ただ僕は、キミの力になりたくて――3

 その夜。


「ふー……」


 僕は、浴槽のお湯に浸かりながら天井を見上げていた。


 ほわほわ温かい乳白色が、僕の汗と一緒に疲れまでも洗い流していく。


 ただ、僕の胸の奥にあるわだかまりは、こびり付いたままだ。


 まぶたを閉じると、ツラくて苦しくて申し訳なくて――そんな感情から、何度もごめんなさいと繰り返す乙姫の姿が浮かんでくる。


 乙姫は葛藤しているんだ。


 唄いたいって思う自分と、唄いたくないって思う自分。


 夢をかたちにしたい自分と、夢を壊したくない自分。


 僕たちに応えたい自分と、逃げてしまいたい自分。


 乙姫のなかに存在する相反あいはんする自分が、乙姫自身を困惑させているんだ。


 悩んで悩んで悩んで悩んで――でも、答えなんてあるはずなくて……


「乙姫が傷付くなら……強制するなんて、僕には無理だ」


 僕の小さな呟きが浴室にエコーする。自分でも情けないくらいに、弱くて揺らいだ声だった。


 だってそうじゃないか。


 僕が作詞をしたのは、乙姫の力になりたいからだよ? 乙姫を苦しめるためじゃないんだ。


「――――いいんじゃないかな?」


 僕は思った。


 そうだよ。乙姫を傷付けるくらいなら、いっそ……




 …………傷付けるなら?




「――はは……」


 直後、自嘲めいた笑いが僕の口から零れる。


 ああ……僕はどこまでもヘタレなんだろうね? 自分で自分が嫌になるって、このことだよ。


 乙姫を傷付けるくらいなら? 乙姫を苦しめるためじゃない?


「そんなの、乙姫を悪者にして、乙姫の力になれない自分を正当化しているだけじゃないか」


 そうだよ。これは責任転嫁だ。


 乙姫が傷付くから? 違う。


 乙姫が苦しいだろうから? 違う。


 僕が、乙姫を傷付けたくないからだ。


 僕の手で、乙姫を苦しめたくないからだ。


 僕は、乙姫に決断を迫りたくないんだ。


 すべて、僕のための言い訳にすぎない。


 そんな僕の身勝手で、乙姫に諦めさせるっていうの? 乙姫の望みを?


 そんなこと、できるわけない。


「乙姫は『唄いたい』んだ。それが答えじゃないか」


 そうでしょ? 乙姫は歌手になりたいんだ。けれど、なれない可能性の方がずっと高い。


 だからせめて、自分は歌手を目指していたんだってことを、自分はたしかに唄っていたんだってことを、残しておきたいんだ。


 だからこそ、夢をかたちにしたいって、僕に訴えてきたんだ。


 覚えている。


 そのときの、胸が締めつけられそうなほど切実な眼差しを。


 覚えている。


 一緒に作曲しているときの、キラキラ輝く横顔を。


 乙姫は、唄いたいんだ。


 僕は責任をもって口にした。


「僕は乙姫に、僕の歌を唄ってほしい」


 だから、今度は僕が、乙姫の手を取る番だ。





 パジャマに着替えた僕は、自分の部屋に戻ってきてから、すぐにデスクへと向かった。


 迷いはない。真っ直ぐ歩いていく。


 乙姫はずっと僕を励ましてくれていた。


 何度も何度も手を差し伸べてくれていた。


 僕を支えてくれていた。




 ――スッッッゴく面白かったよっ! 皇くんの作品!


 ――わたし、もっと啄詩くんのこと、知りたい。啄詩くんの世界に――心に、触れたい。


 ――ね? 啄詩くん? わたし、この歌、唄いたいっ!


 ――これからも一緒に頑張ろうねっ! わたしも啄詩くんのこと、もっともっと考えるからねっ!


 ――わたし、もっと啄詩くんにわかってもらえるように頑張るから――もっと啄詩くんのこと、わかるように、気付けるようになるから……もう、独りぼっちになんてさせないから……っ


 ――いらないなんて、言わないで……っ




「ありがとう、乙姫」


 ありがとう。


 僕は、キミからたくさんの勇気をもらった。


 たくさんの喜びをもらった。


 たくさんの救いをもらった。


 たくさんの切なさと、たくさんの愛しさをもらった。




 なにもかも、キミがくれたんだ。




「だから……僕も、独りぼっちになんてさせないよ」


 僕は、デスクに置いてあるスマホを手に取った。

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