長谷川邸での宴ー①
源治と紫乃はまともに話が出来ないまま、あっという間に週末を迎えた。
相変わらず会話はなく、気まずいままの食卓で、紫乃は昼食に作った味噌汁を啜った。
いつもなら何気ない会話が弾むはずが、沈黙のせいか、口にする食事のがいつもより味気ない気がした。
何度も、お互いになんとか話をしようと試みたが、その度すれ違い、新たな沈黙が生まれてしまった。
「…紫乃」
重たい空気を先に揺らしたのは、源治だった。
源治の声に、紫乃は箸を止める。しかしなかなか次の言葉は続かない。
紫乃はため息をつく。どうせ言われる言葉は分かっているからだ。
「行くなって言うんでしょう。何を言われても、宴には行きます」
「行ってもいい」
「え?」
呆れて言う紫乃に、源治は弱々しく言った。
紫乃は想像と違う源治の言葉に、驚き、思わず箸を落としそうになった。
「行ってもいいの?」
「…あぁ」
驚きで、力なく言う紫乃に、源治は了承する。その顔は、決して快く了承しているようには見えないが。
「突然どうしたの?」
「元はと言えば、私に責任がある。それにせっかく烏間様が協力してくださるとおっしゃってるんだ、無下にも出来まい」
何かおかしい気がする。あれほどだめだと言っていたはずなのに、突然行くことを了承するだなんて。
源治はそれ以上何も言う事はなく、また食事を黙々と食べ始めた。
紫乃は源治を怪しんだが、とにかく行ける事になったのだから、とそれ以上は何も言えなかった。
昼食を食べ終え、しばらくすると、八雲家の玄関を叩く音が響く。
紫乃は慌てて玄関へ向かい、扉を開けると、そこには可愛らしい、洋装の紺色のワンピースを来た女性が立っていた。
「八雲紫乃様でしょうか?」
「はい、そうですが」
「お聞きしていた通り、お美しい方ですね」
にっこりと笑う目の前の女性。紫乃は急に褒められたものだから、照れて目を丸くしていた。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「申し訳ありません。自己紹介もせずに。私は朔様の使いで参りました、
菫は名前の通り、可愛らしく花のように笑った。紫乃よりは少し年下に見える。
艶やかな黒髪は一つに束ねられ、サテンのリボンで結われていた。そして、烏間や灯磨と同じ琥珀の瞳は、柔らかく弧を描いていた。
「中へ入らせていただいてもよろしいでしょうか?」
菫は抱えていた大きな包みを少し持ち上げて言った。おそらく、宴へ行く準備があるのだろう。
「どうぞ」
「失礼いたします」
菫がペコリと頭を下げると、紫乃は家の中へ案内する。そしてそのまま真っ直ぐ、自身の部屋へと向かった。
部屋へ着くと、早速菫は持っていた包みを床で広げ始める。やはり中身は宴に行くための洋服などが入っていた。手慣れた様子で、服や道具を広げ出す菫。その様子に圧倒されていると、菫は紫乃に目を向ける。
「紫乃様、さっそくですがお着物を脱いでください」
「え」
突然なぜ、とつい慌てて自身の着物の胸元を押さえる紫乃。菫はその様子に可笑しそうに微笑んだ。
「心配なさらないでください。何も怪しい事は致しませんよ。時間がかかりますのでまずはお着替えをしていただきます」
さっさと包の中身を広げ終わると、菫はやる気に溢れた顔で両袖を腕まくりした。
恥ずかしさで、もたもたと着物を脱ぐ紫乃だったが、脱ぎ終わった紫乃の肌が露出もしないうちに、とんでもない速さで、菫は紫乃に洋装を纏わせていく。
初めての洋装。そしてドレスには付き物のコルセット。菫は一切の遠慮なしに、紫乃のただでさえ細い体をコルセットで締め上げた。
「…く、るしい」
「辛抱なさいませ、紫乃様」
踏み潰された蛙のような声を出す紫乃に、菫はにこやかに返事すると、さらにその手に持つ人を締め上げた。
コルセットを締めると、菫は手慣れた様子で次々とドレスを纏わせていく。着終わる頃には、紫乃はすっかり魂が抜けたようになっていた。
「紫乃様、休んでいる暇はありません。次はお髪を整えますよ」
そう言うと、菫は紫乃を座らせて、櫛で紫乃の髪を梳かしていく。そしてあっという間に束ね、綺麗なリボンで結われる。
菫の手先の器用さと素早さに感心していると、そんな暇も与えないほど、菫は手早く次々と紫乃の準備を仕上げていく。
髪が終わると次は化粧だ。良い香りのする
そして目を奪われ、驚きで惚けている間に、準備は疾風の如き速さで終わった。
「最後にこれを」
菫は紫乃に、花飾りのついたヘッドドレスを被せた。
ドレスはまるで雨に輝く紫陽花のような、淡い藤色のドレスで、薄く紫が光る紫乃の目に映えるようだった。レースやフリルがあしらわれ、露出の多すぎない素敵なドレス。髪も上品にまとめられ、大きすぎない控えめな花飾りのヘッドドレスが、紫乃の美しい顔を際立たせる。
初めての洋服、化粧。鏡に映る自分の姿に、紫乃は思わず見惚れてしまう。まるで自分ではないようだ。
「お綺麗ですよ、紫乃様」
「…ありがとう」
「そろそろ参りましょう。迎えが来る頃です」
菫は部屋の窓から見える外の光に目を向ける。高かった日は、いつのまにか少しずつ低くなっていたようだ。
紫乃は菫と共に、慣れない洋装の裾を踏まないようぎこちなく玄関に向かう。
玄関の戸を開けると、そこには先日の馬車と、笑顔の灯磨と不機嫌そうに待つ烏間がいた。
「お待たせいたしました」
菫は紫乃に付き添いながら、2人に頭を下げ、紫乃の姿をどうだと言わんばかりに、自慢げに紫乃を見るように促す。
紫乃は小さな声でやめてください、と恥ずかしそうに言ったが菫の輝く顔を止める事は出来なかった。
「紫乃様、とってもお美しい」
灯磨は満面の笑みで紫乃に目を向け、褒めちぎる。
菫と紫乃の2人から、キラキラとした輝く目を向けられて、紫乃は居た堪れなくなり俯いてしまった。
すると、馬車に乗って待っていた烏間が立ち上がり、馬車を降りて紫乃に近寄る。そして、紫乃の顎に手を添えて、俯いていた顔を上に向けると、黙って紫乃の顔を見つめる。
突如烏間の美しい顔が目の前に現れ、紫乃は固まった。息がかかりそうなほど近く、琥珀の瞳は揺らぐ事なく、紫乃の瞳を捉えて離さない。まるで吸い込まれてしまいそうだった。
「菫、あとで褒美をやる」
「もう、朔様ったら。こんなにお美しいんですから褒め言葉の一つくらい、紫乃様におっしゃってくださいよ」
烏間は紫乃から目を逸らす事なく、菫に声をかけた。するとそんな烏間に、怒ったように頬を膨らませて、菫は不満を漏らした。
けれど烏間はそのまま何も言う事なく、紫乃に触れる手を離した。
表情一つ変える事なく、烏間が馬車の方は振り返ろうとすると、玄関の戸が荒々しく開かれた。
「紫乃」
「お父様!」
慌てた様子で戸を開ける父に驚く紫乃。まさか、今更になって行くなとでも言うのか、と紫乃は少し父に対して身構える。ところが反応は思ったものとは違っていた。
「いつのまにか、こんなに綺麗になったんだな」
少し涙ぐみながら、娘の姿を嬉しそうに見る源治。そして源治は烏間を真っ直ぐ見て言った。
「烏間殿、今日は紫乃をよろしくお願いします」
深々と頭を下げる。そんな源治に烏間は短く、あぁと返事をする。
烏間は紫乃の細い肩をぐっと自身に引き寄せると、そのまま馬車へと向かおうとする。引き寄せられた瞬間、ふわりと、甘すぎない花のような、上品な香りが紫乃の鼻を掠めた。
烏間に強引に引き寄せられながらも、紫乃は無理矢理、後方の父へ声をかけた。
「行ってまいります」
「気をつけて行っておいで」
烏間の腕で、父の表情は見えなかった。
4人が馬車に乗ると、灯磨は手綱を揺らす。ゆっくりと、馬は走り出す。
馬車の中から紫乃は父に手を振る。きっと大丈夫。大丈夫なはずなのに、紫乃の胸には今までにないくらい嫌な予感で溢れていた。
父に見送られながら、馬車は長谷川邸へと走り出した。
前に乗る灯磨と菫は、何やら楽しそうに談笑していた。だが相変わらず、紫乃の隣にいる男は外の景色を眺めたまま、口を開かない。
(何を考えているのだろうか)
外を眺める烏間の横顔を、紫乃は見つめて思う。謎の多い人物だ。
ぼんやり見つめていると、ふと烏間が紫乃を見た。紫乃は驚いて心臓がどきりとし、慌てて目を逸らす。少ししてからまたちらりと目をやると、すでに烏間はまた再び外へと目を向けていた。
紫乃の胸は、緊張と不安、そして烏間から香る匂いでいっぱいだった。
馬車に揺られる時間は短いものだったが、紫乃にとってはそれはそれは長く感じられた。
目と鼻の先まで長谷川邸が迫る。なんて忌々しいのだろうか。まだ着いてはいないと言うのに、賑わいがここまで聞こえてくる。権力と醜悪さの象徴とも言えるその家が、紫乃には地獄のように見える。
夕闇の訪れと共に、紫乃の不安と緊張は増してゆく。
刻一刻と馬車は長谷川邸へと近付き、あっという間に辿り着いてしまった。
「お名前をお願いいたします」
「烏間だ」
「烏間様、ようこそおいで下さいました」
長谷川邸の前は馬車が到着すると、無愛想な男性の使用人が近づいて来た。
この屋敷には無愛想な人しかいないのかしら、と紫乃は思う。
烏間が名を名乗ると、使用人は形だけのお辞儀を一つし、屋敷の奥の方へ手を向けた。
「烏間様とお連れ様はあちらへどうぞ。使用人の方と馬車はあちらへ」
烏間は手の向けられた方向を確認すると、灯磨に、先に行っている、と伝える。そして烏間は紫乃の手を取ると、馬車から降りた。
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