第18話 閉ざされた門

「くそっ」

 前を行くサグメンタートの舌打ちが聞こえ、彼女は顔を上げる。揺れる視界の中で目を凝らせば、通りの向こうに何かがいた。

 やや薄暗くなっているせいではっきりとは見えないが、一匹の野犬のように思える。こんなところにいるはずがないのに。

 まさか『心臓』を通ってきたのではないか? 大国の方から。そんな考えが脳裏をよぎり、彼女の鼓動は跳ねた。だとすれば、ジブルやナイダートが放ったものである可能性がある。ただの野犬だと楽観視はできない。

「お前はそのまま走れっ」

 短剣を引き抜いた彼は、彼女の手を離して速度を上げた。彼女が止める間もなかった。口を開けども、放とうとした言葉はただの吐息にしかならない。躓きそうになりつつ、彼女は顔を歪ませた。

 短剣を構えた彼へと、獣が向かっていくのが見える。野犬にしては大きい。やはりただ迷い込んだ獣というわけではないのか?

 ジブルの使者が放った獣にも似ている気がした。もしやこういった事態を見込んで、あらかじめ仕込んでいたのだろうか。

 そうだとすれば一匹だけとは限らない。他にも隠れている可能性がある。一対一ならともかく、獣が複数ならサグメンタートの手には負えないだろう。

 彼女は必死に駆けながら、再び天に祈った。こんな自分のために大切な医術師見習いの命が失われるようなことがあってはならない。それだけは防がなければ。

「おねがい」

 口の端からこぼれた音が、白くなって消えていく。強い風に吹かれて、周囲の草がざわざわと揺れた。どっと、獣が地を蹴る姿が見えた。その咆哮が彼女の鼓膜を叩く。

 飛び上がった獣に向かって、サグメンタートが剣を構える。こんなことなら簡単な剣捌きくらい、ボッディに教えてもらうべきだった。

 獣の牙が見える。風の鳴き声がする。大きく振られたサグメンタートの短剣を、獣は身をよじるようにかわした。空中で体を捻るその姿は、やはりただの四つ足動物とは思えなかった。あれはおそらく訓練されている。

 着地した獣は、歯を剥き出しにして唸った。足を止めたサグメンタートは、獣をねめつけているようだった。彼の後ろ姿には焦燥感が滲んでいる。やはり勝てる気がしない。

 再び、背後の山で大きな声がした。何かの獣の、断末魔のような叫びだった。

 その叫声に、こちらの獣も反応した。びくりと体が震えて、黒い毛が逆立つ。

 その隙を、サグメンタートは逃さなかった。意を決したように踏み込み、力強く腕を突き出す。音はしなかった。それでも一瞬金属の光が瞬き、獣の体が跳ねた。ついで耳障りな鳴き声が空を裂く。

 彼女は息を切らせながらそのまま走った。近づいていけば、びくびくとのたうつ獣の姿と、短剣を見下ろす彼の横顔がはっきり見えた。彼の顔は苦渋の色に満ちている。それに青白い。

「お前は先に行け」

 ちらとだけこちらへ視線を転じた彼は、それだけを口にした。よく見ると、彼の外套には幾つか血の跡があった。返り血だろうか? あれでは大門の検閲に時間がかかってしまう。その間に大国の者に追いつかれるかもしれない。

「ですが……」

「いいから行けっ」

 速度を落としたところで、まるでこちらの躊躇を読み取るように怒鳴られた。彼女はびくりと肩を縮め、もう一度背後を振り返る。これではまるで彼を囮にするようだ。そんなことなど許されないのに。

 しかし背中で跳ねる重みへと意識を向けて、彼女は唇を引き結んだ。

 託されたものがあると、こういう時に自分を犠牲にできない。これは初めての経験だった。

 異を唱えたくなる衝動を堪えて、彼女は視線を下げる。そして幾つもの言葉を飲み込み、彼の横を擦り抜けた。

 四肢を震わせる獣からは、血の臭いが漂っていた。何だか泣きたい気分になる。その臭いはいつも死の気配と共にある。絶望の香りだ。失われた命を、どうしても思い出してしまう。

 きっと彼もそうなのだろう。だから動けないし、とどめを刺すこともできない。しかしせっかくボッディが作ってくれた好機だ。二人して立ちつくしている場合ではない。

 彼女は力一杯地を蹴った。道の向こうに、ついに『心臓』が見えてきた。素早く視線を走らせたが、その周囲を獣がうろついている様子はなかった。

 では今のは本当に一匹だけだったのか? それとも足の速いものだけが先に辿り着いていた?

