第16話

「さあ、フロンプ神坐殿かみざでんに到着しました」

 道中は馬車よりも快適な移動だったためか、エンリとパルティナを除く全員が居眠りをしてしまっていた。

「んぁ、もう着いたのか?」

 ログレスはよだれが出るほど熟睡していたようで、すぐに袖でよだれを拭う。

 籠から出ると、急に体が冷える。

「さ、寒い! なんだこの気温は!」

 唐突に出た言葉に紛れて、白い息が溢れ出た。かなり高いところまで来たようだ。

「時間で言うともうお昼は回っているけど、朝ごはんが遅かったからまだいいでしょう」

「エンリ様、相当寒いというのもありますけど、どれくらい登ってきたのか、眠っていて気が付かなかったんですけど」

 クリエラは少し顔をしかめている。頭が痛いのか、空気が薄くて苦しいのか、それとも別の要因で気分が悪いのかもしれない。

「相当、山を登っているわ。そうね……雲の真下、くらいかしら」

「そそそそそそんなに! いくらなんでもそんなに一気に登れるとは思えんぞ!」

「それができるのが、この籠者のすごいところなのよね」

 寒さも相まって、一行は目的地であるフロンプ神坐殿へと足早に入っていく。

「ここが、フロンプ神坐殿……? アンサヴァス教団の総本山、だったと思いますけど」

 クリエラが建物の外観を臨みながらつぶやく。そこには『本当にあってますか?』という含みが感じ取れる。

 外観は、三百年以上は経過しているであろう古ぼけた木造の小さな建物だ。両開きのそこそこ大きい扉が正面にあるだけで、かつて世界人口の五分の四をその信者であったと言われた宗教団体の本部にしては、いささか小さすぎる。

「まあ、小さいっていっても入口だからね。奥に行けばネオントラムと比べ物にならないくらい大きな建物に繋がっているから、安心して」

 エンリはそう言いながら、入り口のカウンターに座っている女性に近づく。

「こんにちわ。スハマ天司に会いに来たんだけど、今日はこちらに居られるかしら?」

「信者の方ですか? 事前に申付けがない方は天司様はお会いになられません」

 女性は怪訝な顔をしつつ、普段通りの声で返す。

「『エンリが来た』、と伝えていただけますか」

「……エンリ様ですね、確認いたします」

 女性の怪訝な顔がさらに険しくなるが、女性は奥へと消えていった。なんとか取り次いでもらえそうでほっとしたエンリは、その場で返事を待った。

 ほどなくして、別の場所から別の男性が現れ、エンリに話しかけてきた。

「エンリ様、ですネ。スハマ様が是非にとノことで、こちらに席をご用意させていタダきました。どうゾ」

 笑顔の男性はエンシュ族のようで、独特な発音を込めた声でエンリ達を案内する。

「珍しいデス。スハマ様が神坐殿の外かラ来た方と話をしようとすルナんて。一体皆さんはどこノ信者の方たちなノですか?」

 道すがら、男性はエンリ達の事を聞いてきた。恐らく、用意した部屋までの時間つぶしのつもりだろう。

「ええ。エメリッド大陸はネオントラム地方から。ただ、信者と言うより関係者、と言う方が近いかもしれません」

 エンリは正直に話す。隠したところで意味はないし、本当のことを言っても恐らく彼には全てを理解できないだろう。

「ははハ。あノ戦争以来、我らは信者の皆さんの信用を無くしてしまってイマす。こうして足を運んでいただけるだケデも、大きな一歩でショウ」

「戦争というのは、やはり王魔戦争なのか?」

「そりゃ、そうデス。あの戦争のせいで我らアンサヴァス教団と、魔女ノ信用がなくなってシマった。スハマ様は、そのことで強く心を痛めておられるノです」

「そう言えば、戦争は五十年以上前なのですよね? その時からスハマ様は天司職をされておられるのですか? それだけ経てば、新しい方に変わっていてもおかしくないと思いますけど」

 クリエラがもっともなことを質問する。五十年前に天司であれば、少なくとも当時で五十歳は過ぎていてもおかしくない。

「ははハ。スハマ様はちょっと、特別、ですノで…… さあ、こちらです。中でお待ちいただきますよう、お願いしまス」

 男性は扉を開けると、一行を中へといざなった。

 その部屋は、ちょっとしたホールくらいの広さがあった。

 ログレスは、部屋に入ると同時に耳が少し痛くなったような気がした。男性が扉を閉めると、その音で部屋の空気が引き締まったような感覚を覚えた。まるで、密室に栓をされたような、そんな感覚だった。

