第9話 賭けごと
ついさっき、一学期の期末テストが終了した。
インストールした『完全記憶』のおかげで、かつてないほどの自信に満ち溢れている。こんなにも解答できたのは今までの人生で初めてだ。
なんと、空白が一つもない! 全てのテストで全部解答したのだ。
理系科目の計算問題は自信ないけれど、文系の暗記教科は自信しかない。
英語なんか特に拡張アプリ『概念翻訳』のおかげで全てがわかった。あれだけ苦労していた文章題もあっさり読めて、リスニングに至っては今まで何故わからなかったのだろうというレベルだ。『概念翻訳』マジすげぇ。
思わずテスト中に笑い出しそうになってしまったほど。
しかも、『概念翻訳』の効果は古文や漢文にも影響する。
『概念翻訳』先生……今まで地味だと思っていたけれど、撤回するよ。君は素晴らしい拡張アプリだ。誇っていい。
拡張アプリをインストールしてからというもの、教科書を見ただけでスラスラと頭の中に入っていく。勉強が楽しくてしょうがない。
「あら? まだ残ってたの? 日直に遅れた空島君」
一人教室に残っていると、突然クールで綺麗な声が俺の心を軽く抉った。
「うっ! それ、いつまで言うんだ?」
「私の気が済むまで。ちなみに、私はずっと後までネチネチ言い続ける性格の悪い女よ」
なんて冗談、と悪戯っぽくウィンクした美少女は
長身で黒髪ロング。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。スタイル抜群。ちょっと気の強そうな印象もあるが、性格は気さく。大人びてクールビューティなところがとてもいいと男子からは評判だ。
前年度から続く男子の丸秘ランキング『踏まれたい女子』に二年連続で堂々の1位を記録した人物、というのは男子だけの秘密である。
「空島君は帰らないのかしら?」
「あ、もうこんな時間か。時間を忘れてたよ」
「日直の日も忘れてたものね」
「うぐっ!」
わ、忘れてはいなかったんだ。空間崩落に巻き込まれたから遅れてしまったのであって、決して忘れたわけでは……。
俺の顔が面白かったのか、炬燵さんはクスクスと笑っている。
「空島君って揶揄うと面白いのね。別に気にしなくていいわよ。あの日は近くで空震が起きて魔物騒ぎがあったもの。おかげで日直の仕事が楽だったわ」
「へぇー。炬燵さんってもう少し真面目だと思ってた」
「ふふっ。ただ優等生を演じているだけよ」
突然、彼女は顔を近づけて、俺の耳元で甘く囁いた。
「――私、本当は悪い子なの」
背筋がゾクゾクする。例えるなら、堕落を誘う妖艶な女悪魔の声。
彼女に踏まれたい男子の気持ちがわかってしまった気がする。
「どう? 私と悪いことしない?」
「大っ変魅力的な提案ではありますが、女郎蜘蛛の糸に絡まって食べられてしまう未来しか想像できないので遠慮しておきます」
「あら残念。美味しく食べてあげようと思っていたのに」
チロリと唇を舐めて妖艶な笑みを浮かべる彼女は、実に大人っぽくて危険な香りがした。
「で、空島君は時間を忘れるほど何をしていたの?」
いつものクールビューティな炬燵さんに戻った彼女は、隣の机に軽く座って俺が眺めていたものに目をやった。
「教科書? テストが終わったのに勉強していたの?」
「あ、ああ」
炬燵さんの黒いストッキングで覆われて交差された肉感的な魅惑の太ももから何とか目を逸らし、手に持っていた教科書を見せた。
「テストの復習かしら? 真面目ねぇ」
「いや、違うよ。最近、勉強が楽しくてたまらないんだ。勉強が楽しいって思えたのは初めてだ」
「わかるわ、その気持ち。枷が外れた、みたいにある日突然わかるようになるのよねぇ」
ごめんなさい。俺はズルしてます。拡張アプリのおかげです。
貴女みたいな天才とは違うんです。
「ちなみに、炬燵さんの前回の中間テストの順位を訊いてもいい?」
「空島君にだけ教えてあげる。他の人には秘密にしておいてよね」
――3位よ。
また耳元で囁かれ、全身に電流が走った。
耳に吐息を吹きかけるのはズルい。
「す、すごいな。3位か。夢みたいな順位だ」
「あら。私の上にはまだ2人いるわよ」
「炬燵さんが凄いのには変わりないさ。今回のテストの自信のほどは?」
「前回と同じくらいね。さほど順位も変わらないと思うわ」
「すげぇー。なんか格好いい」
雰囲気や立ち振る舞い、言葉に溢れ出す自信。
女王や女帝を前にしている気分だ。跪け、と命令されたら思わず従ってしまいそう。
「空島君はどうなの? 自信ある?」
「まぁまぁかな。少なくとも、中間テストよりも順位は上がる自信はある」
「へぇー、なら――私と賭けをしない?」
彼女の美しい笑みに危機感を抱く。まるで狡猾な蛇。
本能が警戒するよう訴えてくる。
「賭け?」
「そう。賭け。今回のテストで順位が上だった人が下だった人に何でも命令することができる。命令は絶対。ただし犯罪は禁止。というのはどう?」
「それ、炬燵さんに有利すぎない? そもそもそういう賭けはテスト前にするものじゃ……」
「言ったでしょう? 私は悪い子なの」
悪戯っぽくウィンク。美しい……じゃなくて!
