第3話

 じょじょに夜が近づき、海の色は鮮やかな青から暗い色へと濃さを増していった。波の音は高くなり、飛沫が強く頬を打つ。伊吹は、ぬるぬると滑る岩肌にぴったりと頬を押しつけて、震えていた。あの時ほど海を怖いと思ったことはない。来たときには通れたはずの道が、気が付けば海の中に沈んでしまっていたのだ。道があったはずの場所は、海の底に沈み波が泳いでいる。対岸は決して遠くはなかったが、泳げない伊吹にとってみれば、アメリカ大陸を眺めるように遠い。そういえば出かけに祖父が、海に張り出した岩場には近づくなと言っていたような気がする。今さらそんなことを思い出しても後の祭りだった。


 心細さと不安と恐怖でとうとう小さな伊吹は声を上げて泣きだした。何度も助けを呼んだが、声は波の音に掻き消されて誰にも届かなかった。


 ついに叫び声を上げるのにも疲れて啜り泣きにまで落ち込んでしまったとき、彼は現れたのだ。


「どうした?」


 そう問うてきた声は、掠れた音をしていて聞き取りにくかった。まるで老人のしゃがれ声のようだった。しかし、次いで「どうして泣いている?」と聞こえてきた声は、透き通るような透明な響きと優しい音色をしていた。伊吹がびっくりして声の方を見ると、海の中から上半身だけを乗り出すようにして岩場に人がしがみ付いているではないか。すぐに息急ききって「道がなくなって岸へ帰れない」と言おうとして、その言葉は尻窄みに消えてしまった。


 その人は今まで伊吹が見てきた誰よりも綺麗だったからだ。肩や胸、頬に張り付いた濡れた黒髪は銀の雫を落とす漆黒で、真珠の数珠が絡み付いていた。宝石よりも白い肌には水の玉が滑り落ちていた。だけど、一等綺麗だと思ったのは、瞳だった。まるで夕焼けの後のきらきらと瑠璃色に瞬く海の色と同じなのだ。


 宝石が人の身体の中に埋まっていると、思った。


 伊吹はその瞳の強さがちょっと怖くて、あんまりに綺麗でずっと見つめ続けていたい気持ちになった。


 「お姉ちゃん」


 と呼んだら、その綺麗な瞳がきらっと瞬いた。ぽかりと頭を叩かれてびっくりしていると、外見に似合わない口の悪さで「僕は男だ」と言った。なるほど、見れば剥き出しの胸に膨らみはなかった。


 だけど一番驚いたのは、海の中から突然人が現れて声をかけられたことでもなく、女の人だと思っていたのが男の人だったことでもなく、助けてあげるよと差し出された手を取っておっかなびっくり海の中に入って、彼の下半身が魚の尾で出来ていると知ったことだった。いくらあの時の伊吹が幼くても、人魚はおとぎ話の中だけの生き物だと言うことぐらい知っていた。だけど、自分の体を抱いて泳ぐ人は、確かに人魚だったのだ。


 鈍く光る美しい鱗に覆われた尾には、髪と同じように真珠の数珠飾りが結ばれていた。そして、人魚は自分の尾から一枚の鱗を剥がすと、伊吹にくれたのである。「海の女神の加護がある」と言った言葉の意味はわからなかったが、たいそう美しいそれを胸の押し抱いて、伊吹は驚きと戸惑いとに言葉をなくした。


 人魚は伊吹を抱えて海の中をぐいぐいと沖へ向かって泳いだ。陽は水平線の向こう側へと沈み、海の水は暗い夜の色に染まってしまった。今にも海中から奇怪な姿をした魚や、鋭い牙を持った鮫が出て気やしないかと伊吹は怯えて、人魚の体に回した腕に強く強く力を込めた。とたん、人魚はくすくすとおかしそうに笑った。伊吹の臆病さを嗤ったのかもしれない。彼の体は、海の水と同じぐらいに冷たかった。だけど、伊吹はその美しい顔をした人魚がとても心強く思えた。ときどき自分を窺うように見る、瑠璃色の瞳がどこまでも綺麗で……。


 ――――記憶は、何故かそこで途絶えていた。


 それ故に、人魚は夢だと、伊吹が思っている根拠なのである。


 海の中の記憶が途絶え、次ぎに伊吹が覚えているのは三日後の朝から始まっている。祖父母の家の布団の中で眠っている自分。心配した祖母が顔を覗き込み、孫が目を覚ましたと知ると涙を零しながら抱きついてきた。祖母の藤色の着物に焚きしめられた香の匂いを、今でも覚えている。


