ただ僕は、キミの力になりたくて――4

 翌朝、午前八時三〇分。僕は乙姫の家を訪れた。


 出迎えてくれたのは乙姫のお母さんで、流石さすがに気恥ずかしかった。


 僕が玄関先で待っていると、乙姫はすぐに顔を見せてくれた。


 乙姫が着ていたのは水色のワンピース――僕と乙姫が知り合うきっかけになったあの日、彼女が身につけていたものだ。


 上品さと可憐さを併せ持つ乙姫に、本当、良く似合っている。


 僕は、申し訳なさそうにうつむきながら、言葉を探すように視線をさまよわせている乙姫に、


「乙姫、あの公園に行かない?」


 そう話しかけた。





 空は晴れていた。けれど、雲がやや多い。


「啄詩くん……昨日は、本当にごめんなさい」


 乙姫はあの日と同じく、海を背にして立っている。


 海風に髪を弄ばれながら、彼女が苦しそうに言った。


 乙姫は自分の胸元をキュッと握って、水色の生地にしわを作る。


 乙姫が僕から目を逸らした。


「その……やっぱり、勇気が湧かなくて……。で、でも! 一七日までには……その、頑張って――」

「乙姫」


 僕の呼びかけに、乙姫の肩が震える。


 彼女はこわごわとした様子で、僕の目をその瞳に映した。


 僕はやさしく、でも、ありったけの想いを込めて、真剣に乙姫の瞳を見つめ返す。


 ブラウンの双眸そうぼうが、不安げに揺れていた。


「僕は、唄ってほしい。乙姫の歌を、聴きたい」


 乙姫は答えない。


 悲痛そうに眉根を寄せて、唇をギュッと結んでいる。


「乙姫が唄わない限り、『Blue Blue Wish』は生まれたことにならないんだ。そして、それじゃあキミの夢は夢のまま――一歩踏み出さない限り、なにもはじまらない」


 そうだ。不安で怖くて恐ろしくて、どれだけガタガタ震えていても、それじゃあなにもはじまらない。


 動かないと変わらない。意味がないんだ。


 はじめから、一次落選なんだ。


「…………わかってる……わかってるのっ!! わたしが唄わないと全部なくなっちゃうのっ!! 啄詩くんの描いた世界も! 音子ちゃんがくれたやさしさも! わたしがずっと描いていた夢も! 全部全部なくなっちゃうのっ!!」


 乙姫の声は荒々あらあらしかった。


 こんなふうに取り乱す姿を見るのは、はじめてだ。


 けど、乙姫の声はかすれていた。


 こんな――泣いているようにもいきどおっているようにも見える表情をしている乙姫は、はじめてだ。


「だけど……っ! わたし、は……っ」


 悩んで、応えたくて、でも、怖くて怖くて。


 なにもかもが上手くいかないんじゃないかな? 自分は、誰にも認められないんじゃないかな?


 乙姫は、そんな、言い様のない恐怖に襲われているんだ。


 そうだよね? 怖いよね? 耐えられないよね?


 だから、ね?




「僕は、キミを独りにしない」




 僕は決めたんだ。


「――――え……?」

「乙姫だけに重荷を背負わせるなんてこと、しない。どんなにツラいことがあっても、僕も一緒に受け止める」

「啄詩、くん?」

「決めたんだ」


 僕は、ジーンズのポケットから水色のスマートフォンを取り出した。


 画面をタップして、


「僕も、キミと、夢を追いかける」


 乙姫に見せる。


 そこにはSNSのホームが表示されていて、そのユーザー名は、




『三角四角@作詞家志望』




「――――え?」


 乙姫が目を疑うようにして、瞳を大きくした。


「僕も乙姫と一緒に、喜びも苦しみも分かち合っていく――キミを独りぼっちになんて、させない」

「――どう、して? どうして、啄詩くんが……? そんなっ! 啄詩くんの夢は……どうしてっ!?」

「僕が決めたことだよ」

「そんな……わた、わたしの、せい、で――」

「違うよ」


 絶望したように一歩後退った乙姫に、


「僕自身のためだよ」


 僕はやさしく微笑みかける。震える乙姫を包み込むような笑みを。


「ずっとくすぶっていたんだ。どうして僕はこんなにもダメなんだろう? 僕は、僕の好きな作品を書きたいだけなのに……って」


 だけど。いや、だからなのかな? 僕が前に進めなかったのは。


「でも、僕はこの夏、乙姫と過ごして変わることができた」

「変わる、こと?」

「気付いたんだ――誰かのために作品を書くっていうことは、こんなにも楽しいことなんだって」


 そう。僕はようやくわかったんだ。


 作品っていうのは、誰かに認めてもらいたくて書くもの。


 それも一つの答えなんだろう。


 けれど、誰かのために書くものでもあるんだ。なにしろ、その作品は誰かに喜んでもらうためにあるんだから。


 乙姫が作詞をお願いしてくれたから、僕は気付けたんだ。


 そして、乙姫は僕に教えてくれた。


「乙姫が教えてくれたんだ。こんな道もあるんだって。作詞がこんなにも楽しいものなんだって――僕にもできることがあるんだって。キミが気付かせてくれたんだ」


 だから、僕は決めたんだ。


 もっともっと、『音』を『楽しみたい』って思えたんだ。


「僕は作詞家を目指すよ。誰のためでもない、僕自身のために。乙姫が歌手を目指すように――見えない未来に手を伸ばすように、さ」

「啄詩くん……」

「僕は歌詞を書き続ける。たとえキミが大学に行ってしまったとしても、それでも僕は書き続けるよ。きっとこれは、乙姫が教えてくれた『新しい夢』だ」


 これがいまの僕にできること。そして、いまの僕が望むことだ。


「僕は僕の夢を追う。乙姫が道に迷ったとき、今度は僕が助けられるように」


 僕はニコッと笑う。


「だからさ? 今度は、僕に手伝わせて?」


 だって僕は、


「乙姫の歌を作りたいんだ。キミの歌を聴きたい」


 そう。これが、いまの僕の本心。


「僕たちは同じこころざしを持つものだ。一蓮托生いちれんたくしょうの仲間だよ。だから『Blue Blue Wish』は、乙姫と音子と僕――三人でかたちにしたい」

「あ……ぅ……っ」

「僕も背負うよ。背負わせて? キミを独りにしたくないんだ」


 乙姫がクシャリと顔を歪めて、


「――――――っ」


 ギュッと、僕に抱きついてきた。


「お、おと、乙姫っ」


 乙姫の柔らかい感触。甘い匂い。やさしい体温。


 それらを、これでもかって言うほど身近に感じて、僕の心臓が高鳴る。


「ありがとう……っ! ありがとう、啄詩くんっ」


 乙姫が震えながら、涙声混じりに、


「――もう、なってるよ?」

「え?」

「啄詩くんはわたしの力になってくれてるの! ずっとずっとずっと、わたしのこと、助けてくれてるのっ!!」


 僕のことを見上げる乙姫は、本当に、どこまでも愛おしかった。


 僕は、ふ、と力を抜くように微笑んだ。


「それはね? 僕もなんだよ?」


 僕は乙姫を抱きしめ返し、空いている左の手で彼女のつややかな黒髪を撫でる。


「僕もね? ずっとずっとずっと、キミに助けてもらっているんだ」


 僕の腕のなかで、乙姫が頷く。


 僕たちはしばらくそのままでいた。


 潮騒しおさいが、とてもやさしかった。

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