「……まさか、閉じ込められたのか?」

 つい、思っていることを口にした。

「あら、この部屋の違和感を感じたの? 意外と分かる人少ないと思うわ。けど、違うわよ。感覚としては近いけどね」

 エンリが、ログレスの発言に補足するような、それでいて褒めるような声をかける。

「さすがは終焉守の同行者だ。なかなか鋭い感覚器をお持ちのようですよ」

 エンリ達が入ってきた方から見て、奥の別の扉が開き、初老の男性が入ってきた。

「始めまして、かな? 私が現アンサヴァス教団の最高指導責任者『天司』を預かる、スハマと申しますよ」

 初老の男は、深々とお辞儀をする。その作法は、魔女同士が行うものと同じものだ。

「始めまして。エンリ・ファーブスです」

 エンリも、それに倣って開いた両の手首を交差し、手のひらを自分に向けてお辞儀をする。

「ロ、ログレスと申す」

「クリエラと申します。特にここの信者ではないですけど」

「はは。構わんよ。そんな用事でないことは知っておるのよ」

 さすがに、幾重にも刻まれた顔の皺は先ほどの男性よりも高齢であることを伺い知れるが、声はまだまだしっかりしている。そこだけ聞けばまだ中年男性と言っても通るかもしれない。

「チャイクロ!」

「パルティナと申します。主様のゴーレムでございます」

「ほっほ。話は聞いておるよ。生きた伝説に会えるとは、長生きはするものだよ」

 スハマは、胸まで伸ばした白いひげをなでながら、一行を一人ひとり観察する。その姿は、教団を率いる指導者と言うよりは、いち教団員と言えるくらいの迫力しかない。

「とりあえず座られよ。なに、この部屋は特殊な錬成陣を用いております故、盗み聞きはもちろん、入口以外の入室はかなり根性が据わっておらんと骨が折れるんよ」

「あ、さっきの違和感はそれか!」

 ログレスは自身の感覚が間違っていなかったことに納得した。

「とはいえ、ナラルではひと騒ぎあったとか。しかも…… 我ら教団の関連品が発見されたとも。いや、ご迷惑をおかけしておるよ」スハマは深々と頭を下げる。

「いえ。犯人が残したものがたまたま、とも言えます。あるいは魔術的に必要な触媒だった可能性もあります。とりわけ、天司様の息がかかっているかいないか、そんな確認ですから」

「「え、エンリ殿?」」

 エンリの、いきなりの核心発言に、ログレスとクリエラの声が被る。

「ははは。まあ、それだけはっきりと申し上げていただく方が、話しやすいですよ。終戦時、民衆の方々に襲撃されたり、信者の方に離れられたりしたときの方が、よほど堪えましたよ」

 スハマは笑顔で答える。

「終戦? やはり王魔戦争の?」ログレスがすかさず話に入る。

「ええ。戦争の最高戦犯者がうちの信者、とりわけ上位の役職者でしたから。除籍しようにも一部強い信望者も現れたりで、その辺は今でも騒がしくしておりますよ。終戦当時から考えれば、それなりに信者も戻っております。シンリーズも一枚岩ではありませんしね」

 この世界の人々は、ほぼすべてどちらかの宗教を、神を信仰している。無宗教である者はほとんどいない。それだけ、神の存在がこの世界の人々の生活に密接しているからだ。

「正直、ミシュウには期待をしておったのも事実ですよ」

 スハマは、窓の外を見ている。いつの間にか、雨が降ってきていた。窓を叩く雨音がどこか心地よく聞こえる。

「……アンサヴァス教団は、ある身体的特徴を持つ者のみ、この天司の職を賜ることができるのです。偶然なのか運命なのか、彼にはそれがあった。私は、彼にこの世界の成り立ちすら語り、受け入れ、人々を正しく導く人間に育てたつもりですよ。今でも、彼が戦争犯罪者であることを受け入れられないのですよ」