 いつまでも戻ってこない孫を心配した祖父が海へ探しに行き、浜辺に倒れている伊吹を見付けたのだ。全身ずぶ濡れだった伊吹を、海で溺れたが自力で浜まで泳ぎ、そこで力つきて気を失ってしまったのだろうと大人達は判断した。その後、伊吹は熱を出し寝込んでしまったのだ。


 目が覚めて、どんなに周りにいる人に海で人魚に出逢ったのだと言っても、誰も信じてはくれなかった。夢を見たんだろうねと、お医者のおじさんは伊吹の頭を撫でてくれた。素敵な夢ねと、近所に住んでいる祖母の友人はお菓子をくれた。そのうち、伊吹もあれは熱を出してうなされている間に見た夢に違いないと思うようになった。人魚なんて、おとぎの世界の生き物だ。実際に存在するわけがない。


 ――――夢の中の幻。


 過去の記憶を反芻し終えると、伊吹は溜息を落と、自分の首に絡む銀のチェーンを外して顔の前に掲げた。スタンドの明かりに照らされたそれは、五センチぐらいの大きさをした菱形の魚の鱗で、青味の強い濃い紫色をしている。


 布団の中で目を覚ました伊吹の枕元に、この鱗が置いてあったのだ。それは白々とした蛍光灯の灯りの中でも、美しく煌めいていた。祖父は、倒れていた伊吹が手の中に握りしめていのだと教えてくれた。あんまりに綺麗だから、捨てずに取って置いてくれたらしい。それは、夢の中で人魚が伊吹にくれたものだった。


 その煌めきと瞬きは見る角度や光の当たり方で濃淡を変える不思議な鱗だった。


 祖父の話では、こんな大きな鱗と色を持った魚はこの海にはいないという。ずっと沖の方から波に乗って流れてきたのかもしれない。海の漂流物は、稀人まれびとと呼ばれ、神さまの贈り物として昔は神社にお供えしたのだということも教えてくれた。こんな美しい鱗を持った魚は、きっと海の神さまのお一人に違いないだろうから、お守りにして大事に持っていれば伊吹を守ってくれるだろう祖父はその鱗に小さな穴を開けてペンダントにしてくれた。きっと伊吹を海から助けてくれたのも、その鱗のおかげだろうとも祖父は言ったのだ。


 人魚は夢の中の出来事のはずなのに、夢の中で人魚にもらったものと同じ鱗が、伊吹の手の中にあるのはどうしてなのだろう。


 そんな疑問も、この海の町を離れ都会へ戻ってからは忘れてしまった。日々の忙しさや、両親の絶え間ない諍いの中では夢なんて、しゃぼん玉よりも儚く頼りない。


 だけど。それでも、ふとした瞬間胸元で揺れるこの不思議な鱗の存在を思い出すのと同時に、あの綺麗な瑠璃の瞳も思い出すのだった。


 伊吹は再び、溜息を付く。


「すっごく似てたな……」


 ぐでっと机に突っ伏して、伊吹は唸り声を上げた。


 そっと瞳を閉じると、瞼の上に今でもくっきりと焼き付いた人魚の面影が浮かぶ。美しい瞳と鮮やかな笑い顔とアメジストのような魚の尾。それとダブるように、今日出逢った少年の顔が重なる。


(あ、でも雰囲気はちょっと違うかも……)


 記憶の中の人魚は優しい微笑みを浮かべているのに対して、あの少年は冷たい印象が強い。同じ瞳でも、人魚の瞳は暖かく思えたが、伊吹を睨んだ少年の瞳は鋭さを含んでいて、ひやりと背中が震えた。


 それでも、彼らはまったく同じ顔をしているのだった。










 ううんと、伸びをして何気なく視線を向けると時計の短針は十一時に近い。机の上に広げられたノートはいくらも埋まってはいなかった。宿題に集中しようとすると、ふっとあの顔が浮かんできて集中力を切断してしまうのだ。


 とうとう伊吹はシャーペンを放りだした。


 喉が渇いたなぁと独り言を呟く。伊吹は台所へ行こうと部屋を出て、階下がしんと静まりかえり真っ暗なのに気付いた。朝の早い祖父母はとっくに寝てしまったのだろう。どうせなら気分転換に夜道を歩いてこようかと思い立った。普段の祖父母は、孫がとうに高校生になったというのにいまだに過保護が抜けきれず、夜の外出を咎めるのだ。たぶん、あの海での事故が後を引いているのだろう。二人が寝ているなら、チャンスだ。