 様々な可能性が脳裏をよぎるが、今はとにかく前へと進むしかない。『心臓』からは石で舗装された道になる。今の足にはなかなか響くだろう。

 そのまま『心臓』を通り過ぎると、道の先に門が見えた。巨大な壁の中央に位置する灰色の門は、シリンタレアの象徴の一つともなっている。大門だ。

「もう少し」

 足がじわじわと痛み出していることには気づいたが、それもあと少しの辛抱だと無視をする。門の内側にさえ入れば、その後はいくらでも休息が取れる。治療も受けられる。そう自らを叱咤激励しながら、ひたすら足を前へと動かす。

 背後でまた獣の咆哮が聞こえた。同時に、山の方から再びかすかな地響きがした。

 彼女の額から汗がしたたり落ちる。もし遺産があの山を下りてきたら? そんな嫌な予想が浮かび上がる。

 山道を通れる程度の大きさであれば、さすがに大門を破壊するような力はないだろう。しかしボッディやサグメンタートを跳ね飛ばすくらいの力があっても不思議ではない。彼女は唇を噛んだ。

 それに、本当にシリンタレアに帰れば全てがうまくいくのか? これだけ大国が動いているとなれば、もう手遅れではないのか? ここで考えたところで詮のない疑問ばかりが、次々と浮かび上がる。

 それでもここで立ち止まることはできない。彼女は一心不乱に走った。本を守らなければならない。ここまで逃がしてくれた者たちの思いに背いてもいけない。悪夢のような可能性が思い浮かぶ度に、彼女は自らにそう言い聞かせた。

 石畳を蹴る感触にも慣れてきたところで、ようやく大門が迫ってきた。しかしそこに、普段はいるはずの門番が見当たらなかった。怪訝に思いつつも、彼女はさらに近寄っていく。

 理由はすぐにわかった。大門は、固く閉ざされていた。

「そんなっ」

 大国が動いていることを予期して先手を打ったのか? しかしこれでは、彼女たちまで閉め出されてしまう。

 大門は、本来は内側からしか開けられない。そういう作りになっていた。

 とはいえ、緊急事態に備えて、特別な仕掛けも施されていた。外から開けるための唯一の方法だ。

 しかしそれを作動させるためには、門上の小部屋にある鍵穴に、特別な鍵を差し込まなければならない。彼女はそんなものなど持っていなかった。

「嘘でしょっ」

 自分たちは見捨てられたのか? 切り捨てられたのか? 顔から血の気が引いていった。そんなはずはないと頭を振りたくとも、悪い想像ばかりが脳内を駆け巡る。

 こんな時に思い出されるのは、彼女を送り出す時の父の顔。そして同僚の言動。最後に会った上司のため息。彼らは全てわかっていたのではないかと、つい疑りたくなる。

 ――いや、そうだとしたら、その後にサグメンタートを寄越したりはしないだろう。彼は大事な医術師見習いだ。少なくとも全員が彼女たちを見捨てようとしていたわけではないはずだ。

 ぐっと彼女は唇を噛んだ。まだ諦めてはいけない。息を切らしながら、彼女は大門まで駆け寄った。そして意を決して、門上に向かうための階段を目指す。足首がますます痛んでいるが、休んでいる暇はなかった。

 額から落ちた汗が顎を伝っていく。呼吸が荒くなり、喉の奥が焼けるようだった。

 それでも彼女は必死に一段一段上った。どんなに楽観的な見通しを立てても時間は足りない。ボッディが食い止めてくれている間に門を開け、サグメンタートを迎え入れ、そして再び門を閉じなければ。

