第10話 乙女の天敵


 パラパラとめくっていた教科書をパタンと閉じる。


「よし。暗記終了」


 目を閉じると、はっきりと教科書の内容を1ページ目から最後のページまで鮮明に思い出すことが出来る。

 ふはははは! 何というチートなんだ『完全記憶』先生は!


「ユナぁー。教科書ありがとー」

「ほーい。お兄は一体どうしたんだろう。高校一年の教科書を貸してだなんて。もっと頭が悪くなったのかな?」

「おぉーい! もっと悪くなるとはどういうことだ! 普通教科書を読んでたら頭が良くなるはずだろ!」

「今まで勉強嫌いだったお兄だよ? 天変地異の前触れかと思うじゃん」


 うぐっ。それは何も言い返すことはできない。ユナの言う通りである。

 勉強嫌いだった奴が突然勉強し始めたら頭がおかしくなったのかと俺だって思う。


「中学時代の教科書はある?」

「うげっ! 本格的に大丈夫かな? 中学の教科書なら私の本棚に並んでるよ。ご自由にどーぞー」

「ありがと」


 心配しながらも教科書のある場所を教えてくれる我が妹、女神か!? 超優しい! 

 その『あいあむ The 妹!』というTシャツはどうかと思うが。


「お兄ぃー。本日のマッサージをおねしゃす」

「りょーかーい。こちらへどうぞ、お嬢様」

「うむ。くるしゅーない」


 勉強は一時中断だ。妹が最優先。

 俺の布団にうつ伏せで寝転んだ妹様の玉体を揉み始める。

 毎日家事でお世話になっております。テスト期間中も。本当にありがとな。

 足の裏から徐々に上へ上へと揉み上げる。柔らかい体だ。しかし、よくマッサージしている俺にはわかる。ユナの身体には疲労が溜まっていることに。

 ふくらはぎをモミモミ。


「ふへぇ~極楽極楽ぅ~……」

「ユイナ。トビトのマッサージってそんなに気持ちいいの?」


 近くでゴロゴロしてライトノベルを読んでいたザトスが、興味深そうに顔を上げていた。


「されてみたらわかるよぉ~……至福ぅ~……」

「すごい。あのツンツンユイナが蕩けてる」


 ツンツン結那って何だ?


「私もして欲しい。気になる」

「俺は良いぞ。いつでも」

「でもぉ~、今は私とお兄の時間~……ほえぇ~……」


 ユナはマッサージの間はよくこんな感じで少し幼くなるのだ。寝落ちすることもしばしば。そこがまた堪らなく可愛い! ウチの妹は世界一!


「お兄。テストはどうだったぁ~?」

「テスト? まぁまぁだよ。前回よりも良くなる自信はある」

「ほう? じゃあ、賭けでもする? お兄の順位が上がるかどうかで。順位が上がったらお兄の勝ち。前回以下だったら私の勝ち。賭けの内容は相手への絶対命令権」

「ユナまで同じ賭け事を提案するのかよ」

「同じ賭け事? 聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。相手は誰? 女? どんな女なの!? 一体誰!?」


 何故女と決めつける。合ってるけど。

 うつ伏せになっていたユナが振り向いている。爛々と妖しく輝く目が怖い。

 俺はこの目には逆らえないよう調教されているのだ。ガクガクブルブル。


「く、クラスメイトの女子、です……。ぐ、偶然そんな話になって、順位を競い合って勝った人が負けた人に何でも命令することが出来ます。犯罪以外で」

「ふ~ん? 相手は美人なの? 美人なんだね? 美人なんでしょ!」

炬燵緋炉こたつひいろさんです……」

「へぇー……」


 何だろうこの気持ち。付き合っている彼女にちょっとご飯に行った女性のことを暴露している浮気男の気分だ。


「『踏まれたい女子』ランキングの二年連続1位の人か」

「な、なんでそれを!?」

「女子の情報を甘くみないで! ちなみに私は今年2位だったよ」

「なん、だと!? その情報、俺は知らなかったんだが!」


 ユナに目を付けた男子たちの慧眼は称賛しよう。だが、ウチの可愛い愛妹に票を入れるなんて万死に値する! 投票した男子にはオハナシが必要だ!