「やめておくよ。俺にメリットが少なすぎる」
「あら。勝ったらこの私の身体を好きにしてもいいのよ。一生と言われれば永遠に身体を捧げるわ。どう? 興味ない?」
ごくり。興味があるかと訊かれたらあると答える。だが、必ず負けるとわかっている賭けには乗りたくない。
せめてテスト前に言ってくれれば全力で勝ちにいったかもしれないのに。
テスト後というのが性格悪い。絶対に勝てる自信があるから賭けを提案しやがったな、この腹黒美少女め!
「Boys, be ambitious. 少年よ、大志を抱きなさい」
「……クラスメイトの大志君を物理的に抱けという意味じゃないよな?」
「空島くんが抱きたいのなら抱けばいいじゃない。個人の自由よ」
絶対嫌! 野球部の大志君に悪いけど、絶対にごめんだ。男子と抱き合う趣味はない。
「男なら負けるとわかっている勝負にも挑みなさいよ」
「その発言はジェンダー・ハラスメントだと思う」
「日直の日、遅れてきたわよね?」
「さっき炬燵さんは気にしなくていいって言った」
「ちっ!」
舌打ちだと!? 炬燵さんって舌打ちするんだ。知らなかった。
「そんなに俺に命令したいのか?」
「したいわ!」
「即答かよ!」
この人、何が何でも賭けを成立させるつもりだな。もはや手段を選ばないとみた。
例えば、俺の手を勝手に自分の胸に押し当てて、それを脅しの材料にして――
「って、危ねぇっ!」
「ちっ! あと少しだったのに」
「本当に危なかった。危うく胸を揉んで脅されるところだった……」
「あら。胸のほうがお好みかしら。太ももで挟んであげようかと思ったのだけれど」
スリスリと擦り合わされる黒いストッキングで覆われた太もも。
くっ! 素直に挟まれておいたほうがよかったかも! もしかして、最初の視線がバレていたのか!? チラチラ見てしまっていたのも!?
「どうしようかしら。このままだと賭けは不成立で私が勝ってしまうわ。面白くないわねぇ」
「え゛!? 不成立で無効にならないのかよ! 理不尽すぎだろ!」
「どうする空島君? 賭けをしないで私の命令に従うか、賭けをして僅かな可能性に縋るか、どちらがいい?」
うふ、と微笑む彼女はまさに女王様。この人絶対にドSだ。
ニヤリと吊り上がった艶やかな唇とか長い睫毛に縁取られた綺麗な瞳に愉悦が滲んでいる。
炬燵さんのドS顔はとても様になっている。鞭とかボンテージとか超似合いそう。
「わかった。わかったよ! 賭けに乗ればいいんだろ! 俺が勝ったら何でも言うことを聞いてもらうからな!」
「ええ。いいわよ。私が言い出したことだしね。ファーストキスでも純潔でも捧げるわ。あ、赤ちゃんだって産んであげるわよ……」
そっか、炬燵さんって男性経験ないんだ……。大学生の彼氏がいるとか、年齢問わず男を食い散らかしているとか、援助交際をしているとか、ラブホテル街をうろついている、という噂があるのに。所詮噂か。俺は信じていなかったけど。
……って、別にそこまで求めてないんだが!
少し考えてしまったのは許して欲しい。俺だって健全な男子高校生なんだ。
「なお、この会話は録音と録画されています」
「いつの間に!?」
「最初からよ」
胸ポケットから取り出されたスマートフォン。画面はバッチリ録画状態。
抜け目がない。逆に炬燵さんが負けても言い逃れできないが。
「学校でのスマホの使用は校則違反だぞ。カバンから出した時点でアウト」
「先生が見てなければいいのよ!」
今まで真面目な優等生だと思っていたのに、炬燵さんは本当は悪い子だった。
「で、では、賭けが成立したという契約書代わりの写真を撮りましょうか」
「え?」
「はい、チーズ!」
カシャリ!
カメラのシャッター音が静かな教室の中で異様に大きく聞こえた。
炬燵さんとのツーショット写真。
急に彼女が近づいてきて、美少女と頬と頬が触れ合うくらいの至近距離に、俺は驚きのあまり固まってしまっていた。
変な顔で写っていないといいんだけど。
つーか、滅茶苦茶いい香りがした。甘くて清涼感溢れる爽快な香り。
「うん、綺麗に撮れたわね」
「俺にも見せて」
「ダーメ。見せたら絶対に撮り直せって言うから」
「そんなに変な顔で写ってた!? もう一度撮り直そう!」
何度も頼み込むが、彼女は頑なに首を横に振る。
撮った写真を見たいけれど、スマートフォンを胸に押し当てて隠しているので俺は何もできない。
ブーブー!
