第15話

 堤防沿いの道を一人で歩く。海風は穏やかだ。ときおり涼しく伊吹の前髪を吹き上げた。遠くに黒々とした船影が見渡せた。部活をサボった日の空は、太陽がまだ高く空は青々としている。木嶋家の近くまで来ると、伊吹は門に回るよりも先に垣根越しに中を覗き込んだ。相変わらず緑は生き生きと押し茂って、陽の光に葉脈がきらきらと瞬いていた。木槿の花影の下にある縁側で、璃夕は寝そべって本を読んでいた。この人は見かけるたび、いつも本を読んでいる。


 頬に落ちた髪の毛が陽の光に透けて金茶色に見える。白く透き通る横顔を盗み見て、伊吹はなぜか感動を覚えた。璃夕が人魚なのだ。視線に気づいた璃夕が目線を上げた。


「そんなところで何をしている?」


 怪訝そうに眉をひそめられ、慌てる。


「あ、こ、こんにちは。あの、遊びに来ました」


 少し照れながらそう言うと、璃夕の目元が柔らかくなった。


「こんにちは。あっちから入っておいで。家を回って、こっちへね」


 言われるままに、伊吹は門を自分で開けて家を回り込み、草木を掻き分けて庭へと出た。半ば雑草が芝生のようにあちこちに群生を作った庭は、海の側にあっても燃ゆるような緑の匂いがした。


 ここはまるで森だ。


 おずおずとやってきた伊吹を、縁側に座ったまま璃夕は眩しげに見上げた。


「えっと、昨日はどうも」


「風邪は? おまえ海に入るたびに熱を出してただろう? 大丈夫なのか?」


「あ、はい」


 伊吹は頷きながら、ちらと璃夕の足を見た。昨日は確かに魚の尾だった。紫紺の鱗がびっしりと埋め尽くしていた。しかし、今は綺麗な二本の足が伸びて、足元に置かれた金盥に爪先を水につけてぴちゃぴちゃと水面を波立たせていた。


 ふと、昔見たアメリカ映画を思い出した。人魚と青年の恋物語だ。コメディータッチになったラブストーリーは悲恋ばかりが多い人魚物語の中でも、笑いさざめく美しい恋の成就で終わっていた。


 その映画に出てきた人魚は、珊瑚のように美しい赤い尾をしていたが、陸に上がるときは二つの足を持っていた。しかし、その足は紛い物だ。水に濡れるととたん、魚の尾に戻ってしまう。


「何を考えてる?」


「あ! えっと……」


「僕の足がそんなに不思議か?」


 見ると、璃夕がにやりと、まるでチェシャ猫のように笑っていた。


「人魚が人間の足を持っているのが不思議か? 僕は海の魔力が使えるから、人間の足を手に入れるぐらい造作もないことだよ。おまえ、まさか僕が悪い魔女と声を引き替えで足を得たとでも思ってたのか?」


「璃夕さんしゃべれるじゃないですか。もっと別のものに引き替えにしたのかなって。それとも、映画の中にあったんですけど水に濡れると魚の足に戻るってやつとか」


 昨日も、海の中では魚の尾に変わっていたし。


「その映画知ってるよ。春じいが見せてくれた。濡れたぐらいで簡単に変身が解けるほど、僕の魔法は弱くない」


 言って、足をばたばたと振ってみせる。白い浴衣の裾がめくれて、細く引き締まった脹ら脛が露わになった。


「とはいえど、人間のふりして陸に上がったところで、すぐに普通に生活できるわけじゃないんだよな。例えば着る物からして困る」


 言われて幼い頃の記憶を掘り返してみれば、確かに人魚の姿の璃夕は体を宝石で飾ってはいたが、衣服と呼べるものは何も身に付けてはいなかった。


「陸に上がったはいいけど、どうすればいいのかわからなくて途方にくれていたときに春じいに会った」


「じゃあ、郁春さんは璃夕さんが人魚だって事を知ってるんですか?」


 伊吹は自分以外にも人魚の存在を知っている人がいることに驚いた。しかし考えてみれば、璃夕が今こうして人間の振りをして生活していること自体、誰かの協力がなければできないことだ。


