第14話

 六月の最後の週は、伊吹が週番を努める巡りになっていた。


 水曜日の午後最後の授業は化学だった。生徒はチャイムが鳴ると共に教室へ戻ってしまったが、伊吹は週番の仕事のために化学室へ残って、今日使った実験器具の片付けを手伝わされていた。


 化学の教師は園その守もり清きよ晶あきという名の三十代の男だった。地元出身者の教師が多い中で、園守は県外の出身らしく訛りのいっさい感じさせない綺麗な発音をする。しかし、生来の話し方があまり唇を動かさずもごもごとしゃべるせいで、授業はたいそう聞き取りにくかった。それでも彼が生徒の間でそれなりの人気があるのは、他の教師達と違って口うるさく生徒たちに干渉しないせいだろう。もっとも彼の場合生徒など眼中にないというのが本当のような気がする。


 今も伊吹に適当な指示を与えた後は、教卓の前で黙々と自分の仕事に没頭するだけで、こちらに話しかけるどころか注意さえ向けようとしない。人気のない教室で二人きりになりながらもいっさい気詰まりを感じさせないぐらい、園守は伊吹を無視しきっていた。その方が伊吹としても有り難い。人見知りをする性格の伊吹には、教師はなおさら敬遠の存在なのだ。


 顕微鏡のレンズを外し、ひとつひとつ箱の中に戻しながら、伊吹は午後のことを考えた。今日は部活には出ずに、真っ直ぐに木嶋の家へ行くことに決めている。


 何気なく窓に視線を向ければ、青々とした水を揺らす海が一面に見える。うねるように続く海岸線が海を囲むように彼方へと続いていた。この学校は、どこにいても海とそれを囲む町が見えた。


 この海であの美しい人魚は生きてきたのだ。そう思うと、苦手に思っていたものも愛おしくさえ感じる。


 果てへと消える海岸線の途中には、棘のように突き出した崖岬がある。緑の大地の上に、大きな建物が立っていた。遠目でもわかるがっしりとした洋館だった。そのわずか上を、白いカモメが何度も飛び遊んでいる。


 寂れた町並は灰色にくすんでいたが、そこに息づく人々は明るく健やかだ。


 そして、そんな人々に混じってあの美しい人は生きている。


 璃夕は、やはりあの時海へ還るつもりだったらしい。そして、二度と伊吹と会う気がなかったようだ。何故かと尋ねると彼曰く「必要ないから」という説明ともつかぬ説明が帰ってきた。「何が? 誰が?」という伊吹の問いにははぐらかすような笑みだけを返された。しかし、伊吹の必死の説得というよりは駄々が功を奏したようで、璃夕は陸おかに留まることを選んでくれた。 


 家まで送り届けた別れ際、璃夕は言ってくれた。「いつでも会いにおいで、僕も会いに来るのを待っているから」と。その言葉が嬉しくて仕方がない。怖い人だ意地悪な人だと苦手に思っていたのが嘘みたいに、いまの璃夕は優しい。それこそ初めて出会ったあの海の中での記憶の中の人魚と同じように。


 がたんと大きな音に、はっと我に返った。机の上で顕微鏡が横倒しになっている。考え事に気を取られて、手を滑らせ落としてしまったのだ。


「大丈夫かい?」


 園守がやってきた。顕微鏡を手に取り、壊れていないか確かめているのを申し訳ない気持ちで見る。顕微鏡は繊細な道具なので、乱暴に扱っては行けないと授業の最初に教わったばかりだったのだ。


「すみません」


「壊れてはいないようだね。さすがに学校の備品に傷が付いては大変だ」


 抑揚のない声で言うのを、伊吹は顔を俯かせて聞いた。昔から、伊吹は考えごとに熱中してしまうと、ほかのことが疎かになるところがあった。今日もすでに三回も失敗をして、光廣を心配させてしまっている。母はそんな伊吹の癖を知って「まるで幼児のようだわ」とよく叱った。


 兎にも角にも週番の仕事はまだ残っているのだから、今度はへまをしないように気を付けようと気持ちを引き締めて、机のアチコチに散らばる器具に手を伸ばした拍子に、ペンダントが襟元から転がり出た。暑いからとシャツのボタンをふたつも開けていたせいだった。ぶらりと顎の下で揺れる鎖に気付いて、伊吹は服の下に戻そうと手を伸ばしかけ、その横を掠めるように別の手が鱗を引っ張った。強い力だった。首の後ろが擦れる痛みに顔を顰める。


「痛っ」


 園守が伊吹の鱗を掴んで、しげしげと眺めていた。目はドングリのように大きく見開かれ、まるで幽霊にでも出くわしたという顔をしている。伊吹も驚いて園守を見たが、あんまりに彼が強くペンダントを引っ張るので息が詰まりそうになった。


「なんて美しい。こんな美しいものを私は始めてみた……」


 粘着質にも似た粘りけのある声は、恍惚とした響を伴い、伊吹の背中をぞくりと撫でた。


「先生!」


 伊吹は乱暴に彼の手から鱗をもぎ取り返した。飛びすさるように彼から離れる。


「なにするんですか?」


 園守ははっとした顔で伊吹の顔を見た。狼狽えたように視線を彷徨わせたが、取り繕えない視線が何度も伊吹の手の中の鱗を行き来する。先ほどまでの何事にも無関心を貫いていたのが嘘のようだった。


「き、きみは、その、う、鱗をどこで手にいれたんだい?」


 つかえつっかえしゃべる声から、彼がよほど興奮していることがわかる。浅黒い頬が、うっすらと赤く染まっていた。伊吹は眉根を寄せて、園守を見た。他人に軽はずみに真実を言うべきでないことは、わかっていた。伊吹は慎重に唇を開いた。


「海で、拾ったんです」


「それは、ど、ど、どこの海なんだ?」


 咳き込むように問い返してくる。


「水辻の海なのか?」


「そうです。小さな頃に海で溺れて、浜に打ち上げられたときには俺の手の中にあったそうです。どこで手に入れたのかは記憶にありません。気が付いたらこれを持ってた」


 夢の中の記憶を話す。璃夕からもらったものだとは言えない。


 園守はしげしげと伊吹の手の中を覗き込んでいる。そのあまりに物欲しそうに歪んだ口元に、伊吹は強く鎖を握りしめた。気づいた園守は、上目使い目を上げた。伊吹は驚いた。仮にも教師が一生徒に媚びを売るような笑みを浮かべているのだ。


「それを私に譲ってくれないだろうか?」


「ダメです!」


 伊吹は反射的に叫んだ。とんでもない。これは大事なお守りなのだ。しかも、この鱗は璃夕に繋がる。


「なら言い値を出そう」


 園守は食い下がってくる。


「いくらなら売ってくれる? どうせきみには価値のわからない代物だ。私はずっとそれを捜していたのだよ」


 物静かな男がしつこく迫ってくるのは、さすがにゾッとしない。言いようのない不気味さを感じて、とうとう伊吹は鱗を襟元に押し込んで隠してしまった。それでも園守の視線が服の上から透かし見ようとでもするように注がれている気がして、伊吹は服の上から手で握りしめた。


「悪いけど譲れません。これは大事なものですから」


 ぴしゃりと言い置いて、逃げ出すように化学室から飛び出したのだった。実験器具の片付けがまだ途中だったことも、すっかり忘れてしまっていた。

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