第2話

 「笠原かさはら」と呼ばれ、伊吹いぶきは振り向いた。すぐ後ろにクラスメートの戸川光廣とがわみつひろが立っている。美術部員とは到底思えない短躯で筋肉質の大きな体をしている。柔道部か相撲部が似合いそうだが、これでも立派に伊吹と同じ美術部員だった。彼は重たそうな仕草で腰を折り、伊吹の目の前にあるキャンバスを覗き込んだ。


「それ、人魚か?」


 大きなキャンバスは一面が青く染まっている。波打つ水の輪も薄い青色だ。海面に月光が浮かび、まるで水の中に銀色の月が浮かんでいるようにみえる。その月を両手で包み込むようにして、人魚が泳いでいる。尾鰭の色は青みの強い紫紺で、長く伸びた漆黒の髪は、月光のせいでまだらな銀色に染まっている。眠るように伏せられた瞼のせいで、瞳の色は見えないが、もし色を尋ねられたら伊吹は「海よりもさらに深い濃紺」と答えるだろう。


 人魚に抱えられた月は、まるで大切に慈しまれている卵のように見えた。


「綺麗な絵だな。笠原って、人魚好きなの?」


 手近な椅子をがらがらと引き寄せ、伊吹の隣に腰掛けながら光廣が言った。ぎしりと、椅子の背が軋む。


「好きって言うか、まあ、なんとなく」


「へぇ」


 光廣はあいづち打って、窓の外へ視線を向けた。


 そこから見晴るかす青い海が見えた。


 県立水辻みずつじ高等学校は高台の天辺に校舎がある。そこから裾野を広げるようにして町並みと水平線へと消えてゆく海が見渡せた。高校の名前の由来にもなった水辻の町は、海を両手に抱いた小さな町だった。かつて町人の多くが漁業で生計を立てていたが、今では隣町にある製糸工場と自動車工場で働くか都会へと移り住む人の方が多い。寂れた商店街が海のすぐ側に見える。過疎化の波が進む中、確実に町は小さく小さくなりつつあった。海ばかりが肥大し、いつかこの町は波に飲まれてしまうのかもしれない。ときどき、そんなことを考えてしまう。


 伊吹はこの水辻の人間ではない。今年の春の終わりまでは、東京の方に住んでいた。しかし長年不仲だった両親が今春ついに離婚をしたために、母方の祖父母がいるこの町へと引っ越しを余儀なくされたのだ。この町には小さな頃、短い間だったが暮らしたことがある。あの時は少しも馴染めずつらい思い出ばかりの町だったが、まさか自分が将来この町で暮らすことになるとは思っていなかった。


 新しい環境に馴染むのには、精神的なしんどさがあった。だけれど、高校二年生という狭間にいたせいもあるのだろう、学校も友人達も気安く伊吹を受け入れてくれたのは助かった。光廣もその一人だった。


「人魚っていえば、この町にはいくつも人魚伝説があるんだぜ。知ってたか?」


「いや……」


 伊吹は曖昧に首を振った。光廣はちらりと伊吹を見ると、深く背もたれにもたれ、頭の後ろで両腕を組んだ。


「伝説っても、ジジババの昔話みたいなもんだけどな。ここの海は、波も荒いし潮の流れも速いだろ。浜の近くは浅瀬にはなってるが、ちょっと沖に進むと、急にずどんと深くなってるんだ。しかも、浅瀬は浅瀬でもあちこちに岩礁が隠れてるから、大きな船が港へ入れない。昔の船はエンジンもレーダー着いていないし、例えば素潜りなんかも細い紐を体に結びつけて潜ったりするだけで、海での仕事は命がけだったんだと。たくさんの人が海で死んだんだって話しだ」


「大変だったんだね」


 あいづちをひとつ打つと同時に、伊吹は青い絵の具をキャンバスへ乗せる。ざらついた表面を筆で優しくなぞった。


「今でもジジババは海で死んだ人間のことを、人魚に魅入られて海の底へ行ってしまったんだっていうし、嵐は人魚の怒りだとも言われてる。この海の底には、人魚の国があるんだと。本当かどうかはしらねぇけど、沖合のすごく深くなってるところに、崩れた遺跡みたいなのが沈んでるって言い伝えだしな」