 先ほどまでとは違い、スハマの声は弱々しく、見た目の年相応の声になっていた。

「……その、身体的特徴というのは?」

 エンリは嫌な予感がしたが、聞かずにはおられなかった。なぜなら、思い当たることがあったからだ。

「エンリ殿ならもうお察しかもしれません。私も、『魔飼い物』なのですよ」

 振り返るスハマの顔、特に左側半分に、彼の物とは別の顔が浮かび上がっていた。

「紹介しましょう。わたしの守り子『ソリス』です」

「スハマ殿に守り子……? これは、どういうことだ!」

 ログレスは、思わず大声をあげる。

「まあ、ご存じない方からすればそうでしょう。このアンサヴァス教団は、男性でありながら守り子を持つ者の駆け込み寺の要素を強く持つ教団が始まりなのです」

「では、もしかして賢者ミシュウも守り子を持っていたといわれるのですか? そこまでは資料館にもなかったと思いますけど」

 クリエラは少し前、戦争資料館での出来事を思い出している。確かに、守り子に関することまでは載っていなかったはずである。

「その話は、本人からも聞いてる。けど、神々はそんな簡単に守り子を人間に与えたりはしないわ。特にミシュウに関していえば、守り子は母親から譲り受けたものだし」

「そこまで、聞いておられましたが。なら、彼が戦争において潔白であることも……」

「ごめんなさい。今の時点でそれはできない」

 一瞬、スハマはすがるような顔でエンリを見つめ、エンリはあからさまに顔を曇らせる。しかし、すぐにまたスハマは窓の外へ視線を戻して続ける。

「分かっています。しかし、もう新たな魔女も、魔飼い者も生まれなくなった今だからこそ、貴重な彼と言う存在を、我らは失うわけにはいかないのですよ」

「魔女が、生まれない?」

 その言葉に、ログレスが言葉をそのままつぶやく。

「ええ。もうこの世界には、魔女も、魔飼い者ももう生まれません。そう、なってしまったのですよ」

 スハマは悲しそうな顔をログレスに向ける。

 風が強くなってきたのだろうか、窓がガタガタと音を立てて揺れ始める。

「神が、サヴァス神が、我らに守り子を授けることができなくなったのですよ。エンリ殿の、行いによってね」

 そこで、一行の視線がエンリに向けられた。

「……そうするしかなかった。戦争を止めるために、魔女と神々の、守り子を通した精神の接続を絶つには、神界域との連続性を絶つしか、なかったの」

 エンリの表情が、今までにないほどに、暗く打ちひしがれた表情を見せる。

「結果的にはそれが功を奏し、一気にオルトゥーラは形勢をひっくり返され、彼らの暴挙を止めることができた。その功績は誰もが認めておられますよ」

 スハマは、エンリを責めているわけではない。それだけは他の四人には伝わった。

「ミシュウは、何らかの法則を用いて神界域に干渉し、そこから各守り子の所有権を奪い、魔女を自分の思い通りにする魔法を用いることで、魔女そのものを洗脳する方法を思いついたようなのですよ。そんな危険な人間を、そのまま捕らえることもできず、今のような別界域へ隔離する方法で幽閉されている、と聞いております」

 だからこそ、無実であるならば早く解放し、数少ない魔飼い者である彼を教団幹部へ復帰させたい、と願っているのだろう。

「……でも、そうなるとあの反社会組織テロリストの正体が分からぬままでは?」

「正直、一つだけ、可能性として残っているものもあるけどね」

 それは、と問おうとしたログレスだったが、それは突如響いた轟音とともに妨げられた。

「何事だ!」

 部屋の窓ガラスがすべて割れて、外の風と雨が部屋に入ってくる。轟音は、部屋のガラスがすべて同時に割れた音だった。

『エンリ…… やはりここだったか』

 外から、聞き覚えのある声が雨音を超えて明瞭に耳へ響く。視線をそちらへと向けると、ゼーオ・ナラルでログレスに怪我を負わせたローブの男とそっくりな人影が、窓の外に立っていた。

「あの時の、反社会組織テロリスト!」

 声を聞いたエンリは、座っていた椅子から立ち上がり、前二つの宝石を杖で叩く。それぞれザークイングとヴァノーシャが呼び出され、エンリは精霊を伴って外へと出た。

「あのローブ、この間のやつではないか!」

 ログレスもようやく状況を理解したようで、エンリが外に出て追いかけている人影を、ゼーオ・ナラルで見た人物と同じ特徴を捉えた。

「ちょうど雨も降ってるし、捕らえて! ヴァノーシャ!」

 ヴァノーシャは主人の掛け声を聞くと、両手を空に掲げ、不思議な音律で歌を歌い始める。歌は風に乗って、周囲の雨雫に届く。それらは、まるで意識を持った生き物のようにローブの人影に降り注いだ。

