第16話 仕舞い込んだもの
「ボッディさんは何者なんですか?」
「だから博士だって。遺産の専門家さ。わかるだろう?」
意気揚々と歩きながら、ボッディは両手を広げた。その拍子に大きく煽られた外套が、まるで広げられた羽のように揺れる。
大袈裟な言い様をそのまま鵜呑みにはできないが、遺産に詳しいことは確かだ。どんな遺産でも、知識がなければ扱えない。何も知らぬ人間に、クロミオが貸すこともないだろう。ボッディは一体どこで遺産の知識を得たのか?
「大国はね、大事なものは全部懐に隠してしまうのさ。宝物を飾るように、ただただ保管して、時折眺めて、それで満足する」
緩やかな風に、朗らかなボッディの声が運ばれていく。追っ手がいないせいか、このところの彼はやけに饒舌だ。こんな話まで彼女たちが聞いてもよいのかと、思うことが増えた。
それとも彼女たちがあまりに何も知らないものだから、この程度のことであれば口にしてもよいと判断したのだろうか。
「そんなことばかりしているから使えなくなるんだ。古い物はなぁ、ちゃんと手入れしなきゃいけない。それにな、どんなに資源がないっていっても、代わりの役目を果たすものは探せば見つかるもんなのさ。なのに奴らは探しもしない」
ボッディは大国の事情にも詳しいようだ。やはり元々は大国に住んでいたのではないか?
考えてみれば、ついこの間までニーミナは完全に閉じられた国だった。どの国も手出しをしない、手出しをしても意味のない、単なる怪しい宗教国家だった。大国から逃げる先としては最適だろう。
「そんなに簡単に見つかるものなんですか?」
「ディルさん、そりゃあ簡単じゃあないさ。でも探そうともしないのは間違ってる。世の中には、似たような物質ってもんがあるもんさ。まずは使われていたものを調べるところから始めないと」
彼女の方を見て、ボッディは深々と相槌を打った。その向こう側の空は、既に茜色から紫へと染め上げられていた。そろそろ火を焚く場所を探す必要があるだろう。少しでも風をしのぐ場所を見つけるのが、安眠を得る秘訣だ。
「既存のものを知るところからですね、なるほど」
彼女はふいと真上を見上げた。――そう、知識を積み重ねていくことは重要だ。
薬術師が新たな薬を求める時も、似たようなことを考える。つぎはぎだらけの情報から推測し、利用できそうなものを探していく。それは遺産を動かす時も同じらしい。
「そうさ。見えないところにしまっておくだけじゃ駄目だ。硝子の向こうに飾るだけでも駄目だ。ちゃんと磨いて、手入れして」
彼女が再び前方へと目を向ければ、ボッディもつられたのか空を仰いでいた。一方、黙り込んだサグメンタートは、地面を睨み付けるようにしながら歩いている。その横顔は硬い。
「できれば時折話しかけて、気にかけながら手元に置いておく。それが大事にするってことじゃあないのかねぇ。人間だってそうだろう?」
わずかに、ボッディの口調に棘が混じった。返答に窮した彼女は瞳をすがめる。遺産に話しかけているボッディを想像すると心が温まるが、同時に胸の奥がかすかに痛んだ。
人間もそう。その響きには、ボッディが味わった過去が滲み出ている。自分は大事にされてきたのだろうかと、彼女も自問したくなる切実さがある。周囲の目、両親の眼差し、そういったものを思い出す度に息苦しくなったあの日々が蘇る。
「……ああ、兄はそうされてたな。まあ、頭良いからな」
耐えきれなくなったように、サグメンタートがこぼした。痛みや苦みを押し隠そうとするかのような声だった。ボッディの言い草に、サグメンタートも刺激されたのだろうか。
「それはまた、お悩みのようだね青年」
大仰な調子で振り向いたボッディは、眉尻を下げつつサグメンタートを見遣った。何故だか興味津々だ。はっとしたサグメンタートは、ばつが悪そうに頬を掻く。
「そんな大袈裟なものじゃあないですよ」
「いやいや、どんな禍根も残しておくものじゃあないぞ? 何が起こるかなんて誰にもわからない。誰といつ会えなくなるかもわからない。当たり前の生活なんて、この世にはないのさ」
芝居がかった口調でボッディは続けた。それでもサグメンタートは相変わらず苦い笑みを浮かべている。「そろそろ寝床を探しましょう」と言い出しにくい雰囲気になってしまった。どうしたものかと悩みつつ、彼女は外套の襟に触れた。
サグメンタートには兄がいるらしい。そのこと自体はシリンタレアでは特筆すべきものでもなかったが、彼の母親も医術師ならば珍しい方だろうか。
彼女自身が生まれた時は難産だったらしく、母は二人目を産む考えを捨てたらしい。それ故、兄弟がいるという感覚が、彼女にはあまり想像できなかった。
加えて彼女は日常のほとんどを教育塔や宿舎で過ごしている。そこには子どもたちで溢れていたが、大概は兄弟がいない者たちばかりだった。
とはいえ、それでも時々は、姉や兄が留学に出てしまったために預けられた子どもが加わっていた。
最初から一人であった子どもたちとは違い、彼らはよく寂しがっては泣いていた。その度に、兄弟というのはそんなによいものなのかと訝しんだものだ。
――今のサグメンタートの表情を見る限り、そればかりでもないようだが。
「それは身に染みています。まさか、毒の地を歩くようになるとは思いませんでしたよ」
少しおどけた調子でサグメンタートは答えた。深い話は避けたいようだった。彼はこれで話は終わりとばかりに、そのまま前を見る。彼女も彼の視線を追いかけた。
もう少しで毒の地を抜ける。あの山の麓まで辿り着けば、食料の心配もぐんと減るだろう。
「ああ、人生何が起こるかわからないものさ。この旅路だってなぁ。あの山を越えたら、シリンタレアはすぐそこだろう?」
つとボッディは足を止めた。その気配につられて、彼女も立ち止まった。ボッディは静かに向こうの山を指さす。黒い外套がまた風に煽られて音を立てた。
「よくご存じで」
困惑気味な面持ちのサグメンタートは、小さく相槌を打った。
シリンタレアは、地理的にもジブルとナイダートのちょうど中間に位置している。そのこと自体はどの国の人間であれ知っているだろうが。しかしここまで詳しいのは奇妙だった。
サグメンタートもそれを怪訝に思っているのかもしれない。ボッディはシリンタレアも訪れたことがあるのか?