 狭くて薄暗い階段を抜けた先には小部屋がある。普段は見張りのために使用されている場所だ。その奥に、鍵はあるはずだった。

 歯を食いしばりながら登り切ると、彼女は素早く部屋の中を見回した。明かりが乏しい室内を照らしているのは、窓の外の光だけだ。目を凝らしながら、彼女はゆっくり部屋の真ん中へと進み出る。

 すると奥の方に、布が掛けられている一角を見つけた。おそらくあれに違いない。毛布のような分厚いそれを捲り上げると、石の柱に寄り添うよう置かれた台に、鍵穴らしきものが存在していた。

「でも鍵がない」

 眉根を寄せつつ、彼女は周囲へと視線を巡らせる。けれどもこの鍵穴にあうような物は見つけられなかった。無論、そんな大事な物が見つかりやすい場所にある方が問題だ。

「どうしよう」

 焦る心を抑え込み、彼女はひたすら考える。門を閉じた者が、何かするとしたら? 万が一の事態に備え、他国の人間にはわからない方法で隠すとしたら? 自分ならどうする?

「あそこっ」

 一つ、可能性が浮かび上がった。シリンタレアであればどこにでも用意されている、応急処置のための道具箱だ。他国の人間が見ても何が何だかわからない物が多いだろうが、そこにあるはずのない物が入っていればそれが怪しい。

 道具箱は、先ほど室内を観察した時に見た。階段横に設置された棚の中だ。踵を返した彼女はそちらへと向かう。よく見掛ける布張りの箱が、小さな棚の中に収められていた。

 箱を抱えた彼女は、再び鍵穴の方を目指した。外で何かが起きている音はしないが、門上まで届いていないだけかもしれない。一刻も早く開けなければ。

 台の上に道具箱を乗せた彼女は、それを両手でこじ開けた。今にも壊れそうな音がした。箱自体はずいぶんと古そうだ。

 けれども中をのぞき込めば、道具はきちんと入れ替えられているのがわかる。この手の道具箱の管理は徹底されているから当然だろう。彼女は必死に中を探る。

 予測は的中した。包帯や装具といった物に混じり、奇妙な形をした細い棒のような物が収められていた。

「これだわ」

 細い棒を手に取った彼女は、慎重に鍵穴へと近づける。ごくりと喉が鳴った。

 しかしゆっくり穴に差し入れようとしたところで、小窓の向こうから大きな音が鳴り響く。彼女は咄嗟に手を止めた。今のは銃といった程度の武器が放つ音ではない。もっと何か大きな遺産を動かしたような、そんな音だ。

「まさかっ」

 棒はそのままにして、彼女は小窓の方へと駆け寄った。もしや遺産が近づいてきている? 敵が迫っているのなら、ここで門を開けるわけにはいかない。

 急いで窓から顔を出せば、医の通りの向こう――山の方から、黒い煙が上がっている様が見えた。火器が使用されたのか? しかし幸いにも、まだ医の通りに何かが出てきている様子はなかった。これならまだ間に合う。

 そう思って視線を門の下へと向ければ、サグメンタートはすぐそこまで来ていた。彼も驚いたように山の方を凝視している。

「ディルアローハ!」

 こちらに気づいたのか、突として彼が門の上を見上げてきた。土色の彼の外套には、先ほどよりも派手な返り血がこびりついていた。きっと獣がもう一匹現れたのだ。やはり悠長なことはしていられない。

「今、門を開けます!」

 彼女は声を張り上げた。遺産が迫る前に、次の獣が辿り着く前に、大門の中に入らなければ。

 ボッディのことは、それこそ祈るしかない。彼女たちが行っても足手まといにしかならない。それではここまでしてくれたボッディの気持ちを踏みにじることにもなる。

 彼だけならきっと、どうにか逃げおおせてくれる。――これは自らを奮い立たせるための言い訳だろうか。

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