『……甘い』

 ローブの男がエンリの精霊魔法を解除すべく両手をエンリに向けると、エンリはさらに厳しい目で男を見た。

「そうよね。わかってる」

 すると、急に周りから音が消える。風の音も、雨の音も、何もかもが消える。

「?」

 ログレスが何かを言っているようだが、近くにいたクリエラがログレスの口が動く様を見守るだけで、その様子を他の人が知るすべはなかった。

「どんなにすごい魔法も、言葉を発しないと発動しないのは、共通なのよね」

 よく見ると、風の精霊ザークイングがローブの人影に向かって、両手を使って風を送っているように見える。

『確かに、そうのようだな』

 しかし、ローブの人影は先ほどと同じようにその声を響かせる。

「……なるほどね。私の勘は当たっていた、かしら」

『エンリよ。オルトゥーダムにて待つ。く来たれよ』

 ローブの人影は、それだけ言うと現れたときと同じように消えてしまった。今度は、ローブすら残さずに。

「みなさん、大丈夫でしたか?」

 スハマが駆け寄り、エンリ達の様子を伺う。

 雨は相変わらず降り続いているが、エンリは既に精霊を戻していた。既にエンリに続いて外に出ていたログレスは、したたる雨水を払いながら、エンリに近づいていく。

「オルトゥーダムとはどこだ?」

 ログレスが聞いた地名らしき名前を聞く。

「カザンヴァード大陸にある都市の名前ね。まあ『あった』って言った方が正しいんだけど。今はもうないわ」

「ほろ…… んでしまったとか、か?」

 思わず『滅ぼしてしまった』と言いかけたのを、ログレスは言い留まる。

「ふふ。そうね。オルトゥーラ王国の近くにあった町の一つで、王都がなくなると自然となくなってしまった町だから、どっちにしても滅んでいたわ」

 エンリは、遠い空の彼方を眺めながら答える。

「そこに呼び出すということは、もしかしたら復活しているかもしれないですけど」

「どうかしらね。まあ、行けば分かるんじゃあないかしら」

「でも、何故あの連中はエンリ様にそこまで執着するのでしょうか。しかも、まるでエンリ様がオルトゥーラに行くことができることを知っているような言い方でしたけど」

「普通の人なら、そもそも今のカザンヴァードには行きたがらないし、私の故郷がカザンヴァードにあるのを知っているから、とか、そんな理由じゃあないかしら」

「カザンヴァードに故郷が……?」


     *   *   *


「お世話になりました」

 部屋の片づけをしているともう夕方も過ぎていたので、一行はそのまま神坐殿にて一泊し、朝食後に出発した。

「さて、次は…… どこにいくのだ?」

 ログレスが勢いよく門から出るも、目的地が不明確だったために再びエンリ達に向き直る。

「次は、『ケルメードの里』ね。多くの有鱗族の故郷と言われている村よ」

 エンリは次なる目的地に向かって歩き出す。ログレスたちもそれに付いて歩き始める。

「とはいえ、歩きのままではかなり時間もかかるし、ちょっと近道するんだけどね」

 フロンプ神坐殿からケルメードの里は、人の足では軽く三日はかかる行程を行かなければならない。それだけこの辺りの起伏が激しく、直線距離だけでは計れない高低差によって阻まれているからだ。

「まともな道もないのに行くのですか? 無謀だと思いますけど……」

「まあまあ。見てなさいって。昼過ぎくらいには着くわよ」

 エンリは何やら確信めいたものがあるらしく、足取りは早い。その向きは、むしろ山の上の方へと向かっており、クリエラ達からすればさらにケルメードの里からは遠ざかっているようにも感じた。

 ずんずんと先へ進むエンリが上への道を登り切ると、ふと足を止めた。

「……ふう。ここだったかしら?」

 クリエラ達も追い付いて辺りを見回すと、小高い丘になっているようで、大きく開かれた周囲の様子をよく見渡すことができる。

「ちょっと静かにしててね」

 エンリは腰の鞄に手を入れ、茶色いものを取り出す。

「土笛ではないか? にしては変わった形をしておるが……」

深古ふかしえの獣『ヴォロホート』をかたどった土笛よ。もらいものなの」

 ヴォロホートとは、いにしえに存在したといわれる獣で、蜥蜴の頭に魚の胴、昆虫のものに似た薄い四対の羽根を持ち、山々の崖を住処に木から木へと飛び回る獣だったという。体長は雲に届くくらいはある大きな姿をしているのだが、見かけるのが決まって夕方から夜にかけて、と言われている。