「それくらいは常識さぁ。で、山を越える前に、俺は別行動する」
得意げに胸を張ったボッディは、にんまりと笑った。予期せぬ宣言に、思わず彼女はサグメンタートと顔を見合わせた。
「ディルさんやサグさんが気づいていたかどうかは知らないけど、ずいぶん遠くからジブルの人間があとをつけてきている。もしかしたら、シリンタレアに乗り込むつもりかもしれない。そうなると、奴らが動くのは俺たちが山に入ったところだろう。だからそこで俺が攪乱する」
あとをつけられている? 慌てて周囲を見回しそうになった彼女は、すんでのところで思いとどまった。
もし本当にどこからか監視されているのであれば、怪しい行動は慎まなければならない。距離があるなら声は聞こえないだろうが、行動は見られている可能性がある。そのための遺産が存在していると耳にしたことがあった。
「毒の地は見晴らしが良すぎて近づいてこられないからなぁ。奴らはきっと、山で距離を詰めてくるつもりだ。だから山を下りたら、サグさんとディルさんは真っ直ぐに国を目指しな。俺は山で罠を張る」
滑らかに紡がれるボッディの言葉が、彼女を揺さぶった。何故そこまでしてくれるのか? 喉元まで出かかった疑問を、彼女は咄嗟に飲み込む。
――クロミオに依頼されたからだ。その点では、依頼主が不明なサグメンタートの方が信用しきれない部分がある。
「ボッディさんは大丈夫なんですか?」
色々考えたあげく、口にできたのはそんな問いかけだけだった。もしかしたらボッディが気にしすぎているだけかもしれないが、警戒するに越したことはない。相手は大国だ。クロミオに言いくるめられているだけで終わるはずもないだろう。
「こっちの心配はしなさんな。これでも追っ手を撒くのは得意でね。一人ならどうとでもなるものさ」
大袈裟に肩をすくめたボッディは、悪戯っぽく笑った。彼女を心配させまいとしての言動なのか、本当に長けているのかは判然としない。
だが彼女たちがあれこれ気を回しても、きっと足手まといにしかならない。それほどに知識、経験、技術に差があった。彼女たちは医術に特化しすぎている。
「だから君たちも、力を合わせて国まで走ってくれよ。途中、何があるかわからない」
再び歩き出したボッディは、ゆらりと空を見上げた。まるで心情を見透かされたようで、彼女はひやりとする。
内輪で諍いを起こしても仕方がないのはわかっている。サグメンタートとも、いざという時に意思疎通を図れた方が絶対によい。彼の態度が頑なだからと言って、彼女までそれにあわせる必要はなかった。
足を踏み出した彼女は、ちらとサグメンタートを横目に見る。それでも彼は無言のままだ。こちらと打ち解けるつもりはない。そんな意志が彼の横顔には滲んでいる。
彼女の両親を尊敬する青年。そういった人間には幾つかの共通点がある。みんな表面は取り繕うが、内心では彼女に落胆する。場合によっては蔑まされることもあった。
『何故医術師にならなかったの?』
そう正面切って問いかけてくる者もいた。その能力があるのは当然だろうと。そのための環境はあったはずだと。誰もがそう決めつけ、呆れ、眉をひそめる。医術師にならなかったのは彼女の我儘だと暗に責める。
いや、実際我儘なのかもしれない。薬の方に興味があっただけで、薬術師を選ぶ必要性もない。
シリンタレアは能力の無駄遣いを嫌う国だ。十二分にそれを活かすことを強いられる国だ。全ては国を守るため。居場所を守るため。その息苦しさにどうやって耐えているのか、時に彼女は尋ねたくなる。
「走れるまで回復するよう、努めますね」
彼女はそっとそびえ立つ山を見つめた。あそこまで辿り着くのにあとどれだけかかるだろうか。その時のことを思うと、胸が締め付けられるような心地がした。
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