俺のカバンでスマートフォンが震動した。学校だけれど密かに確認する。
「あぁー、妹からだ。早く帰ってこいだって」
「そうなの。なら帰りなさい。家族は大切にしなければならないわよ」
「もちろん。よくわかってるよ」
その時の炬燵さんの笑みは、どこか既視感のある笑みだった。俺の中で強く印象に残る。
出していた教科書をバッグに押し込み、帰る準備を整える。
「じゃあね、炬燵さん」
「ええ。またね、空島君」
炬燵さんと手を振って別れ、俺は家路を急いだ。
▼▼▼
教室に一人残された
「行っちゃった……」
ハッと我に返った緋炉は、そのまま無言で教室を出て女子トイレへと向かう。
誰もいないことを確認し、個室に入って鍵をかける。そして、
ガンガンガンガン!
頭をドアに何度も打ち付けた。
「私はっ! なんでっ! 空島君とっ! 素直にっ! 喋れっ! ないのっ! よぉっ! 私の馬鹿ぁー!」
最後にガンッ! と強く頭をぶつけて、そのままズルズルとしゃがみ込んだ。
打ち付けた額以上に顔と耳が真っ赤になっている。首まで朱に染まっているようだ。
「はあ゛ぁぁぁああああああああああ!」
盛大に息を吐く。肺にたまった空気を全て。
乙女にあるまじき声だが今だけは許して欲しい。
「はあ゛ぁ~! メチャクチャ緊張しだぁ~っ! 突然空島君と二人きりでお喋りなんて心臓に悪い゛ぃ~! 予想してなかっだぁ~!」
一人になったことで全身から力が抜ける。
極度の緊張から解放されて、しばらく立つことも出来ないかもしれない。まだ心臓はバクバクしてる。手汗はびっしょり。下着も汗で濡れて気持ち悪い。
それほど彼女は緊張していた。
「何とか……何とか成功ね。賭けは成立した。本当はテスト前に言い出したかったのだけど……まさか日直の日に遅れてくるなんてね。思ってなかったわよ」
緋炉は飛兎との日直の日の朝、クラスメイトがいない時間帯に賭けを持ち出すつもりだったのだ。数週間もかけて綿密に計画を立て、あらゆるパターンを洗い出し、カンペまで書き出して暗記したというのに、すべて台無しになってしまったのである。
今日、放課後の教室に一人残っている彼と出会ったのは全くの偶然だった。
その分、アドリブで乗り切らねばならなかったが。
「わ、私、空島君に引かれてないわよね? 身体を好きにしていいとか一生捧げるとか言っちゃったわよね!? 純潔って言ったわよね!? あ、赤ちゃんを産むなんて言わなきゃよかった! もう告白どころかプロポーズものじゃないぃ~! 彼にお願いされたら何人も生んであげるけどぉ~! あげるけどぉ~!」
うがぁぁああああ、と恥ずかしさと後悔で変な唸り声をあげる。
「絶対に嫌われたぁ~! ドン引きされたぁ~! おまけに彼の手を取って太ももで挟もうとして……て、手汗!? 手汗は大丈夫だったかしら!? あの時の状態を覚えてない! あぁ……終わったかも……終わっだぁ~!」
あはは、と力なく笑う緋炉の口から魂が抜けだしそうだ。心なしか色が抜けて真っ白に見える。
「終わったのなら何が何でも彼の手を挟んでしまえばよかったわ……思い出として……胸のほうが良かったかしら……胸……むりむりむりぃ~! ぜったいむりぃ~!」
でも、と若干幼児退行した緋炉は大事に抱え込んでいたスマートフォンを取り出す。
画面に映っているのは、賭けの契約書代わりに撮ったばかりのツーショット写真だ。
「うふふ……まさかツーショット写真を撮れるなんて……ふふふふふ! あの時の私、グッジョブ! よく上手い言い訳を思いついたわ! よく行動できたわ!」
驚きで目を見開き固まっている彼の顔と、真っ赤な顔でド緊張している自分の顔。
こんな変な顔をしている自分を彼に見られるわけにはいかなかった。
彼からのもう一枚撮りたいという提案は大変心惹かれたものの、絶対に同じ顔になる自信がある。なので、苦渋の決断で断った。
表面上は余裕の顔だったが内心では『空島君、こ゛め゛ん゛ね゛~』と大号泣だったのである。
「うふふふふふ! ふふふふふふ!」
笑いが止まらない。顔がにやけてどうしようもない。
夢にまで見た念願の彼とのツーショット写真は、アドリブで変な言動をしてしまった反省と羞恥と死にたいくらいの後悔をもかき消す宝物だ。
乙女の笑い声は女子トイレの前まで漏れ出している。
「後は、テスト結果が判明して、彼に命令するだけね。ふふっ。私は『命令を一つ』なんて言ってないわよ、空島君」
彼女は愛おしそうに撮ったばかりの写真の飛兎をうっとりと眺め続ける。
「――今年こそ、夏休みに空島君をお出かけに誘うのよ! そして、あわよくばデートを!」
緋炉、頑張るのよぉー、と頬を叩いて自分に活を入れる。
にやけきった顔は引き締まらない。
全ては、素直になれない不器用な乙女の回りくどい恋の戦略であった。
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