第16話

「その色で塗るのか?」


 水色の絵の具を手に取った伊吹に、横合いから光廣が問い掛けてきた。彼は今まさに伊吹が筆をのせようとしていた絵を見ていた。


 夜空に浮かぶ月を海面に写し、水の中で人魚が月光を抱いて瞳を閉じている。夜の闇に包まれた、どこか物悲しさと沈黙を含んだ絵だったが、伊吹は夜空を薄い水色で塗り直そうとしていたのだった。


 伊吹は頷いた。


「こうすると人魚が太陽を抱いてるように見えるだろ?」


「確かに」


 空の色を変えただけで、暗い夜が眩い昼に変わる。


「でもこれ、夜の絵じゃなかったのか?」


「やめたんだ。イメージが変わってさ。月を抱いてるよりも朝日を出ている方が似合ってる気がしてきたんだ」


「人魚が?」


「うん」


 少なくとも、伊吹の中の璃夕はそうだった。


 ささやかな月光の下で微笑む姿も、あの美しい容姿には映えるだろうが、伊吹の中の璃夕はもっとハッとするほどの激しさを持っていた。


 夜の闇のように弱々しくなく、かといって真昼の太陽のようにぎらついているのでもなく、朝焼けの空に白く浮ぶ朝日のように、はかなさを一欠片、淡さを一欠片、冷たさを一欠片、眩しさ一欠片、そうやって積み重ねていったものが璃夕だと思った。


「へぇ」


 光廣は伊吹の突然の心変わりを不思議そうに眺めていたが「いいんじゃねぇか。そっちの方が、雰囲気が明るいっつうか開かれてるって感じがしてさ」と言った。


「開かれてる?」


「ああ。ほら、夜の絵の時は、こう目を閉じて月を抱えてる雰囲気が頑なに殻に閉じこもってるって感じだったけど、月が朝日になったとたんもっと優しくて穏やかになった気がする。他人を受け入れてる広さがみえるっつうか……もしかして、笠原なんかあった?」


 伊吹は驚いて、光廣を見た。


 絵は画家の中にある無意識の心の風景だ。それは愛であったり哀であったり理想や孤独や憎悪や快楽や闇であり光である、言葉では決して語ることの出来ない画家本人でさえ把握しきれない曖昧な心の奥深くの光景なのだ。例え璃夕をイメージして描かれたのだとしても、やはりこの絵に込められたものや現されたものは、伊吹の心の一部なのだ。たまたまそれが璃夕の形を作っているだけに過ぎないのだった。


 伊吹は、まるで光廣に己の心の中を透かし見られたような気がした。そしてなによりも、彼に指摘されて始めて、自分の中の変化に気付いた。


 呆然と押し黙った後、伊吹は注意深く口を開いた。


「そうかもしれない」


 光廣は伊吹の口調に驚いたようだった。いつになく伊吹が素直に自分のことを話したせいかもしれない。それまでの伊吹は、どこかで友人達との間に一線を引いている部分があった。笑っていても話していても、他人行儀さが纏うのだ。転校生だと言うだけでは頑な過ぎる壁は、伊吹の中にある無意識の孤独感が作り上げたものだった。両親に顧みられなかった伊吹にとっては、心とは閉ざすものであり、他人と分かち合うものではなかった。


「そっか」


 呟いた光廣は、


「いいことじゃん。人間一人きりで生きていけるわけじゃないんだからさ、殻に閉じこもってるより外を見てた方が良いこともあるに決まってるもんな」


 にかっと笑った彼に、伊吹は笑い返し、改めて絵を見た。


 人魚の瞳を閉じた優しい微笑みに、璃夕の笑顔か重なる。


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