第4話

 伊吹は、白い光の中に立っていた。右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても、一面白い。まるで濃霧の中にいるかのようだ。どうしよう、どちらに進めばいいのだろうと、伊吹が先の見えない白い光に途方にくれていると、母の声がすぐ側から聞こえてきた。


 その瞬間、風に消し飛ぶように白い光が消え、伊吹は見慣れた場所に立っていた。


「どっちがあの子を引き取る?」


 母は胸の前で腕を組んで、言った。彼女は窓辺に立ち、キッチンのテーブルに座ってコーヒーを飲んでいる父を睨んでいた。薄く開いたカーテンからは、夕暮れの赤い光が射し込んでいたが、部屋の中は電気で煌々と明るかった。伊吹はそれを窓硝子越しに聴いていた。庭で打ち水をしている最中だった。薄く開いた掃き出し窓の向こう側から、両親のトゲトゲとした声が聞こえてきた。伊吹が幼い頃から、両親は顔を会わせればいら草の棘のような声で会話を繰り返している。


 見上げた空はまだすっきりと青かったが、傾いた太陽から赤い光が放射状に伸びて雲を薄ピンクに染めていた。鴉が一羽、泣き声を上げながら飛んでいた。伊吹はぼんやりと鴉がどこへ飛んでゆくのか眺めていたが、次第に小さくなって消えてしまった。


「俺には仕事があるんだ」


「それはわたしも同じよ」


「それに、静子にも子どもがいる」


 静子というのは、父の愛人の名だった。父とその愛人の間には、今年三つになる女の子がいるらしい。父はその娘を溺愛していた。父は母と離婚してその愛人との結婚を望んでいるのだ。


「あの子だってあなたの子どもでしょう」


 母の声は挑むようだった。


 伊吹の手の中にあるホースの水はとっくに止まっていた。ぽたぽたと零れる雫の色も、赤い。


「そうだ。だが、きみの子どもである」


 うやうやしい声で父が答えた。はっと母が鼻で笑った。


「子どもが欲しいって最初に言ったのはあなたじゃない。わたしはあなたが泣いて頼むから、仕事を休んでまで子どもを生んだのよ」


 伊吹はそこで、ホースを戻すために窓から離れたので、以後両親がどんな話し合いを続けたのかは知らない。ただ、自分を引き取ったのは母であり、今伊吹は母のいない、母の実家で祖父母とともに暮らしている。


 離婚の原因は意見の相違と性格の不一致だと教えてくれた。父に愛人が出来たときには、とうに両親の間は冷え切っていたらしいから、浮気が直接の原因には繋がっていないらしい。


 伊吹は無意識に胸のペンダントを服の上から握りしめた。


 哀しいという感情はなかった。むしろやっとという安堵感の方が強い。顔を会わせれば喧嘩ばかりする両親の怒鳴り声を聴かなくてすむことや、八つ当たりのとばっちりを受けずにすむことの方が、伊吹には嬉しいことだったのだ。個別に見れば、父も母もどこにでもいる当たり前の人だったし、それなりに伊吹にも愛情を注いでくれたが、たぶん、彼らは普通の親たちに比べちょっとばかり自己愛が強かったのだろうと思う。結婚は譲り合いだというが、彼らには譲れないものが多すぎた。


 荷物をまとめて家を出て行く父の背中を見送ったときも、引っ越すために長年暮らしていた家を離れるときも、空港で母を見送ったときも、捨てられたという気持ちにはならなかった。何も感じない自分に少しだけ、哀しいと感じた程度だった。


 そもそも伊吹は小さな頃から一人きりだった。これからも、一人きりで生きていくだけだ。―――――一人きりで。


 心の中で呟いた瞬間、また自分は白い光の中にいた。


 ああ、これは夢だ。そう思った。夢。嫌な夢だ。思い出したくない過去の夢。顔を顰めて俯いた伊吹の耳に、また声が聞こえた。


「約束だよ?」


 はしゃいで笑う声は、自分のもの。今よりもずいぶんと幼いが、間違いなく自分の声。それに答える優しい声は、いったい誰のものだっただろう?