 ふふふ……情け容赦は無用! ボコボコにしてやる!

 ユナに踏まれていいのは兄である俺だけの特権だぁー!


「私が踏むのはお兄だけなのにねー」

「そうだ! 踏んでいいのは俺だけだぞ! 絶対! 絶対だからな!」

「え。なんか必死すぎてキモい。お兄ってドМ?」

「ドМじゃない! シスコンなだけだ!」


 うわぁー、と引いたユナは俺の顔を見たくないのか枕に突っ伏し、足をパタパタと動かして俺を軽く蹴る。

 猫がじゃれついている姿を彷彿とさせる……。かわえぇ~。


「ふーん。お兄はクラスの女子と賭けをしてるのか。ふーん。なら、その賭けに便乗しようかな!」

「便乗?」

「そう。もしその女に負けたら、お兄は私に命令することができる。逆にお兄が勝ったら私がお兄に命令することができる。どう? 面白くない?」

「炬燵さんとは逆ってことか」

「そゆこと」


 炬燵さんが勝ったら、俺は炬燵さんの命令に従い、ユナに命令できる。

 逆に炬燵さんが負けたら、俺は炬燵さんに命令でき、ユナの命令に従わなければならない。

 どっちに転んでも俺にはメリットとデメリットが両方ある。炬燵さんに負けることがほぼ決まっている俺は、ユナの提案に乗ったほうがマシ、か?


「お、お兄が望むのなら、エ、エッチなことも、オーケーだよ?」

「何故ユナもそっち方面のことを考えるんだ。漫画の読みすぎじゃないか?」

「漫画ばかり読んでたお兄に言われたくない! で、どうするの!? 私とエッチなことしたいの!? したくないの!?」

「賭けをするかどうかじゃないのかよ……わかったよ。その賭けに乗った。後悔するなよ」

「ふっふっふ。お兄こそ後悔しないでよね!」


 上機嫌の妹様はフンフンと鼻歌を歌い始める。

 このままだと俺に命令される可能性が高いのだが、ユナはちゃんとわかっているのだろうか?

 まあ、その時はケーキでも作ってくれと命令すればいいか。久しぶりにユナ特製のお菓子が食べたい。


「太ももに移るぞー」

「どーぞー」


 ふくらはぎから太もものマッサージへと移る。

 太もも……そういえば炬燵さんの太ももってどんな感触がしたんだろう?

 強制的に賭けをすることになるのなら、抗わずに挟まれてしまえばよかったと後悔している。実に惜しいことをした。

 そして今、目の前にある美しい太もも――ごくり。


「……えいやっ」

「んんっ!」


 目の前にある抗い難い魅惑の隙間に手を突っ込んでみた。

 予想していなかった艶めかしい声とピクッと反応した様子を目の当たりにして、俺は猛烈に後悔する。

 興味があったものの、妹の太ももで試すなんて兄として、いや男として失格だ!

 いや、ユナの太ももにも大変興味はありましたが……湧き上がる性欲に抗えなかった。ごめんなさい。俺の馬鹿野郎!


「変態トビト。女の敵」


 バッチリ見ていたザトスの灰色の瞳は蔑みの光を帯びて、絶対零度よりも冷たく睨んでいた。


「ザトスさん、こ、これは違っ!」

「手を突っ込んだまま。言い逃れはできない」

「うぐっ!」

「お兄。妹の太ももに手を突っ込んだ感想は?」

「大変素晴らしいです。予想以上に柔らかくて、むっちりというか、手に吸い付いてくるフワフワな感触が癖になりそう。優しく包み込んでくれる温かさが気持ち良くて、ずっとこうしていたいというか……マジ最高です、って、結那さん!? 怒らないの!?」

「なんで怒る必要があるのさ」


 振り返ったユナの表情には怒りの感情はない。引き結んだ唇は何かを堪えているようにも見えるが、怒りではないことは確か。


「いつもマッサージの時に手を突っ込むじゃん。お尻まで揉んでもらっているのに、これくらいでは怒りません」

「まあ、腕立てして筋肉痛になったからと言って大胸筋までマッサージさせようとする妹様だからなぁ」

「マッサージだから多少興味本位で変なところを触っても私は気にしません。気にしないんだからね! 気にしないよ!」

「寛大なユナ様に感謝いたします」


 こんなダメ兄貴を許してくれるなんて……ユナは女神だ!


