予期せぬ提案ー③
馬車に揺られ、少しすると、あっという間に家の近くへと着いた。徒歩で行く道はあんなにも時間がかかると言うのに、馬車とはあっという間なのか、と紫乃は驚いた。
「あの、ここでもう大丈夫です」
歩みを進め続ける馬車に揺られながら、紫乃は烏間に声をかけた。その声がけに、少し不機嫌そうな顔を見せると、烏間は紫乃に言う。
「まだ家へは着いていないだろう」
たしかに着いてはいない。だがもう目と鼻の先だ。
「ですが、もうそこですので」
紫乃の言葉に、烏間は返事をすることも、馬車を止めることもない。
紫乃は焦る。正直なところ、紫乃の家はとても立派とは言えない。昔は立派なお屋敷だったが、直すお金もなく、近所の人が幽霊屋敷だと呼んでいることも知っていた。だから、その家をこの人達に見られるわけにはいかない、と紫乃は困り果てる。
けれど、きっと何を言っても馬車が止まることはないのだろう、と紫乃はとうとう言葉を放つこともなく諦めた。
そうこうしているうちに、馬車が速度を緩め、一軒の家の前で止まる。
「ここで、よろしいですか?」
紫乃は目を丸くして我が家を見る灯磨に、顔を赤くして静かに頷いた。
烏間は表情ひとつ変えず、相変わらず俯き加減だったが、灯磨は興味津々に、物珍しそうな顔で家を眺めていた。
「送っていただいてありがとうございました」
それでは、と慌てて馬車を降りようとする紫乃だったが、突如強く腕を掴まれる。
その強さに驚いて振り返ると、烏間が琥珀の瞳で真っ直ぐに紫乃を見つめていた。
「週末、人をよこす。宴は夕方だから、準備をして待っていろ」
無愛想に言い放つ烏間に、紫乃は反射的に、わかりました、と答えた。
しかしその時、紫乃は重大な事に気付く。
「あ!」
「どうした」
思わず出た声を塞ぐように、紫乃は華奢な白い手を口元に当てて、驚きを隠すようにした。そんな紫乃に烏間は怪訝な表情を浮かべる。
「私、洋服を持っていません」
深刻な顔で言う紫乃。
先程の烏間の話を思い出すと、確か洋装での宴と言っていたはずだ。けれど、紫乃は普及し始めたばかりの洋服など持ってはいないし、到底手に入れることなど出来ない。
だがきっと、あの長谷川の事だ。洋装での宴と言うからには、洋装でなければ参加は難しいだろう。
どうしよう、とこの世の終わりのような顔をして狼狽える紫乃に、烏間はため息をつくと。
「心配するな、用意する」
「え、そんなわけにはいきません」
「かまわん」
初めて会ったのに、珈琲をご馳走になり、馬車で送ってもらい、長谷川に関して手助けまでしてもらうのに。高価な洋服まで準備してもらうだなんて。そんなわけにはいかないだろう、と紫乃は頭を抱える。
「なんとか自分で準備いたします」
「とにかく迎えをよこすから、あとはそいつに従え」
「烏間様!」
紫乃は必死に話しかけるが、烏間は聞く耳を持たない。話を聞く気が無さそうに、困った顔の紫乃を無視したまま、烏間は腕を組み目を閉じてしまった。
「紫乃様、ご心配なさらずに。我々で準備いたしますから」
「ですが」
「ここは朔様の立場に免じて。こんな無愛想な方でも、一応名家の御当主ですから。女性に恥をかかせるわけには参りませんので」
にこりと笑う灯磨。初対面の人にお世話になりっぱなしは紫乃の良心を痛ませたが、これ以上の抵抗は相手に失礼だ、と紫乃は渋々諦める。
「…わかりました、この度はありがとうございます」
紫乃は馬車を降りて、深々とお辞儀をした。
灯磨は安心したように、再びにこりと笑った。2人の様子を、烏間はいつの間にか目を開けて見ていた。
「それではまた週末に」
「はい、よろしくお願いいたします」
灯磨は挨拶すると、手綱を揺らす。すると馬車はまた動き出した。
紫乃は遠く、見えなくなるまで馬車を見送り、息を吐く。