「わかった。約束」


「絶対に絶対だから。忘れないでね」


「忘れない、絶対に。覚えてる」


 舌足らずな幼い伊吹の声を、生真面目に繰り返す声。これは誰のものだったっけ? ぼんやりとそんなことを考えていると、光の中から白い手が、ふわと伸びてきた。その手は、伊吹の頬に躊躇いがちに触れ、そっと目の下の薄い皮膚の上を親指でなぞり、耳横の髪を梳いて離れていった。優しい、まるで春風みたいな感触に戸惑っていると、もう一度だけ声がした。


―――――嘘つき。


 ふっと、そこで意識が弾けた。目を開けると、木格子の天井が見える。それは最近ようやく見慣れてきた祖父母の家の天井ではなく、もっと古くさい色をしていた。自分が見知らぬ部屋に寝かされていると、すぐに気付いた。夏掛けの布団は肌にさらさらと擦れる。


「目が覚めたか?」


 傍らに少年が座っていた。


 濡れたような瞳がじっと観察でもするように、伊吹を見下ろしている。


 少年の背後に、開け放たれた障子があり、縁側があった。空はまだ暗く、部屋から零れる明かりに照らされて見えた庭は、鬱蒼とした樹木に囲まれていた。これはあの家だと、伊吹はすぐに気付いた。木槿の茂みと、そのすぐ側に大きな百合の花が咲いているのが見えたからだった。今日、光廣と覗いたあの堤防の奥にあった緑深い家だ。伊吹は驚いて、少年を見た。


 真っ白な夜着姿で、胡座をかいた膝に本をのせている。


 ―――――あの少年だった。


 伊吹は跳ね起きた。見ると、自分はいつの間にか浴衣を着ていた。


「あの……」


 伊吹は混乱してぱくぱくと口を動かす。言葉が出てこなかった。


「おまえ、海で溺れてたんだよ。それを僕が助けてやった。覚えてるか?」


「あ、いや、えっと・・・・・・はい・・・・・・。なんとなく」


 いや、溺れたことはたった今彼に言われて思い出したが、この少年に助けられたということはまったく記憶になかった。気を失った後に出逢ったのだろう。


 それにしても伊吹が溺れた場所と、少年の家とはずいぶんと距離が離れている。彼が自分を助けてくれたというなら、ずいぶんと大変な目にあわせたのではないだろうか。


「その・・・ご迷惑をおかけしました。俺を、ここまで運んでくれたんですか? 重かったでしょ」


 すると、彼は綺麗な眉の片方を上げた。


「おまえ馬鹿か?」


 いきなり、辛辣な言葉が飛んできて、伊吹は吃驚した。綺麗な顔に似合わず、口が悪い。


「おまえを運んで陸おかの上を歩けるわけがないだろ。体格差を考えてみろ。もし僕がおまえをその方法で運んでいたら、体の前と後ろのどちらかが、今頃大変な目にあってるとこだぞ」


 引きずって、ということになるわけか。確かに、と、伊吹は思わず顔を顰めた。


「仕方ないからあのまま海の中を引きずってきたんだよ。感謝するんだな。僕がたまたま今日、あそこの辺りを泳いでいたから、助かったようなものなんだから」


 居丈高に言うと、彼はふんと鼻を鳴らした。伊吹は圧倒されたまま「はあ」と頷くことしか出来ない。


 廊下をきしきしと鳴らす音が聞こえた。


璃夕りゆ? 彼が起きたのかい?」


 障子の向こう側から、腰の曲がりかけた老人が顔を出した。祖父母とほぼ同年齢ぐらいだろうか。作務衣姿に、裾や袖から覗く手足は皺深かったががっしりとしていた。伊吹の顔を見て、老人は顔をほころばせた。


「気が付かれたかな?」


「あ、はい」


 伊吹は慌てて布団の中で正座に座り直した。老人は、伊吹の傍らに飲み物を置く。


「水はほとんど飲んでいなかったようだから、体は大丈夫だろう。ゆっくりして元気になったら帰ると良い。それまでに服を乾かしておいてあげるよ」


「すみません。ご迷惑をお掛けします」


 伊吹は恐縮して頭を下げた。それから、ふと自分がまだ名前も名乗っていないのを思い出した。


「俺、笠原伊吹って言います」


「ああ、笠原さんのところの孫の……。知ってるよ。笠原のおじいさんとはときどき釣りで一緒になる。わしの名前は木嶋郁春きじまいくはる。これは孫の璃夕だ」


 伊吹は口の奥で「璃夕」という名前を転がした。綺麗な響だった。


「伊吹くんは確かよそから来たんだったかな。だったらよく気を付けたが良い。ここの海は波が静かに見えても、少し潜れば潮の流れが早いうえにころころと向きが変わるんだ。そのうえ離岸流もある。地元の人間でも夜には滅多に海に入ったりせん」


 厳しい顔を作る郁春に、伊吹は「はあ」と頷いて頭を掻いた。素直に反省を表したせいか、それ以上彼は叱ることもなく、「ゆっくり休んでいくといい」と言い残して部屋を出ていった。後に残されたのは息吹と璃夕の二人きりである。


