第14話 世界の違い

「そんな……」

「ディルさんは優しいなぁ。気にしなくてもいいのに」

 彼女の肩口に頬を寄せ、彼はくつくつと笑った。誰かを欺くにしても、こんなに近づく必要もないだろうに。

 居たたまれなさから視線が泳ぐと、角灯が目に飛び込んでくる。そうか、ここだけ明かりがある状態なのか。遠くにいる誰かの目にも、二人の影は見えている可能性が高い。

「ま、サグなんとかさんがどうにかしてくれてるでしょ」

 不意に、彼の吐息が頬をくすぐった。目を逸らしたまま、彼女は顔をしかめる。

「サグメンタートです。クロミオくん、名前を覚える気がないでしょう?」

 どうにか彼を少しでも引き剥がしたいが、やはり難しそうだった。全てを投げ出したい気分になりつつ、彼女は眉尻を下げる。

 少なくともボッディのその後が聞き出せそうにないことはわかった。もしかすると、クロミオも知らないのかもしれない。

「そりゃそうだよ。だって恋敵じゃない。じゃあサグさんでいいや」

 彼は少しだけ顔を離し、瞳を細めた。耳馴染みのない単語が飛び出してきて、彼女は唖然と胸中でそれを繰り返す。

 恋敵。一体全体どうしてそのような発想になるのか? この話がいつかどこかでサグメンタートに知られたら、きっと激怒されるだろう。

「……彼はそんなんじゃないですよ」

「嘘だ。だってディルさんを心配して迎えに来たんでしょう? 何もないはずがない」

 否定しておかねばと言葉を重ねても、クロミオは頑として譲らなかった。どんどん頭が痛くなる。肝心な話題から目を逸らすためのやりとりだとしても、別の面で厄介な話題だ。

「ディルさんがどうとも思っていなくても、あっちは違うかもしれないよ?」

「ですから、それは彼に失礼です」

 クロミオは自らの魅力に自信を持っているかもしれないが、彼女は違う。何の利害もなく、厚意や好意のみで誰かが手助けしてくれる可能性など、微塵も考えていなかった。

 角灯によって揺れる影を、彼女はねめつけた。知識も不十分。人望もない。特別恵まれた容姿でもない。

 それでも彼女が目を掛けてもらえるのは、可能性があるからだ。未来があるからだ。見えないものにも希望を見いだすことができるのは、人間という生き物の特権だろうか。

「私は大勢の人に好かれるような人間じゃありませんよ」

 できる限り穏やかな口調でそう告げると、クロミオは腕を離した。視界の隅に映る彼は、不服そうに片眉を跳ね上げていた。深い黒の双眸がわずかに揺れる。

「まだわかってないんだ」

「何が、です?」

「ディルさんはひどいね。今のは、僕の目を疑うような言葉なんだけど」

 彼の指摘に、彼女は思わず閉口した。客観的に考えれば、彼の好意を踏みにじるような発言になるのだろうか。

「贈り物だって、ディルさんだから渡したんだからね。そこのところ、わかっててもらわないと」

 本が入った革袋へと、彼は一瞥をくれた。返答に窮した彼女は黙り込む。本だとは明言せず、それでも特別な物を手渡したのだと示すこの言動は、テントの外にいる見知らぬ誰かに対する宣言なのだろうか?