 そっと足音を忍ばせ、外に出る。


 ぽつんぽつんと伸びた街灯が、アスファルトの道を暗く照らしていた。続く先は闇を纏っていて見通せず、町の中にいるのに木々深い森の中を思わせた。昼間はうだるように暑かった大気は、海からの風に冷やされ涼しくなっている。かつては漁村だったせいか、夜の早い家が多い。辺りの家はどれも闇に沈んでいた。風に乗って潮騒が聞こえてくる。小さな町はどこにいても、海の音と匂いがする。


 さそわれるように、堤防へと来ていた。海は空よりも暗かった。波の中には瞬く星がないせいだ。堤防に波がぶつかる音がちゃぷちゃぷと響き、辺りには伊吹以外誰もいなかった。


 伊吹は堤防に腰掛け、海を見下ろした。


 夜の海は淋しい匂いがする。潮騒も啜り泣きのように聞こえる。


 海を見ていると哀しい物語を思い出す。


 アンデルセンの『人魚姫』も哀しい話しだったが、小川未明の『赤いろうそくと人魚』も哀しい話しだった。伊吹が夢の中で見た人魚は、小川未明の物語の中に出てくる人魚に少し似ている。暗く冷たい水の中で、友達もなく一人きりで陸を見つめている淋しい人魚。暗い海の中で奇形の魚に囲まれ、一人きりで過ごすのはどんな気持ちがするのだろう。


 だけど、哀しげな人魚の顔はすぐにあの少年の横顔にすり替わる。きつい目をした眼差しは、淋しさとは無縁の強く鋭い顔をして、伊吹を睨んでいる。


 伊吹は溜息を付いた。ダメだ。頭の中があの少年に乱される。どんな思考もすべて、あの少年と人魚の元へ集結してしまう。これじゃあ、恋でもしているみたいだ。そこまで考えてますます馬鹿馬鹿しく思え、伊吹は無意識に胸のペンダントに触れようとした。これに触れていると、すうっと気持ちが落ち着くのだ。しかし、衣服越しにまさぐった胸元には何もなかった。


「あ! 机の上に忘れた……」


 呆然と、伊吹は呟いた。そういえば考え事をしながらペンダントを外して、鱗を光に翳して眺めたのを覚えている。それを首にかけ忘れたのだ。今までほとんど肌身から放さなかったものだったから、急に心許ない気分になって胸元を撫でた。あれは、自分にとってはお守り代わりなのだ。何か困ったことや哀しいこと苦しいことがあるたびに、それを握りしめてやり過ごしてきた。夢の中の人魚の言葉を信じたわけではない。だけど掌に握り込んでいると安心できたのだ。


「帰るか」


 気分が削がれ、まだジュースも買っていないのに家に帰るために立ち上がった。しかし、濡れた足場につるりと靴底が滑った。


「うわっ!」


 落ちると思ったが、思ったときにはすでに体が中に浮いていた。派手な音と水飛沫を上げて、伊吹は夜の海の中へ頭から飛び込んでしまった。水は、夏とは思えないほど冷たく、針のように肌を突き刺した。ぶくぶくと視界を白い泡が過ぎる。すぐに頭を出そうと思ったが、突然の事だったので泳ぎ方をすっかり忘れてしまっている。それ以前に、伊吹はほとんど泳げない。なんとか足場を捜そうとするも、海は深く、手足は水をかくばかりだ。ぶくぶくと口から酸素が逃げてゆく。暗い水の中ではどれが上なのか下なのかわからない。闇に両腕で抱き込まれたような恐怖感が生まれた。やみくもに手足を振り回したが、掴めるものなどあるはずもなく、自分が沈んでゆくのがわかった。


 怖い。怖いと思った。叫ぼうとして開いた口に、塩辛い水が流れ込んだ。息が出来ない。鼻の中にも水は容赦なく流れ込んできた。きんとした痛みが頭の奥で響いた。死ぬのかもしれない。そう感じたとたん、恐怖はすうっと煙のように消えた。かわりにやってきたのは真っ暗な闇だった。


 意識を失う瞬間、暗い闇の向こうで鮮やかな紫の光を見た気がした。

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