「海底遺跡? 与那国島とかにあるみたいな?」


 伊吹は驚いて言った。


「ああ。でも海底遺跡ってのは普通、陸上にあった土地がなんらかの原因で海中に沈んだもんを指すだろ。例えば地震とか津波とか、地盤沈下とか地滑りとか。でもそこの海にあるのは、初めから海底に作られたものだって話しらしいぜ」


 伊吹は「は?」と口を開けて、ぽかんとした。


 そんなことがあるだろうか。古代人がわざわざ海に潜って、遺跡を建てたとしたらまず信じられない話しだ。酸素ボンベも潜水艦もないような時代に、どうやって海中に潜って建造物を建てたのだろう。


「ま、本当かどうかはわかんねぇけどな。何しろ学者が調べたってわけじゃないみたいだし。潮が速いのと深いのとで、側まで潜れねぇんだよ。昔から海女の間じゃあ、有名な話しってだけで。でも遺跡があるのは本当らしい。しかもこう、人間が作るような形の遺跡じゃなくて、だから不思議がられてる。これが、水辻町にある海の七不思議のひとつ」


「海の七不思議?」


「そ、海の七不思議」


 光廣が繰り返した。にしししと笑う。


「そんなものがあるのか?」


「あるんだよ。学校七不思議ならぬ水辻の海の七不思議」


 昔から海と密接に繋がりあった土地ならではということなのだろう。


「それで、その遺跡は人魚が作った町じゃないかって?」


「そ。そうゆう言い伝え。実際さ、海女が海の中で貝を獲ってると、向こうから人魚が泳いできて両手いっぱいの貝を差し出してくることがあるんだと。そうゆう貝はものすごく実が大きくてしまってて、必ず高値で売れるらしい。逆に、息がもうちょっとで切れそうってときに、ひょいと人魚が現れて深い所に隠れている大きな貝を指差して教えてくれたりするんだ。海女は欲がでてもうちょっとだけって、苦しいのを我慢して潜る。すると人魚はさらに深い場所にある貝を教えてくれる。潜るたびに貝は大きくなるんだ」


「んで、結局溺れて死んでしまうわけか?」


「そ。ま、この場合欲をかきすぎると痛い目見るぞって教訓がつくわけだけど」


「良い人魚と悪い人魚がいるってことになるんだな」


「そうなんじゃねぇの? 人魚の町があるくらいだから、一匹や二匹じゃないんだろ。中には良いのとか悪いのもいるんだろうな。人間みたいに」


 伊吹は光廣の言葉を、頭の中で考えた。


「海の沖に赤い火が灯れば大漁。青い火が灯れば大嵐とか」


「それってたんなる漁火や不知火現象なんじゃないのか?」


「青い火だぞ」


「火と人魚の関係は?」


「人魚が教えてくれてるって話し」


「へぇ。人魚って意外と親切なんだな」


「だな」


 光廣も頷く。


「実際、江戸時代の頃、網に絡まった人魚が見つかったって話しや、大名直々に人魚捕獲部隊が編成されて、この町に一時駐留してたって伝えもあるぜ?」


「人魚捕縛?」


 伊吹は驚いて聞き返した。


「なんでもお殿様に献上するためとか」


「人魚をか?」


「人魚の肉は、食べれば不老不死になるんだって有名なんだ。八百比丘尼の話とかあるだろ。あと人魚の鱗は万病に効くともされて、持ってると海の禍から守ってくれるんだって言い伝えられてる」


 無意識に伊吹の手が、胸元へと寄せられた。シャツ越しに感じる硬い手触りに意識が傾く。


 母と共にこの町へ帰ってくることになったとき、伊吹はどこかしら運命を感じた。それは幼い日の、夢か現かもわからない幻の記憶のせいだった。今でも、その幻の欠片は伊吹の胸元で揺れている。