 エンリの持つ土笛は、その羽のところに穴が開いており、それらを指でふさぐことで音階を奏でる仕組みになっているようだ。

 落とさないように、付いている紐を首に通し、ゆっくりと息を吸い、土笛へと息を吹き込む。

 エンリは、演奏を始めた。

「……これ、『精霊の子守歌』、ですけど」

「知っている曲か?」

「小さい時、まだネオントラムへ行く前に、母によく歌ってもらった子守歌ですけど」

 そう言うと、クリエラはエンリの演奏に合わせて囁くように歌い始めた。


 セマンディラ バ ウリニ トレオ(大空 舞う 鳥たちは)

 ルイエンディ コーレル フェーン ディロ(何処へ 向かうの だろう)

 ヴァンリッタ シィリネ エンル ハーノゥ(羽ばたき 疲れた その羽を)

 ラゥン パリ ナラル ウォソ ニレ(休めに 住処で 眠ろう)


 周りが静かだからなのか、とても澄んだ歌声だったからか、小さいながらも土笛の音律に乗せて響くクリエラの声は、この丘のどこまでも響いた気がした。

「覚えてるのは、ここまでですけど」

「……なんだか、帰りたくなるような歌だったな」

「珍しいですけど。ログレスがそんなに弱気になるなんて。意外ですけど」

 よく見ると、雪が降り始めていた。

 事実ネオントラム、ひいてはエメリッド大陸を出立してからはや半年以上が経過している。彼らにしてみれば、これほど家を空けることなどなかったはずである。しかし、近日の度重なる出来事の積み重ねが、そんな時間を感じさせなくなっていたようだ。ふと、静かな場所で音楽と歌を聞き、ログレスは今の自分の状況を再確認したのかもしれない。

「……今の、古き言葉の歌詞ね。久しぶりに聞いたわ。上手じゃない?」

 演奏が終わり、エンリは歌詞の懐かしさと、それを知る者に出会えた驚きで、笑顔になっていた。

「幼い頃、母に聞かされていましたけど、確か続きがあったと思うのですけど……」

「そうね、でも、その続きは子守歌じゃなくて、鎮魂歌レクイエムなのよ。だからあまり子供には聞かせる家は少なかったと思うわ」

「でも、どうしてこんなところで演奏を?」

「まあ、合図みたいなものかしら。近道するために、ね」

 丘の奥へと響き渡ったエンリの演奏は、ほどなくして周りの風にかき消されてから数分、どこからともなく大きな羽音が聞こえてきた。

「来たわね」

 エンリが視線を彼方へ向ける。ログレス達はその視線の先を追うと、三つほどの小さな影が、丘の先にある谷の間から抜けてこちらに近づいてくるのが見えた。

「鳥……? にしては大きいような?」

 影はみるみる大きくなり、全体がはっきり見えるようになると、それはとても大きな獣に人が乗っているのが分かった。

「あ、あの獣は爺様の話にもあった、深古ふかしえの獣の一つ『ハーノゥム』ではないのか!」

「ハーノゥムは大きい深古の獣ですけど、体のほとんどが皮と骨しかなく、人が乗れるほどの力はなかったはずですけど……」

「あれは深古ふかしえの獣ではあるけど、有翼種が品種改良して育成している獣で『ポラポア』って言うのよ。錬金術の産物である魔霊素の生体操作が施されてるから、大きさや筋力が結構融通が利くの。まあ、乗り手にも左右されるから、優秀な育て家じゃないとまともに調教できないけどね」

 深古ふかしえの獣ハーノゥムは、片羽の大きさが腕を広げた人間十人分の大きさを持つ膜翼獣で、基本空を飛ぶときは、高いところから滑空することで飛ぶ。体重は人間の子供より軽いため、羽をたたんでいてもちょっとした風でバランスを崩してしまう。細かい羽毛が生えてはいるが、あまり熱が保てない構造のようで、昔はハーバン大陸に多く生息していたらしい。主食はなんと海藻であったそうだ。

 有翼種はそんなハーノゥムに色々な錬金術による改良が行われるようになり、人を乗せて空を飛ぶことができるように調教した。

「時々、それは本当に錬金術の賜物なのか、という物があるが、あの獣も本当に錬金術が絡んでおるのか?」

「心配なら、本人たちに聞いてみる?」

 と、すっかり自分たちの手前までやってきた大きな翼獣たちの、上に乗っている人影が、エンリに話しかけてきた。

「失礼、エンリ様とお見受けする」

 声は少し低いが、発音ははっきりとしている。簡素ではあるが防護服のようないで立ちのその乗り手からは、何か緊迫した状況がその態度から伝わってくる。

「ええ、実はケルメードに向かおうと思っていたんだけど…… もしかして、お邪魔だったかしら?」

「いいえ、むしろすぐにでも来ていただきたい。葬廻守が危篤なのだ」

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