「……すみません」

「いいよ、謝らなくて。僕はディルさんに安心して過ごして欲しいだけなんだ。大丈夫、ディルさんたちがちゃんと国に帰れるよう、僕が取り計らうから。だからもう少しだけ辛抱して」

 彼はふわりと破顔した。そして今度は真正面から、ぐっと顔をのぞき込んできた。角灯の明かりが黒い双眸に反射して、ちらちらと輝く。

 彼女は息を呑んだ。今この状況を打破する力を持っているのは、この少年のみだ。あの大国を相手取ることができる者など限られている。それなのに彼女は何を口走っているのか。

 彼がどの程度偽り、どの程度本音を口にしているのかなど、今は関係ない。彼女は国に帰るための方法をまず全力で見つけなければならない。

「わかりました」

 絞り出した声はかすかに震えていた。膝の上で握った拳に、またじわりと汗が滲んだ。




 クロミオが去ってからは、ひたすら単調な時間が流れた。一日三回はジブルの人間が簡単な食事を運んでくるが、それ以外の訪いは皆無だった。

 ボッディの怪我がどうなっているのか、尋ねてみてもはぐらかされるのみ。この状況で心を保つというのは、なかなか骨が折れる。

 絶望もせずに考え事を続ける気力も湧かない。かといって、周囲の気配に注意を向け続けているような精神力もない。そこで彼女は隙を見ては、贈り物である本を開くようになった。

 特に読書が捗るのは深夜だ。周囲を徘徊している獣の鳴き声が途絶えると、痛いほどの静寂が辺りに満ちる。

 邪魔するものがない時間というのを、シリンタレアにいる頃は切に望んでいたというのに。実際に手に入れると複雑な心地になる。

「……やっぱりわからない用語が多すぎる」

 膝に乗せた本を見下ろし、彼女は嘆息した。ゆっくり頁を繰ると、角灯の揺れる灯りの下で、文字までが揺らめく。

 見知らぬ言葉で書かれているわけではないのに――星の外でも共通語が使われているのには驚いたが、その点は助かる――内容を飲み込むのには時間を要した。おそらく背景となる知識量が違うためだろう。

 人名らしきものを冠した単語が立て続けに表れると、理解の範疇を超えてしまう。それでも時折現れる薬草の名には覚えがあったし、図解されているものも多くあった。

 人体の一部を拡大したものもあれば、奇怪な草木、奇妙な器具の絵、見知らぬ生き物の姿まで描かれている。まるで別世界のことだ。これらがこの星にも存在していたのかどうか、彼女には判別がつかない。

 そんなことが可能なのかと、疑うような治療法も載っていた。まるで魔法だった。遙か昔には存在していたという、得体の知れぬ金属を使った道具もある。これらが今も実現可能なのかどうか、やはり全くわからない。

「情報が、足りないのよね」

 青い小瓶の絵を見下ろしながら、彼女は肩を落とす。

 世界は何度も文明を失っている。愚かな争いは情報の分断を生み、資源を無駄に浪費させ、かつては当たり前だった技術の再現を不可能とした。今残されているものは、古の技術や知識をつぎはぎのように合わせたものだけだ。

 故にどの国も再度失うことを恐れ、遺産として登録し、厳密に管理している。――その大半は、今は大国ジブルやナイダートにある。

 例えばその中には、もしかすると、医術に利用できる物もあるのかもしれない。しかしシリンタレアの人間はそれを知ることも利用することもできない。

 たとえば毒物の感知器。測定器。呼吸の補助装置。そうしたものが存在するという知識があっても、実物を見かけることがない。

 シリンタレアの人間は、ただ原始的な方法を用いて、知識を総動員して、どうにか手元にある技術のみで病める者を救わなければならない。未知の感染症が流行した場合は、怪しい者たちを全て隔離するといった風に。

 突として寒さを覚え、彼女は薄汚れた外套を手元に引き寄せた。そして震える膝から本を下ろす。

 もっとやり方があるのではないかと、誰もが一度は考えただろう。しかし大国に逆らうことはできない。

 長らく続いてきた関係を、方法を、変化させるのは至難の業だ。そうしたことに時間と力を注ぐよりは、目の前の病める者に向かうことを、選ぶ者が多かった。

「本当は、大国ともっと交渉すべきだったのよね」

 外套を羽織り、彼女は自らの肩を抱いた。ここで迎える三度目の夜だ。夜明けにかけてどれだけ冷え込むのかは、嫌というほど理解している。

 ニーミナはここよりもさらに北に位置していたが、それでも建物の中はある程度の温度が保たれていた。しかしテントでは冷気をしのぎきれない。

 孤独と寒さに震える夜は、どうしたって昔のことを思い出す。幼い頃に一人きり、ジブルに送り出された時のことを。

 大国への留学は、シリンタレアでも名誉なこととされている。彼女も両親の強い希望によって、ジブルに留学した。その経験は、彼女の価値観を変えた。

 全く別の風習、文化を持つ国というだけでも刺激的だったが、衝撃を受けたのはもっと別のことだった。シリンタレアがいかに小さな国なのか、どれだけのものを制限されているのか、肌で実感してしまったのが大きい。

 たとえば夜にふらりと外に出て星空を眺めること。休みの日はどこにでも出かけてよいこと。草原に飛び込んでも怒られないこと。――ジブルには様々な自由があった。

 それまで当たり前だと思っていた生活が、本当は当たり前ではなかったことに気づかされた。

 湯に入るという習慣も知った。香辛料をふんだんに使った料理を初めて口にして、盛大にむせた。たくさんの遺産を、実際に目にすることもできた。そうした経験自体には感謝している。

 しかしまだ小さな子どもが一人で赴くには、その国は大きすぎた。

 与えられた小部屋の天井の高さと、窓の外に見える建物の数々。迷いそうな中庭。読み尽くしきれない本を備えた図書館。どこへ行っても知り合いのいない世界。彼女はただただ全てに圧倒された。

 留学に出された子どもたちは、そこで知識を得ること、そして知り合いを作ることを求められる。彼女は後者が苦手だった。

 うまく話をすることができずに、何度も夜に一人で泣いた。早く帰りたいと、自分には無理だと幾度となく手紙を書いた。それでも両親からの許諾は得られなかった。

「私はあの頃から出来損ないだったわね」

 ぽつりと呟いた言葉が、静寂に溶けていく。

 たくさんの人が生まれてはすぐに命を落とす中、生き残ることができた人間は、様々なものを課される。国のために誰もが必死に学び、励むことを求められる。それが小さな国が生き残るための術だ。

 だが期待に応えるというのは、そう簡単にできるものではない。父のようにも母のようにもなれぬ自分がなすべきことは何なのか。あの日から彼女は考え続けている。

 膝を抱えた彼女は、その上にそっと額を乗せた。肩ほどまで伸びてきた髪が頬へと滑り落ち、肌をくすぐる。

 昔から珍しくも褒められた髪だったが、この旅路のために短くした。彼女の後ろ姿を見た母がため息を吐いたのは、記憶に残っている。

 横目で本を見下ろした彼女は、適当に頁を捲った。かなり古いものだろうに、紙の手触りは心地よい。これは一体誰向けに作られたものなのだろう。

 ふいと指先が止まったのは、祈るような女性の姿が描かれているのを目にしたからだ。その姿は、クロミオが口にした女神を連想させた。

 人は最後には、こうして誰かに縋るしかないのだろうか。シリンタレアでは宗教は禁じられている。祈ることは匙を投げる行為だと、否定的に言われている。

 しかしそれでも最後に誰かを救うのは、どこかに希望があると信じられることかもしれない。そういう意味では、女神を信奉しているニーミナの人間は強い。

 と、不意に風の鳴き声が強くなった。はっとした彼女は耳をそばだてる。

 今、確かに誰かの気配がした。硬い土で跳ね返る靴音のようなものが聞こえた。慌てた彼女は本を布袋へとしまいこんだ。この存在を知っているのは彼女とクロミオだけ。誰に見られても困る。

 袋を抱え込み外套の襟を合わせた彼女は、そのままじっと息を詰めた。獣の鳴き声は近づいてきていない。おそらくあのジブルの使者ではないのだろう。それでは誰なのか?

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