1人になり、冷静になると、なんて約束をしてしまったのか。相手はあの烏間だ。本当に望み通り行くのだろうか。うまく行きすぎていて、なにか悪いことが起きるのではないか。そもそも、何故あの烏間が、ここまでしてくれるのだろうか。長谷川を懲らしめたいだなんて、信じてもいいのだろうか。
今更になり、夕闇と共に、後悔が押し寄せる。色々なことが起きすぎて、紫乃は眩暈がした。
だが、今は烏間を頼るしかない。でなければこの先に待つのは、それ以上に悍ましい事だけだ。
(腹を括るしかない)
そう、紫乃にはもう選択肢もなく、後悔する前に戻る事もできない。うまく行くことを、祈るしかない。
「紫乃?」
ぼんやりと、家の前で佇んでいた紫乃に、突然声がかかる。はっとすると、目の前にいたのは父だった。
「今の方達は」
馬車が走り去った方向を遠く見つめる源治。その顔はどこか青ざめているようだった。
「烏間様ではないのか?」
「えぇ、そうですけど。お父様、ご存知なの?」
目を丸くする紫乃に、源治はやはりか、と眉間に皺を寄せた。
「なぜ、烏間様と一緒にいたんだ?」
紫乃の肩を掴み、興奮気味に源治は紫乃を問い詰める。そんな父の気迫に、紫乃は怯えたが、はっと、ここは外だと気付く。
「まずは中へ入りましょう」
父を落ち着かせるように、肩に置かれた手を掴み、紫乃は父と共に家の中へ入った。
家の中は入り、居間に2人で座る。未だ目を釣り上げている父に、紫乃は恐る恐る、長谷川邸で会ったことと、烏間との話を伝えた。
話を聞き終え、源治は悲しげに両手で顔を覆い、大きくため息をついた。
「私が不甲斐ないばかりに」
家に帰ったら父に言いたい事は沢山あったはずなのに、父の様子を見たら怒れるわけもなく、紫乃はそれ以上は何も言えず、2人の間にはしばしの沈黙が流れた。そして先に沈黙を破ったのは源治だった。
「…事情は分かったが、烏間様と関わるのはやめなさい」
「どうして?」
「詳しくは言えないが、だめだ」
「理由も言えないのに、関わるなって言うの?」
源治は、返す言葉がないようで黙った。
けれど紫乃だって好きで関わっているわけではない。
「でも、烏間様が協力してくれなければ、私は長谷川家の嫁になるのよ?」
「わかっている。そもそも馬鹿をやったのは私だ。私がきっとなんとかする」
父の言うなんとかするは、なんとかならないと、紫乃は分かっていた。
「お願いよお父様。きっと長谷川家の嫁になるよりは悪いことは起きないわ」
「…だめだ」
後悔に顔を歪める父に、紫乃は心が傷んだが、そもそも事の発端は父だ。
紫乃はだんだんと、抑えていた怒りが湧いてくる。
「そもそもはお父様が招いた事でしょう!なんと言われようと、私は烏間様と宴に行きます。長谷川家の嫁なんて、まっぴらごめんですからね!!」
紫乃は湧いてきた怒りがついに抑えられず、口から溢れ出してしまった。その勢いに一瞬怯んだ源治だったが、負けじと、だが、と口に出す。
その小さな反論は紫乃の耳に届き、紫乃はまた爆発してしまった。
「だが、じゃありません!私はもう寝ます!なんと言われようと、宴には行きます!!お休みなさい!」
紫乃は大声で源治に怒鳴ると、その怒りをもう抑えられず、かっかとしたまま自分の部屋へと戻って行った。
源治は唖然としたまま、紫乃の部屋の方をただぼんやりと見つめると、しばらくして我に帰りため息をつき、その場にへたれ込んだ。
「紫乃…」
悲しげな顔で娘の名を呼ぶが、その声は虚しく
「…長谷川様と結婚させるわけにはいかない。だが、烏間様と、
源治はなにかを決心したような表情を浮かべると、夜の訪れと共に、家を出てどこかへ急いだ様子で向かって行った。
その頃紫乃は、ほとんど初めてであった、父への反抗に動揺し、後悔し、大粒の涙をその美しい
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます