第3話

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 こぷこぷと川水が空気を巻く音が聞こえている。河原は拳ほどの丸い石でなり、一足踏むたびごりごりと動いて歩きづらい。私は良太の手を持ち、妻は知花の手を持って、木陰に入り、弁当の蓋を開けた。私がたまご焼きを2つに割っていると、「んーッ、んーッ」と箸を咥えたまま知花が川のほうを指差し、足をばたつかせた。そこにはサギが流れに足を挿して立っていた。いつもならこういう知花を叱る良太も、今回はそれを忘れてじっと大きな鳥を見ている。

「わっ」

 知花の声にサギは驚いて身構え、声の主を探していた様子だったが、とうとう飛び立ってしまった。

「すごーい」

 ――――



 歩いているうちに景色は明るくなってきていた。私はすでに折り返していたが、輪郭を明確にし始めた景色に、喪失感を抱いていた。

 以前までは、草木の茂みだった路傍が均され、家が建っている。平らになった面積から、まだ建つ家があるのだろう。さっき渡って来た橋のむこうに聳える山には、鉄塔(電波塔?)が足元から立ち上がりつつあるのが見える。

 ここは私の故郷だろうか。足もとの崩れ落ちるような感覚が襲い、すがれるものを探した。橋はそこで、高校へ通った当時のまま、そこに架かっていた。



 家に入ると、子供たちももう起きているらしい、リビングから賑やかな声が溢れてくる。妻が台所から朝食ののった皿を手に出てきた。

「お帰りなさい、どこ行ってたの」

「ちょっと散歩に」

「ちょうどできたところだから座って、お義父さんコーヒー飲みます?」

「ああ、貰おうかな」

「うちの男はほんとに手伝うことを知らないんだから」

 と台所のほうで母の声がする。父は孫娘を膝に乗せて、子供番組に付き合い聞こえぬ素振りである。良太は祖父と腰を並べて座る。昨夜のうちに父と孫2人はすっかり打ち解けてしまった。ひとつの視界に父と、私の子供のいることが、私にはまだ違和感を与えていた。

「立ってないで座れ」

 と父が言う。私はそれに従った。私は2人の父として振舞えばいいのか、それとも父の子として振舞えばいいのか。

 息を殺してテレビを見ていた良太が、父の肩を乱暴に叩く。

「ねえねえねえ、あれ、良太もできるよ」

 とテレビを指差しはしゃぐ。

「こら良太、人を叩かない」

 見かねて私は口を挟んだ。

「おおそうか、どれ見せてみな」

 自ら挟んで、その言葉はいま眼前の父の、広くなった額を、深くなったしわを、少し痩せた腕を意識させてしまう。私は父から目を逸らした。

「お義父さんどうぞ。あなたも」

 と妻がコーヒーを出した。



 ――――

 対岸の畑にそろそろと人が入っていくのが見える。彼らも昼食を終えたのだろう。2人を連れて流れのほうへいった妻が、こちらに手を振っている。手を振り返しながら、私は農家の生活を思ってみた。祖母の小さな畑を手伝った、小学生の私を感覚の便りに、土の匂いや鍬の手触りや重量といった具体的な記憶を呼び出し、それをいま遠くに見えるあの畑の夫婦に投影する。暮れ前ごろ帰るのだろうか。それはあの山の根元に並んだ家のどれかだろうかと、詳細に想像を働かせながら、私には知れない生活の端々のあることを思った。畑の記憶も祖母が趣味としてやっている畑のことだったし、私は小学生であったし、彼らの生活にそのまま代入できるものでもないとも思ったからだ。知りえない生活がいくらも隔たっていない距離にある。そして川遊びする妻や子供たちの、そして私の生活を彼らは知らない。それがいま一枚の景色のなかにあった。

 私はときどきこうした空想をしていた。私と、私と無縁の人たちとの偶然にただ居合わせただけの関係、その空間。なぜか、そうした空想は楽しかった。

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