「知ってるよ。まれに人間の中にも、僕らのことを知っても黙って見過ごしてくれたり、平然と受け入れてくれる奴もいる。春じいの孫は小さい頃に海で溺れて死んだんだってさ。僕はその孫の身代わりってわけ。とても良くしてくれる」


 璃夕は遠くを見るようにして笑った。木槿の茂みの下で真っ白な百合が頭をもたげるようにして揺れた。


「璃夕さんは、俺に会うために人間になったんですか?」


 ひっそりとした仕草で、璃夕の瞳が動いた。海を見て、伊吹を見て再び海を見る。草木の合間から覗く海の青は、いっそう濃く豊に感じる。それを見つめる瞳は、夕闇の一瞬が見せる、空と海が混じり合ったときの色だ。長い時間海の中で過ごすと、こんな瞳になるのだろうか。


 その瞳が霞むように震え、笑んだ。


 刹那の間、力強い璃夕の横顔に、幼い日に見た人魚の淡く優しげな横顔が被さった。顔が似ているだけで、雰囲気はまったく違うように感じられた璃夕と人魚の空気が、さらさらと重なる。


「……そうだな。一人きりで退屈だったからかな。それと……」


 「それと」と呟いたまま、言葉尻は潮騒に溶け消えた。伊吹は次の言葉を待ったが、彼は唇を引き結ぶと、急に明るい大きな声を出した。


「もちろん、伊吹も僕のことは黙っててくれるだろ?」


 急に絵を裏表にひっ繰り替えしたときのように表情の変わった璃夕に、伊吹は戸惑った。それでも彼の気迫に気圧されて、こくこくと頷く。


「も、もちろんですよ!」


「もし人間に僕のことがばれたら、サーカスで見せ物になるのはまだしも研究所へ行って刺身みたく捌かれるのだけはごめんだからな。人間は、同種族以外の存在には痛みも心もないと思ってる奴ばかりだから、何をされるか考えただけで身の毛がよだつ」


 しかし、言う声は軽やかで歌うように飛び跳ねている。唇も笑っている。だが、璃夕のいうことはもっともだと思った。人間は慈愛深い一面を持ちながらも、自分の理解の範疇を越えた物に対しては冷酷だ。


「絶対に言いません」


 右掌を顔の横に上げて宣誓する。固く誓った伊吹に、璃夕は満足そうに瞳を細めてみせる。おまけとばかりに頭を撫でられた。こんなこと、親にもしてもらったことがない。


「よし、伊吹はいい子だね」


「子ども扱いしないでくださいよ」


 照れ隠しに文句を言うと、璃夕はきょとんと首を傾げた。


「高校生はまだ子どもだろう? 日本の法律で成人は18歳を過ぎてからじゃないのか?」


「そうですけど・・・・・・」


「子どものときは子どものまま、子どもらしくあればいいのさ。そんなに早く大人になる必要なんてない。それより、今日は学校はどうだった?」


「学校ですか?」


 それは、今までにも何度か聞かれたことのある質問だった。璃夕は何故か、よく伊吹に色々な質問をしてくる。学校のことや勉強のこと、友達や祖父母、別れた両親のことなど。伊吹は馬鹿正直にひとつひとつ答えていった。彼の中にどんな合格ラインがもうけられているのかはわからないが、伊吹が期待にそう返答をすればからからと笑い、そうでなければ難しそうに考え込んだ。


 彼の顔はくるくると回る気紛れな風見鶏のように忙しなく動いた。


 伊吹は、その顔を見ているだけで自分の中に安らかさが広がってゆくのがわかった。


 ずっとずうっと探し求めていた穏やかさや、両親と共にいるときには決して感じることのなかった安堵を、得た気がした。


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