第15話 医術国の子ども

 角灯の明かりがわずかに揺らぐ。不安に顔が歪むのを堪え、彼女は唇を噛んだ。

 しばらくそのまま息を潜めて様子をうかがっていると、テントの向こうに人影が見えた。この背の高さは大人だ。つまり、クロミオではない。

「――起きているか?」

 寸刻の間をおき、躊躇いがちに声がかけられた。聞き覚えのある声だった。彼女は目を見開く。サグメンタートだ。

「はい、起きています」

 怖々と彼女は答える。こんな時間に一体何の用だろうか。そもそも、彼は単独行動を許されていただろうか? 傍には他に人間がいる気配がない。見張りの獣の気配もない。

 彼女がそのまま眉根を寄せていると、静かにテントの入り口の布が持ち上がった。顔を出したのは間違いなくサグメンタートだった。

「何かあったんですか?」

 彼女は目を見開く。彼は外套に帽子、そして分厚い手袋を身につけていた。すぐにでも旅に出られるような装いだ。彼女は首を捻る。ボッディの身に何かあって報告をしに来たという雰囲気ではない。

「明日、ここを発つことになった」

 わずかな逡巡の後、サグメンタートはそう口にした。彼女は一瞬耳を疑った。発つとは一体どこに?

「明日から俺とお前、ボッディさんとで、シリンタレアを目指すようにと言われた。あのジブルの使者に」

 訥々とした言葉が夜の空気に染みる。彼が何か言いづらそうにしているのは、彼自身も理解していないからなのか? 瞬きを繰り返した彼女は、まず何から問うべきかと考える。幾つもの感情が湧き上がっては消えていく。

「ボッディさん、無事だったんですね」

 まず選んだのはそんな言葉だった。思考の整理もままならなかったが、そんな彼女でもするりと理解できる事実がそれだった。

 すると彼は虚を突かれたように目を丸くする。角灯に照らし出されたその瞳は、暗がりで見ていたよりも明るい茶であった。それが今はかすかに揺れている。

「……聞いていなかったのか?」

「はい」

「ボッディさんの怪我は大したことはない。防具までつけてた」

 答える彼の声には、若干の哀れみの色が混じっていた。こちらがどれだけ不安に思っていたのか想像できるからだろうか。こういった瞬間に、彼の本来の性格が垣間見える気がする。

「そうだったんですか」

 胸を撫で下ろしつつも、彼女はあの時のボッディの様子を思い起こそうとした。危険に晒されることは予測できるだろうから、それ相応の対策を取っているのは当然か。

 そういう人間だからこそ、クロミオも任せたのかもしれない。無論、そのような装備を持っていることを知っていなければ、頼めないことだが。

「でもボッディさんには、遺産の不法所持の疑いがあったんじゃあ」

 そこで彼女はジブルの使者の言葉を思い出す。ボッディが手にしていた銃は、本来ならば厳重に保管されているはずのものだろう。それをまさかジブルの使者が見逃すというのか。

 たとえクロミオが庇ったとしても限度がある。

「それは、俺もよくわからないが。ただ、あのクロミオって子どもが何か言ったらしい。――あいつは、何者なんだ?」

 サグメンタートの問いかけは、自問のようだった。わずかに逸らされた彼の視線は、揺れる彼女の影へと向けられている。

 彼女は唇を引き結んだ。何者かと問われて、正確に答えられるだけの知識など、彼女にもない。

「ジブルの使者にあんな口がきけるなんておかしいだろ。ニーミナって国は、今やそんなに偉いのか?」

 彼の声音には疑念が宿っている。長年忌避されてきた怪しい宗教国家の、しかも少年が、大国から一目置かれているなど前代未聞だ。当然の疑問だろう。その答えの一端を、彼女はようやく掴んだばかりだ。

「彼を重んじることを決めたのは大国ですから」

 だが彼女はそう答えるに留めた。ニーミナの存在が無視できなくなった理由は、この星の外にある。しかしおいそれと口に出してよい話でもないだろう。その件がどの程度の人間に知れ渡っているのか、彼女はまだ確認できていない。

 ニーミナはただの玄関口だ。宇宙へ繋がるための道でしかない。大国が恐れているのはニーミナの向こうに見え隠れする、他の星の人間たちだ。それを考えると、この星の上での諍いは、互いの足を引っ張り合うだけの結果となりかねない。

「生き残りたいのは皆同じなんですよ」

 ふいとこぼれ落ちた言葉が、じんわりと彼女の胸にも染みた。大国ジブルもナイダートも、見えない宇宙に怯えている。そして今にも吹き飛びそうなシリンタレアの者たちも、怯えながら生き残る道を探ろうとしている。

 ニーミナの人間もそうだし、他の小国もきっとそうだろう。ただ、互いに見えているものが違うだけだ。

「……アマンラローフィ医術師は違うみたいだけどな」

 途端、サグメンタートの鋭い声が突き刺さった。はっとした彼女は顔を上げる。挑むような彼の眼光は、真っ直ぐに彼女を捉えていた。

「母は――」

「自分を犠牲にするつもりだ。きっと時間を稼ぐつもりだ。何が起こっているのかを知るために」

 彼の眼差しに宿るのは情熱と羨望と、そして疑心。彼女は胸の奥が焼け付くような心地がした。

 母は昔からそういう人間だった。周りのために、研究のために、何かのためにがむしゃらに走り続ける人。自分の持てる限りの力を注ぎ込むことをいとわない者だ。

 情熱的な母に、理知的で穏やかな父。遙か高見に立つ両親は眩しい存在だ。そう思っているのが自分だけではないことを、彼女はよく知っている。

「まさか娘が裏切るような真似はしないよな?」

「するわけないじゃないですか」

 ディルアローハはゆっくりと頭を振った。サグメンタートは彼らを尊敬しているのかと、ようやく合点がいった。その娘としてディルアローハは相応しくないと思っているに違いない。

