第5話 夫婦喧嘩

「もう我慢ならん。きみにはほとほと愛想が尽きた!」


 T氏はそう言って食卓から立ち上がると、妻が制止するのも聞かずに家を飛び出した。


「夫婦にも相性があるとはいうが、こればかりはどうしようもない」


 妻を愛していないわけではない。むしろ、他の誰よりも大事にしているつもりだったが、今回ばかりは話が違った。積もりに積もった怒りの大爆発だったのだ。


「たかだかこれくらいでと思う気持ちと、この先の一生に関わるかもしれないという懸念が、私の中で激しく対立しているな。」


 T氏は頭の中をぐるぐると回る心の悩みに苦しんでいた。誰かにこの悩みを打ち明けたかった。


 愛する妻との別れまで真剣に考え始めていたT氏がふと気がつくと、親友であるN博士の研究所の前に立っていた。無意識に話を聞いてもらえそうな人物のいる方向へと歩みを進めていたのだ。


「一人で考えていても、らちが明かないな。ここはN博士に愚痴を聞いてもらおう」


 気兼ねなく愚痴を聞いてもらえる親友の存在に感謝しつつ、入口のチャイムを鳴らすと、扉の奥から声が返ってきた。


「どちら様かな?」


「私だよN博士」


 T氏が応答すると、N博士が遠隔操作をしたのか、扉がスッと開いた。


「中に入ってくれ。ちょうど面白い物ができたところなんだ」


 N博士は風変わりな発明品を作り、生計を立てていた。


 普段はガラクタばかりだが、まれに思い掛けない役の立ち方をする発明品を作り出す事があり、その発明品の特許を取得し、企業に売り込んで収入とする、いわゆる一発屋気質の発明家だった。


 T氏も当然その事を知っていたので、自分の愚痴を聞いてもらう前にN博士の発明品につき合う事にした。五分五分というやつである。


 研究所の中に入ると、うれしそうに顔をほころばせているN博士が待っていた。


「今回の発明品は一体何なんだい?」


「よくぞ聞いてくれた親友よ。ちょっと待っていてくれ」


 N博士はそう言うと奥に引っ込み、皿にのったセロリと箸を持って戻ってきた。


「お待たせ。さぁ、このセロリを食べてみてくれ」


 T氏はぎょっとした。セロリはT氏の最も嫌いな野菜の一つだった。当然、親友であるN博士もその事は知っていた。


「セロリ嫌いはお前も知っているだろう? 突然、何の嫌がらせだ?」


「大丈夫だ。きみに不快な思いや後悔を絶対させないと誓おう」


 N博士の気迫に負け、仕方なく手渡された箸を受け取り、皿の上からセロリを一つつまんで口へと運ぶ。セロリ特有の青臭さに吐き気を覚えるが、愚痴を聞いてもらおうと考えている以上、無下に断る事もできなかった。


 しかし、いざセロリを口の中に放り込んでみると……。


「……む。これは一体? 苦味も感じないし、不快な味どころか甘味すら感じる。セロリではなく、まるで熟れたての濃厚な果物を食べているかのようだ」


 T氏の感想を聞いて満足そうにうなずくN博士を見て、T氏は悟った。


「ははあ、なるほど。このセロリが発明品というわけか。私のようにセロリが嫌いな人間でも食べられるように品種改良を施したのだな?」


「惜しいが違うよ。発明品はこの箸の方だ」


「箸の方? なんの変哲もない箸にみえるが……」


 発明品と言われた箸を改めてまじまじと見つめるT氏だが、どういう仕掛けが入っているのか皆目見当がつかなかった。


「この箸には調味料が仕込んである。箸の先にあるセンサーがつまんだ物を識別して、万人がおいしいと感じられるように、つまんだ食材の味を調整してくれるのだ」


 N博士は自慢げに胸を張って箸の仕組みを説明するが、そこにT氏が割って入った。


「調整と言うより、セロリとは全く異なるものを食べている気分だったぞ?」


「さすが親友、気ついたようだね。その通り、これは苦手な物を食べられるように味を変える事ができる発明品だが、現状、食材そのものの味まで変えてしまうのが問題なんだ」


 N博士も説明を続けつつ、返してもらった箸でセロリをつまんで口に運んだ。


「今のままでは苦手な野菜や料理を食べられるとしても、こうも味が違うと同じ食べ物を食べられるようになったとは言えないからね。ここからさらに改良を進めていくつもりだ。」


 N博士の言葉にはっとしたT氏は、N博士にすごい勢いで詰め寄った。


「すまないN博士。この箸をしばらく借りられはしないだろうか?」


 T氏に圧倒され、N博士は目を白黒させながら返答する。


「サンプルで一点しかない物だが、他ならぬT氏の頼みだ。お貸ししよう」


 N博士から箸を受け取ったT氏は、喜びながら大急ぎで家路をたどっていた。その顔にはN博士のもとを訪れた時にあった心の葛藤や、悩みに苛まれていた憂鬱な影は微塵もない。


 T氏は家に着くなり、喧嘩別れをした妻にこう言った。


「さっきはすまない。私が悪かった。仲直りのしるしに、もう一度きみの手料理を振る舞ってくれないか?」

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ショートなストーリー 餅月黒兎 @bokyaru

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