 目の前にあの人魚にそっくりの人がいる、そう思うと伊吹の心臓は今にも口から飛び出してばちを片手に太鼓を叩きそうだった。布団の中で正座のまま、足を崩すことも出来ず璃夕を見る。彼は本を読んでいた。分厚い本をぺらぺらとめくっている。胡座をかいた足にちらりと視線をやれば、細く伸びた脹ら脛が二本見える。


(やっぱり脚があるよな……)


「なに?」


 璃夕が顔を上げて、こちらを見た。鋭く射抜くような冷たい目だった。


「あ、えっと……。助けてくれてありがとうございます」


 彼は伊吹を泳いで助けてくれたと言ったが、並んで立てば、伊吹の肩口あたりまでしか身長がないだろう。体も、まるで女の子のようにほっそりとしている。いくら水の中では浮力が働き人間の体は軽くなるとはいえ、彼が自分を運ぶことはかなり大変なことだったに違いない。


「本当に、ありがとうございます」


 伊吹は深く頭を下げた。


 心の中でこの顔に助けられるのは二度目だと、思う。


「おまえ、泳げないのか?」


「はあ、まあ」


「ふうん」


 璃夕は意味深げに伊吹を見ると、にやりと唇を歪めた。意地の悪い顔だった。


「こんな漁村でカナズチなんて、笑われるんじゃないのか?」


「俺は漁師じゃないし、高校にはプールもないし、水泳の授業もありませんから困る事なんてないですよ」


 少しカチンときて刺々しく返事をすれば、璃夕は拍子抜けした顔をした。


「それはつまらない」


 と、呟き、


「いまどき、大人になってもまともに泳げない奴も珍しい。泳げないなら、海に入るなよ」


「入るつもりなんてありませんでしたよ。転んで落ちたんです」


「間抜けだな」


 確かに事実なので伊吹は反論できず、押し黙る。ちらりと璃夕を見れば、おかしそうに笑っていた。伊吹は自然と恨めしげな声になってしまった。


「木嶋さんは、泳ぎが得意なんですね。俺を運んで海を泳げるほどなんだから」


「璃夕でいい」


「り、ゆ、さん?」


「泳ぐのは好きだよ。ずっと海と一緒に暮らしてきたんだから」


 当然のことだというようにさらりとした口調だった。伊吹にはその言葉が、この海辺の町でずっと暮らしてきたからと言っているようにも、人魚としてずっと海の中で暮らしていたからと言っているようにも聞こえて、彼は本当に人魚なんじゃないかという錯覚に陥りそうになった。


 しかし、そんなことがあるわけがない。いや、だけど・・・・・・。


「・・・・・・この水辻の海には人魚が住んでいるって伝説があるんですよね」


「知ってるよ」


 璃夕はつまらなそうに瞳を細めた。


「僕はここに長くいるんだもの」


「人魚って本当にいると思いますか?」


 伊吹は璃夕の顔を見つめた。彼は怪訝そうに伊吹を見つめ返した。夜の影のせいか、彼の瞳が瑠璃色にきらりと瞬いた気がした。しばらくの間二人は見つめ合い、くつりと璃夕が笑った。


「おまえは信じてるんだ?」


 伊吹は内心でぎくりとした。心の中を読まれた気がした。しかし平静を装った顔で、


「どうしてそう思うんですか?」


「顔に書いてある。素直だね」


 璃夕は面白むように伊吹を眺めた。


「いるかいないか、それを決めるのはおまえ自身だよ。おまえがいると思えばいるだろうし、いないと思えば人魚なんていない。信じていない者には例え人魚が本当に存在していても見えないし、信じている人間にはどんなものでも人魚に見える。人間は自分が見たいものだけを見ることが出来る生き物だからね」


 彼は一気にそこまで言うと、ぱたんと本を閉じた。首を傾けて空を見上げる。


「夜明けまで、あと二時間弱というところか」


 小さく呟くと、すくりと立ち上がった。


「服がそろそろ乾く頃だけど、どうする? 帰るか? 泊まっていくか?」


「あ!」


 伊吹は叫んだ。


 そうだ。祖父母に黙って家を出てきたのを思い出したのだ。もし二人が空の孫の部屋を見付けたら、ショックで警察に電話しかねない。伊吹はあたふたと立ち上がった。


「あの、いま何時ですか?」


「だから、夜明けの二時間前ぐらい」


「三時ぐらいですか?」


「たぶんね」


 璃夕は再び空を見上げて、頷いた。空を見て、時間がわかるのだろうかと伊吹は少し不思議に思ったが、そんなことを尋ねるよりも祖父母のことだ。


「帰ります。今なら家族も気付いてないだろうから心配かけなくてすむし」


「なら、服を取ってきてやるよ」


 璃夕は縁側の奥へと消えた。


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