単位系、物理次元

 単位系を考えるとき、ある程度の普遍性と、単位系に基づく測定器の製造・運用の容易さとを天秤にかけなければならない。普遍性に関してはさほど重視されない。というのも、大域的に成り立つ普遍性を見出すのはそもそも難しいからだ。そういうわけで、普遍性を(その意志がなくとも)犠牲にして、扱い易い単位系を作ることがまず求められる。


 そのような単位系は、天体の運行や身体尺や、あるいは具体的な基準となる物体に基づくだろう。気候、特に気温や気圧、湿度などが安定していれば、音速のようなものもそういった単位の基準となり得る。


 そうして成立した単位系は、しかし基準の不確かさが、あるいは特定条件下での測定の困難さが元となり、基準や定義を改める必要性が出てくる。特に、特定地域・人物に結び付いた単位は、その他の地域や部族との交易に不便をもたらす。そこで、お互いの単位系を踏襲しつつ、新しい単位の定義を作ることになるだろう。あるいは単純に、一方が他方を滅ぼし、統一された単位系を用いるかもしれないが。


 単位系の不便さはまた特権性、あるいは政治性をもたらす。不便な単位系はそれをよく定義できる一部の部族ないし階級の力を強める。

 そういうわけで、単位系の不便さは、ただ不便であることによっては解消されず、階級の転倒によってか、はたまた単位系改正による直接的利益が特権性による利益を上回るかすることで初めて達成されると考えられる。


 単位系の設定はまた背景にある物理次元の認識に左右される。

 例えば非相対論的世界観の下では、空間的長さと時間的長さは独立している。このような描像において、空間と時間の尺度を別個に用意することは極めて自然なことだろう(これは勿論、人間史観にかなり寄っている。極めて合理的ないし何らか霊感を働かせた種族にとって、空間と時間を独立に扱わない方が合理的と判断できる可能性は高い)。

 また例えば電磁場について、電場と磁場を別個に考え、また異なる次元を与えることができる。しかし電場と磁場は本来独立なものではなく、次元を揃えないのは単に、趣味や応用上の手間の問題と言える。


 同じことは気体定数やボルツマン定数にも言える。温度は熱力学的極限で現れる次元だが、ボルツマン定数を通じてエネルギーと同じ次元に持ち込むことができる。そうしたとき、温度の示強性とエネルギーの示量性が衝突することになるが、温度の双対であるエントロピーを基本的な量とすれば、これは示量性を持つので、示強変数の問題は表面上回避できる。ボルツマン定数を無次元化すると(温度とエネルギーを同一次元とすると)、エントロピーもまた無次元量となる。情報量としてのエントロピーは物理次元を持たないので、この結果は一見好ましいように見える。

 ただし、たとえばフォン・ノイマンエントロピーが熱力学的平衡状態を前提としないのに対し、熱力学エントロピーは平衡状態を前提とし、両者は必ずしも一致しない。そのため、情報エントロピーを理由に熱力学エントロピーを無次元化することは根拠がない。


 物理次元の設定、量体系の定義は、根拠となる物理現象の選択肢は限られるものの、それに目を瞑れば基本的な次元の選び方には自由度があり、どの次元の量を組立単位で表現するかは一意ではない。まずこの意味で異文明の量体系・単位系には差が生じ得る。

 またそもそも、ある現象の背後に線形性を見出さない限り、我々が知る量体系自体がそもそも発想されないのではないだろうか(線形性の代わりとなる雛形が何になるのかは想像がつかない)。

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