「ユナ、少し足を開いて」

「んんっ……わかった」


 焦らされるようにゆっくりと開かれた足。俺は雑念を振り払い、マッサージに集中する。

 両手を使って太ももをモミモミモミ。膝裏の方から足の付け根の際どいところまで、ただひたすらに彼女の足を揉み解していく。

 足の間から僅かに覗く清涼な白と水色の縞パンは俺には見えていない。見えていないといったら見えていないのだ!


「んぅっ……んはぁっ……!」

「ユイナ、耳まで真っ赤。気持ちよさそう……いろんな意味で」

「シャラップ! 余計なことは言わんでよろしい! んぁんっ! そこっ! 気持ちいい! お兄もっとぉ! もっと揉んでぇっ! あぁ~んっ!」


 無視だ無視。艶めかしい声なんて聞こえていない。妹のエロい声なんて聞いていない! 俺の耳には届いていなーいっ!


「ユイナ、えっろぉ……トビト、やっぱり女の敵」

「なんでそうなる!? 俺は健全なマッサージをしているだけだ!」

「そうだよ。お兄は健全なマッサージをしているだけ。どう見ても太ももを揉んでるだけでしょ? んんぁっ!」


 健全なマッサージだよな? やってる俺が疑ってしまう。

 うん、ただ太ももをマッサージしているだけ。変なところは一切触っていない。普通のマッサージだ。ユナが大人っぽいだけ。


「というかおねぇ。お兄が女の敵って言ってるけど、本当の女の敵は別にいるからね」


 今更なんだが、ユナはザトスのことをお姉と呼んでいる。あっという間に二人は仲良しになった。


「ご飯をたらふく食べて、ゴロゴロと自堕落な生活を送る。これこそが真の女の天敵なのです! ……お姉、太るよ」


 ユナのご飯をおかわりして食べ、時折ふらりと出かけては食べ歩きをし、家ではゴロゴロしているザトスさん。太ってもおかしくはない。

 生活習慣を指摘された彼女は、何故かドヤ顔で不敵な笑い声を漏らし始める。


「ふっふっふ。探索者の身体を甘くみないで。普通の人とは違う。これくらいで太るわけ、が……な……い……?」


 言葉が途中で途切れた。ポンッと得意げにお腹を触ったザトスは何か違和感に気づいたようだ。

 しきりにお腹を撫で、人差し指と親指で確認。


 ――ふにっ。


 そんな可愛らしい音が俺には聞こえてきた気がする。

 ザトスは、何かがおかしい、と目を瞑ってもう一度確認。


 ――ふにっ。ふにふにふにっ。


 やっぱり可愛らしい音が俺には聞こえた。

 その音はザトスにも聞こえたようだ。クワァッと灰色の眼を見開いて、慌てて自分のお腹を見下ろした。


「ぬわぁっ!? ぬわわぁっ!?」


 ふにふにふにふに。

 何度やっても間違いではない。夢でもない。ドッキリでもない。現実だ。

 存在してはならないものがザトスのお腹に存在していた。


「やっぱりね」


 ユナが小さく呟き、憐みのため息をつく。

 何度かザトスのお腹を拝見したことがあるが、もう少しくらいお肉がついてもいいと俺は思う。そのほうが俺は好み。だが、この様子から察するに、本人は嫌みたいだ。


「ユイナ! 体重計はどこ!?」

「洗濯機の横」

「ありがと!」


 一条の白い閃光と化したザトスは、煌めく光の残像を残し、一瞬にして姿が掻き消えた。次の瞬間には洗濯機の辺りからガサゴソと音が聞こえてくる。

 そして、全てが沈黙した。


「お姉、南無!」

「軽いな」

「だって自業自得だもん」

「それもそっか」


 自堕落な生活をするザトスさんを思い出して、俺もユナの言う通りだと納得する。

 手が止まってるよぉ~、とマッサージの催促が命じられたので、ザトスどんまい、と心の中で哀悼の意を表し、ユナの太ももを揉んだその時、


「ぴぎゅぁぁああああああああああっ!?」


 この世のものとは思えない絶望の叫び声がアパートを大きく揺さぶった。


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