは知っていたのだろうか?

 彼がそこまで各国の情勢に詳しいかどうかはわからない。しかし何にしても、あとは山を下りて医の道を走り抜ければこの旅路も終わる。日が完全に暮れるまではもう少しある。何とか間に合いそうだった。

 と、背後で鳥の鳴き声がした。さえずりとは明らかに違う、警告のような響きを伴う声だ。

 ついで鼓膜に突き刺さるような羽ばたきが、一斉に空気を揺らした。生き物が危険を感じるような何かがどこかで生じた証左だ。彼女は思わず肩越しに振り返る。

「急ぐぞ」

 それでも力強く手を引かれたため、立ち止まることはなかった。危機感を強めたのか、サグメンタートは歩調を速める。

 体勢を崩しかけた彼女は、慌てて小走りした。だが文句は言えなかった。彼も焦っているのだろう。

 続いて遠くから低い地響きがした。聞き慣れない生き物の鳴き声も、空へと響き渡る。ばくばくと鼓動が速まるのを自覚しつつ、彼女は急ぎ足で前へ前へと進んだ。

 ついにジブルが動き出したのだろうか? それともボッディが何か仕掛けたのか?

 するとようやく、周囲の木々が途切れた。目の前に、医の通りが現れた。もっとも、この辺りはまだ石で舗装されたわけでもない。山道からなだらかに道幅が広がっただけだ。

 とはいえ紛れもない医の通りだ。国へと繋がる道だ。

 サグメンタートがちらりとこちらに視線を寄越す。否、そう思った次の瞬間には、彼は駆け出していた。半ば引きずられるような形で、彼女も走り出す。

 足のつき方が悪かったのか、左足首に違和感が生まれた。それでも彼女は歯を食いしばって駆け続けた。吐き出した息が広がって、辺りの空気へと溶けていく。

 途端、背後で誰かが何かを叫ぶような声がした。高い男の声だった。けれども内容は聞き取れない。山からこだまでもしているのか?

 定かではないが、今ので確定したことがある。ボッディ以外の何者かが山中にいる。

 追い立てられるように二人は走った。一本道とはいえ大門までは距離がある。ここを狙われたら終わりだ。

 無論、大門の内に入れてもらうまでの手続きもある。その間に追いつかれるような事態になったら? 門番が事情に通じている者であることを祈るばかりだ。

 息を切らしていると、再び山の方で叫び声がした。今度は男の怒声のようだった。ついで低い唸りのような、奇怪な鈍い音が響く。

 彼女の頭の奥で何かがざわついた。今のは人間が出せるような音ではない。まるで――そう、移動用の遺産が動き出す時の音だ。

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