第17話

 チャイムの音に光廣が顔を上げた気配がした。つられて伊吹も天井を見上げてしまう。無意識の反応だ。つい音の出所を捜そうとしてしまうのだが、実際の音は黒板上のスピーカーから流れている。


「笠原、この次ぎどうする? おまえ、掃除当番だっけ? 教室に一度戻るか?」


 午後の二時間の授業は選択教科だった。伊吹も光廣も共に美術を選択していたので、このまま教室に戻ることなく放課後の部活になだれ込むこともできた。


 伊吹は筆を机の上に置いた。


「鞄、教室へ置いてきたままなんだ」


「そういやあ俺もだ」


 がたりと光廣が立ち上がる。


「取りに戻るか?」


「ついでに自販機で飲み物買ってかないか?」


 並んで美術室を出て歩き出す。


 廊下は帰り支度に取りかかった生徒たちで喧噪に溢れていた。大きな声でおしゃべりをしている女子や、猛スピードで廊下を走り抜けながら笑い会っている男子の姿は、高校生といっても幼さを忘れていない。教室までの道のりはそう遠くはない。ひとつ渡り廊下を越えた同じ階にあるのだ。


 教室で鞄を回収した後、一度外にある自販機へ行くために昇降口に向かう途中で「笠原」という声に呼び止められた。振り向くと、白衣姿に右手にゴミ箱を持った園守がこちらへと歩いてくる。


 園守はゆっくりとした足取りで伊吹の前まで来ると、こちらへゴミ箱を突き出した。


「すまんが、ゴミを焼却炉へ捨ててきてくれないか」


「は?」


「掃除当番の奴がゴミ捨てを忘れていってしまったようでね。私は今、ちょっと手の放せない実験の最中なんだ。頼むよ。捨て終わったら、ゴミ箱は、ほら、そこの下駄箱の横にでも置いてくれていて構わないから」


 強引に伊吹の手に押しつけると、反論が来るのを避けるように足早に背を向けて廊下の奥へと引き返していってしまった。伊吹と光廣はそれをぽかんと見送る。


「なんなんだ?」


「さあ?」


 伊吹は光廣に向かって肩を竦め、ゴミの中を覗き込んだ。大半が書き損じの紙とプリント用紙のようだった。奥の方には濡れてちゃぷちゃぷと音を鳴らすビニール袋も見えたが、これをすべて焼却炉に放り込めということなのだろう。


 仕方なしに二人は焼却炉の方へと歩きだした。


 焼却炉は校舎裏の塀の側にあった。花壇とも畑とも見分けのつかない盛り土の隣に、煤のこびり付いた石と錆びた鉄板で積み木のように重なった四角い箱が焼却炉だ。箱からは真っ直ぐに筒が伸びて、白い煙を噴き上げていた。焼却炉の前には、老いた用務員の男が、生徒が運んでくるゴミを次々と燃えさかる炎の中へと放り込んでいた。列は、五人ほど並んでいる。伊吹と光廣もその後ろに並んだ。


 海の風が吹き込んでくる。潮の匂いの強い風だった。髪の毛を無遠慮に掻き上げて、通り過ぎていく。荒々しい海の上を吹き流れてくる風だから、気性も海に似ているのだろうかと伊吹は思った。塀の側に植わっている夏椿の白い花が、ときおり花弁を千切れそうに揺れている。


 あの花を璃夕の家の庭でも見たなと、ぼんやりと思っていると、順番が回ってきた。用務員にゴミ箱を手渡し、彼がそれを口を開けて赤い炎をたぎらせている焼却炉に放り込むのを待つ。ざらざらとゴミが流し込まれ、彼は焼却炉に背を向けて、ゴミ箱を伊吹に手渡そうとした。


 その瞬間だった。耳を劈くような、大きな音が響いた。


 雷が落ちる音に似ていた。伊吹のすぐ目の前で焼却炉が爆発したのだ。暗く開いていた放り口から赤黒い炎が吹き出し、それは黒い煙と共に瞬く間に天へを駆け上っていった。焼却炉の鉄板はまるでフライパンで炒めたポップコーンのように四方に弾け飛ぶ。爆風に煽られたのか、用務員が大地の上へ投げ出されるのが見えた。その頭上を炎が逆巻くように通り過ぎてゆく。炎は、伊吹の目前まで差し迫っていた。熱風が、ちりちりと頬の皮膚を焦がすように撫でた。


「伊吹!」


 隣にいた光廣が悲鳴を上げた。腕を掴まれた。だが、逃げ出すよりも、炎が伊吹の体を舐める方が早い。どうすることも出来なかった。あまりに瞬時のできごとで、呑まれたように立ちつくすことしか、許されなかった。


(焼かれる!)