「しかも、人魚には美人が多い」


 光廣は伊吹の絵を見て「この絵みたいにな」と付け加えた。その軽い口調に伊吹も笑って「詳しいんだな」と言えば、


「化学の園その守もりいるだろ」


 確かまだ三十代前半の若い教師だ。伊吹のクラスも、その教師に化学を教えてもらっている。


「すっげー人魚に詳しいんだよ。研究してんだって。んで、なんかの話しのついでに人魚の話を聞かされたんだよ」


「へぇ」


 人魚の研究などあるのかと、伊吹は驚いた。童話のグリムやアンデルセンを研究している学者がいるのは知っているが、それと同じようなものなのだろうか。


「ま、人魚繋がりでなんか運命的だな」


「いや、そのまとめ方はどうかと思うけど」


 伊吹は苦笑して、話しを打ち切った。






 一緒に帰ろうと言った光廣と肩を並べて防波堤沿いの道を歩く。この道は、今まで伊吹が一度も使ったことのない道だった。そもそも家に帰るには遠回りになるのだが、光廣がどうしても寄り道したいところがあるというので付き合っている。


 今日の波は静かだった。堤防にぶつかってちゃぷちゃぷと音を立てている。覗き込めば、魚が泳いでいるのが見えた。透明度はかなり高い。綺麗な海ではあるが、潮の流れのきつさや岩礁の多さでダイビングやサーフィンには向かないのだという。おかげで観光客も少ない。夏だというのに、浜辺で遊んでいるのはもっぱら地元の子どもばかりだった。


 伊吹は海から目を逸らした。


 海は好きじゃない。小さな頃に、一度海で怖い目にあって以来、進んで海へと近づきたいという気持ちが起こらないのだ。そんな自分がこんな海辺の町へやってきてしまったのは、それでも因果ではなく運命だと感じる。


 「あの家」


 不意に、光廣がすっと腕を高く掲げ、道の先を指した。道は三百メートルほど真っ直ぐに進んだ後、行き止まりに突き当たる。その行き止まりの先に、白樫の垣根が見える。木々の背の向こう側に見えるのは平屋の一軒家だ。


「あの家がどうした?」


「ちょっと、覗いていって良いか?」


 光廣は伊吹を心持ち見上げるようにしてやりと笑う。光廣は体格に比べて背はあまり高くなく、一八〇近くある伊吹を、始終目を細め首を傾げる仕草で見るのだ。


 伊吹は訝しげに頷いた。どうせ家へ帰るには、その平屋のちょうど手前の道を左に折れなければならないのだ。わざわざこちらに許可を取らなくとも、道すがらに覗き込むことは十分出来ることだった。


 しかし、光廣は垣根が近づくにつれてそわそわとし始め、ついには足を止めて亀のように首を伸ばし垣根越しに家の庭を覗き込んでしまったのである。伊吹はそのあまりの不躾さに呆気にとられた。てっきり中の様子をちらりと窺うだけだと思っていたのだ。人の家を勝手に覗き込むのは、礼儀に反する。


「戸川?」


 光廣は答えない。変わりに伊吹の脇腹を肘の先で小突く。


 緑深い庭だった。植えられている緑の数は圧倒的でそのうえ無秩序であり、かつ膨大。広い庭一面に緑の木々や花が咲き乱れている。白百合、紫陽花、夏椿、夾竹桃、百日紅、美央柳、伊吹にわかる花の種類はそこまでだ。ちりぢりに咲き乱れた花は、潮風に揺れて甘い匂いを零している。


 木々の間から見える家は、緑の影に沈んでいる。縁側の雨樋はすべて開け放たれ、かわりに簾を落としている。軒下に風鈴をつり下げ、涼しい音色を奏でていた。


 いったいこの家を覗き込んで友人は何をしようとしているのか、伊吹にはさっぱりわからない。庭に珍しい花でも咲いているのだろうか。そんなことを考えていると、突然光廣が伊吹の腕をぐいと引っ張った。爪が剥き出しの腕に食い込み痛みを感じる。さすがに文句を言おうとして口を開きかけ、光廣のにやけた笑顔に眉を潜めた。


(なんだ?)