 そういった心境ならば、人の好い彼が彼女に対してどこか冷たい理由も腑に落ちる。

「今はまずシリンタレアを守らなければなりません。シリンタレアそのものが疑われているのであれば、私たちの手で晴らさなければ」

 自国を守りたいという気持ちは、彼女にだって当然ある。ただ両親と同じやり方ができないだけだ。

 シリンタレア存続のためには、大国とも渡り合わなければならない。その点に関しては、きっとクロミオが手を貸してくれるだろう。そう口にしたかったが、この場では声には出せなかった。

 サグメンタートはクロミオのことも怪しんでいるに違いない。しかし彼女はあの少年の事情も知ってしまった。彼には彼の守りたいものがあり、そのためにシリンタレアを必要としている。

 もちろん、自身の子どもを利用するという行為には、彼女は反対だ。子どもは道具ではない。だが人数が少ないというのは、選べる道が少ないというのは、今いる子どもたちにとっては足枷となる。

 そのことをよくよく実感しているのはシリンタレアの人間だろう。医術国家としての地位を守るための教育。管理が徹底された住居。結婚相手すら制限された環境。

 子どもは宝だが、それは国の未来のために存在するものだ。それ相応の力を持たぬ者は、あの国では惨めな戦いを強いられる。

 決して幸福な場所とは言い難い国だ。それでも失いたくはなかった。医術の知識が分断され、かつての技術と同じように失われていくのを、彼女はよしとはできなかった。

「ジブルの使者が許してくれたのであれば、シリンタレアに戻りましょう。何をするにもまずはそこからです」

 サグメンタートが彼女をどう思おうとも、意に介すことはない。彼の目的は彼女を連れ戻すことだというから、陥れたりはしてこないだろう。ならば好感など不要だ。

 今優先すべきは、情報を整理することだった。シリンタレア内で何かが起きており、そのため大国に疑われる状況にある。現段階でわかっているのはそれだけだ。

 その先を知るためにはシリンタレアに戻る必要がある。そしてできることなら、母が聖の間に入れられる前に接触しなければ。

 もちろんこの先の旅路にも、危険がないとは言わない。だが少なくともジブルの使者の許可という後ろ盾がある状況では、ナイダート側も手を出しづらいはずだ。これまでとは違う。

「……そうだな」

 頷いた彼の声は硬かった。彼女は布袋へと軽く視線を落とし、唇を引き結んだ。




 その後のシリンタレアへの道中は、驚くほど平坦だった。

 何者かに襲われる心配がないため、人目を避ける必要がなくなる。毒の地は不毛の大地ではあるが、生き物もいない。獣も警戒しなくてよいというのはますます楽だ。携帯食と水の確保さえ怠らなければ、あとはただひたすら歩くのみだった。

「もうすっかり足は大丈夫みたいですなぁ」

 そろそろ日が沈もうかという頃。先頭を行くボッディが、ふいと振り返った。ディルアローハの足取りを気にしてくれたのだろう。

 銃を奪われてしまったというのに、それでもボッディはその後も気安い調子で話しかけてくる。気負った様子もない。自分の身が危険に晒されたことすら、気にしていないようだった。

「はい。おかげさまで」

 彼女はちらと足下を見下ろす。乾いてひび割れた地を進む歩調は、少しずつ上がっている。これっぽっちも違和感がないと言えば嘘になるが、山道を歩くのと比べれば負担も軽かった。

 ジブルの使者に拘束されている間、動かなかったのも幸いしたのだろう。

「でも無理は禁物だ。この先には一つ山があるぞ」

 が、サグメンタートはすぐに釘を刺してくる。つまり、彼の目から見るとまだ油断はできない段階なのだろう。こうして歩けるのも、彼が簡単な装具を用意してくれたおかげだった。どうやら彼はそうした怪我方面の医術に強いらしい。

「ボッディさんこそ平気なんですか? その……」

 頭をもたげた彼女は、へらへらと歩くボッディの背中へと視線を投げかける。黒ずくめは相変わらずで、日の高いうちはかなり目立つ恰好だ。それが一転、夕刻となると突然気配が薄くなる。今の彼は少しずつ周囲に溶け込みつつあった。

「ああ、もうすっかり。防具もクロミオ少年が貸してくれたからなぁ。実を言うと、教会からの使者さんが持ってきてくれた。ここだけの話、取り上げられた銃も、元々ニーミナに保管されていた奴さ。な? あの少年、侮りがたいだろう?」

 もう一度振り返ったボッディは、楽しげにほくそ笑んだ。彼女はぎょっとして口元を押さえる。まさかそこまで見込んでの依頼だったのか?

「え、それって」

「大国の目をごまかすには、これくらいしないとなー。俺たちがよく使う手さ。俺の大事な遺産は、大国に取り上げられたらすぐに棚入りになる。そんなのもったいない。だから囮に使うありきたりな遺産が必要なのさ」

 ふんふんと鼻歌を歌うボッディを、サグメンタートは呆気にとられたように見つめていた。彼女もつい足を止めそうになる。

 信じられなかった。つまり、彼は自分の武器は使わずに、借り物だけで戦っていたのか?

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