 せめて目と顔だけは庇おうと、腕を振り上げようとして、伊吹は信じられないものをさらに見た。


 花壇の脇に据え付けてあった水場から、勢いよく水が噴出したのだ。それはまるで間欠泉のごとく。的を射る矢のような勢いで、伊吹目掛けて降り注いだ。勢いの強さがすさまじく、炎さえ押しやられ掻き消されてしまった。


 水流に視界が閉ざされる。水圧によろけ、口や鼻の中に容赦なく水が入り込み、息が出来ない。ごほりと咳き込みながら、伊吹は崩れるようにその場へへたり込んだ。水は頭の上から降り注ぎ続けた。


 喉奥に入り込んだ水が気管を塞ぎ、伊吹は何度も咳き込んだ。


 目尻に涙が滲む。苦しい。げほげほとえづくように咳をしていると、誰かが伊吹の腕を掴んで無理矢理立ち上がらせようとした。脇の肉を引っ張られる痛みに抗おうとしたが、苦しさが邪魔をして力が入らなかった。そのまま、連れてゆかれる。すぐにどこかに投げ出されたが、手を突いた感触が柔らかな草の上だと教えてくれた。「大丈夫か?」という声に、なんとか目を上げれば、見知らぬ男子生徒が伊吹の顔を覗き込んでいた。彼の瞳は恐怖と不安とに揺れていた。


 どうして自分を見つめている男がそんな顔をしているのかわからぬまま、伊吹は頷いた。男子生徒は立ち上がると「こっちも、怪我人。保健の先生呼んで!」と叫んで、どこかへ行ってしまった。


 伊吹は改めて、見回した。


 自分がいるのは、焼却炉から離れた木の根方だった。


 辺りはもうもうと黒と白い煙に包まれていたが、目を凝らした奥にはひしゃげた焼却炉が目に入った。壁面が黒く炭化して、内側ではまだ赤い炎を燻らせている。そのすぐ側で、用務員が倒れているのが見えた。数人の生徒が助け起こそうと手を伸ばしている。辺りには、ゴミや黒い煤や、金属片の破片や砕けた石が散らばっていた。悲鳴とざわめきと助けを呼ぶ声とが入り交じり、蹲って呻いている生徒の姿が見える。


 だが、それら全てが一様にみな濡れ鼠にぐっしょりと水を滴らせているのだった。


 剥き出しの土に水たまりが広がり、慌てふためく人々の頭上に降り注ぎ、煙を押しやり、炎を押しつぶそうとしている。水場から吹き出した水は、空に向かって吹き上げ辺り一面に滝を作り上げていたのだ。


 雨の様相で雫を落とし続ける水は、すべてのものを濡らし尽くした。


 慌しく何度も目の前を生徒や教師が行き来している。咳き込む少女を抱えるようにして現場から放そうとしている男子生徒や、口々に何かを喚きながら駆け回っている教師の姿が泳ぐ魚のようだった。


 それらを呆然と眺めていると、ふと伊吹は己の胸がじんわりと暖かいことに気付いた。


 頭から水を被って濡れているのに、胸だけが暖かい。火の粉が服の中に入り込んだのだろうか。襟元を引っ張って中を覗き込んで、驚いた。


 鎖に繋いでいる璃夕からもらった人魚の鱗が、淡く輝いていたのだ。薄光る姿は螢にも似ていた。あんぐりと目を開けてこれはいったいどうしたことかと思っている伊吹の肩を、誰かが叩いた。


 見ると、頬を赤くした光廣だった。彼の顔は心底疲れたように頼りなく、伊吹を見下ろしていた。


「大丈夫か?」


 掠れた声で言い、隣に腰を下ろす。伊吹は慌てて、襟を元に戻した。誰にも、鱗のことを見られてはいけないという気がしたのだ。


「ああ、なんとか大丈夫だと、思う」


 今のところ喉が少しいがらっぽく痛むのと、体のあちこちがぴりぴりするぐらいだった。喉が痛いのは水が気管の中に入って大量に咳き込んだせいだろうし、体が痛むのは熱風で焼かれて軽い火傷をしているせいだろう。


 そう言う光廣の頬の赤味も、炎に嬲られたせいに違いない。


「光廣は大丈夫なのか?」


「なんとかな。転んで足を少し挫いたぐらいだ。あとは、軽い火傷はしてると思う」


 その言葉に、伊吹もホッとした。光廣は赤らんだ目で焼却炉を見ていた。


「いったい何があったんだと思う?」


「焼却炉が突然爆発して火を噴いた」


 事故を端的にまとめた伊吹に、光廣はぽかんとする。と、すぐにくつくつと肩を振るわせ苦笑いのような笑みを落とした。


「それさ、要約しすぎじゃねぇか?」


「そうか?」


「そうだよ。なんで爆発したんだとかそこら辺の考察がまったくない」


「ああ、そういえば。でもなんで爆発したかなんて俺にわかるわけないだろ?」


 伊吹達がゴミを入れ終えた後、突然爆音が上がり炎が吹き上がったのだ。


「まあ、確かに。焼却炉が壊れかけてたって奴かもな」


 ぼんやりと焼却炉の方を見ながら、光廣は呟いた。


「でも、あの水がなきゃ、今頃俺もおまえも今頃真っ黒焦げで死んでただろうな……」


 光廣の声には、ほんの少し前自分が死の危機にさらされたという拭いようもない恐怖が、深々と滲んでた。伊吹は気怠い体で、彼を横目に見た。


 頬は赤いのに、よく見れば顔は青ざめている。


 反対に伊吹は、何故かまったく恐怖感はなかった。全てがまるで映像の中の出来事のようで、自分は椅子に座って大画面に映し出されるパニック映画でも観ているような軽い心地しか感じないのだ。


 夢心地に、ぼんやりと目の前で景色が行き来している気分しかない。その中で、胸元でいまだに温もりを発し続けるあの鱗の存在だけが、唯一の現実のように思えたのだった。


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