 木槿の木の向こう側、ちょうど先ほどまで伊吹の位置からは死角になって見えなかった場所――――光廣に引っ張られて動いたせいで見えるようになった――――に、人がいた。簾を一枚だけ巻き上げた縁側で、誰かが寝そべっている。白い浴衣の裾がめくれるのも気にせずふらふらと足を振りながら、その誰かは腹ばいに寝転がって本を読んでいるようだった。


 縁側の下には水を張った金盥が置いてあった。水面が陽光を受けてきらきらと瞬くのが反射して、その人の黒髪にぶつかり、まるで濡れたように見える。ほっそりとした体を包む浴衣はしどけなく乱れ、くつろいだ襟元の華奢さは、まだ少年であることを伝えた。


 「誰だ?」と伊吹が光廣に問うより早く、本を読んでいた彼は人の気配に身を起こしてこちらを向いた。


 光廣がとろけるような顔をした。伊吹は息を飲んだ。


 浴衣から覗く手足は細く、それでいて均整が取れてすらりと長い。くつろいだ襟元から覗く肌は簾の影にいてもはっとさせられるほど白く、浮き上がった骨の形さえ美しい。さらりと流れるような黒髪に縁取られた顔は、出来の良すぎる人形のように整っていた。美貌と呼ぶにはどこか儚く、可愛いと呼ぶには艶やかすぎる顔は、ひたすら綺麗なのだ。犯しがたい神聖さと、汚しがたい気品を包んでいる。


 光廣が、家の中を覗き込みたくなる気持ちがわかった。確かにこの容姿なら、ついつい見惚れてしまいたくなるだろう。しかし、伊吹が息を飲んだのはただ容姿に驚いたからだけではなかった。


 彼の瞳はまっすぐに伊吹を見た。強く凄烈な眼差しだった。伊吹はまるで蛇に睨まれた蛙のように、その瞳に飲まれ棒立ちになる。自分からは到底、顔を背けることも出来ない。


 どくんと、胸の奥で何かが激しく脈打っている。


(お兄ちゃん……)


 兄弟のいなかった伊吹が、かつて一度だけその呼び方で他人を呼んだことがある。彼はその人にとても良く似ていた。しかし、そんなことがありえるわけがないと否定する。あれは幼い自分が恐怖に駆られて見た幻だ。実在するわけがない。


 ――――――人魚なんて。


 事実、彼にはきちんとした二本の足がある。浴衣の裾から白い足がちゃんと二本伸びている。どう見ても魚の尾ではない。それにあの人は長く艶やかな黒髪を真珠で飾ってた。目の前の少年は襟足が不揃いな短髪だ。


 少年が瞳を逸らした。瞬間、伊吹の呪縛も解ける。はっと体の力が抜けた。ほんの一睨みされただけだというのに、全身に汚泥のような疲労感がたまっている。少年はまた本の上へ視線を戻し、伊吹達の事など気づきもしなかったという素振りで、再びこちらへ顔を向けることはなかった。


 ふらりとよろけて垣根から離れた伊吹の後に続いて、光廣も離れる。後ろ髪を引かれるように背を振り返りながら、道を折れ、正しい帰路に着くのを伊吹はぼんやりと従った。


「あの人……」


「なんだ、笠原もくらりときたか?」


 光廣が笑った。伊吹は笑えなかった。


「俺も名前は知らない。あの人滅多に家の中から出てこないし、学校にも行ってないようだからさ。この家でじいさんと二人暮らししてるってことと、足が悪いみたいってことぐらい」


「足が悪いのか?」


「みたいだな。ほら、縁側に水の張った盥を置いていただろ? ときどきあそこに足を浸してるのをみかける」


「そうか……」


 思い出したのはアンデルセンの『人魚姫』だった。美しい人魚姫は魔女に頼んで魚の尾を二本の美しい脚と交換してもらう。しかし、その脚は歩く事に鋭いナイフで刺し貫かれるような痛みを感じるのだ。人魚姫は痛みに歯を食いしばりながら、王子とダンスを踊る。


(まさかな……)


 頭の中に浮かんだ妄想に、伊吹はかぶりを振った。


 あり得ないことだ。人魚が存在するなんて。あの時見たのは溺れかけた子どもが見た夢だ。それに、年齢だってあわない。先ほどの少年はどう見ても伊吹と歳が変わらない。幼い頃夢の中で見た人魚は、当時でさえ十五、十六に見えた。あれから十年近く経っているのだ。彼であるわけがない。――――もっとも人魚が人間と同じように歳を取るかどうか定かではないが。


「女じゃないのが惜しいところだよな」


 開けっぴろげに笑う光廣の声を、伊吹は作り笑いで頷き返しただけだった。

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