第45話 放火後

 その時、大人になった気がした。気がしただけだった。


 溢れ出す快楽に飲み込まれ、欲望に突き動かされるまま、体を委ねていた。


 記憶は殆どなかった。


 目が覚めると、いつもと違う天井だった。


 ベットに落ちた長い髪が、微かに残る香りが、ゴミ箱に捨てられたソレが、汚い字で書かれた紙切れが、昨日の出来事が夢じゃない事を物語っていた。


 汚れてしまったのだと知った。






「起きた?」


 覚醒しきれていない頭で、目だけ開いた視線の先には、ソファの上で足を組み、つまらなそうにスマホをいじる美彩がいた。


 動かない体と頭を何とか動かして、上半身を軽く起こしただけで腹部に激痛が走る。


「いてて……」

「多分ボクサーか格闘技経験者だよあいつ。蹴っても意識飛んで無かったから」

「それはよかった。殺されかけた挙句、人殺しの共犯にならんくて」

「…………………………」


 不調の上不意打ちを喰らったのは僕もあの男も同じで、人間の急所である事も変わりないから、自分の脆さを憐れむばかりである。


 筋トレぐらいはした方がいいかもな。


 痛みを我慢して辺りを見回すと、薄暗い部屋に大きなモニターが灯を灯し、カラフルなソファーとテーブルの個室に寝ていた。


「………………………ここは……」

「駅前のカラオケ。飲み放題で入ったから、好きなの頼んでいいよ」

「…………酔っ払いにこれ以上飲ませるな」

「飲んでもらわなきゃ困るから飲み放題にしたんだよ」

「じゃあ水」

「上善な」

「……………よく知ってんな。ってかカラオケに無いだろ」


 飲み会で1番怠い返しをされて、僕は頭を抱える。腹に続いて頭も痛い。これは早くも二日酔いか。


 それでも話してくれると言うなら、このぐらいの痛みや気持ち悪さなど屁でもない。この期を逃したら、耳を塞いでしまったら、目を逸らしてしまったら、僕は彼女を理解わかった気になってる知人に成り下がる。


 そうはなりたくない。


「聞きたい事山ほどあるんだけどさ」

「だろうね」

「なんで嘘ついたの」

「…………………………」

「喧嘩ふっかけられた時。そのまま赤の他人ってシラを切って、置いてけば良かったじゃん。僕と会いたくなかったなら、そのまま人違いで済ませて、他人のフリしてもよかったじゃん。助けられた奴が言うもんじゃないけどさ、なんで助けた」

「…………………………」


 美彩は虚な目でスマホを見つめるばかりで、何も言わなかった。


 その沈黙は数分間に渡り、音を消したカラオケCMの光だけが、そこに流れる情報だった。


「…………………………」


 痺れを切らした訳じゃないけど、答えづらいなら、回りくどいなら質問を変えようと思った矢先、『コンコン』と扉をノックする音が響いた。


「失礼しまーす」


 突然入ってきたカラオケスタッフが、トレーに乗せたドリンクを2つ、中央のテーブルに置く。


「あの、頼んでませんが」

「あたしが頼んだ」


 いつの間にと思ったが、おそらく僕が寝ている間にだろう。


 あと、美彩の目の前に置かれたのがメロンソーダで安心した。カクテルだったらどうしようかと思ったからだ。いや、メロンソーダっぽいカクテルかもしれないけど、そんなメロンのカクテルはカラオケに無い事を願おう。


「飲みながら話そうよ。それとも、私もアルコールの方が良かった?」

「美彩が話しやすいなら何でもいい」

「……そうですか」


 僕は気持ち悪さを抑えつつ、体と心に我慢を強制し、麦由来の炭酸水を胃に流す。


 ビールは飲めなくはないけど、あまり好きになれないのは、僕がまだ子供だからだろうか。


「酒は人の本性を炙り出す。あたしは、あんたが信用出来ないから、他人のフリして飲ませようとした。けど、それじゃ一口も飲まないだろうし、あいつらのせいで怠くなったからやめた」

「………そっか」

「こんだけ話したのに『そっか』で済ませんの酷くない?」

「信用してないって言われたら『そっか』としか言えないだろ」

「それもそっか」


 ケケケと笑う美彩。少しは話しやすくなったのだろうか。


 静かになると、隣の部屋から音が漏れ聞こえる。デュエットソングだろうか、男性と女性の歌声が聴こえて来る。


「あたしからも聞いていい?」

「もちろん」

「酔ってる?」

「少しは覚めた」

「なら飲んで」

「………………………」

「ショーヘーの本性を暴きたい」

「普段と変わらんぞ。今だって、だいぶ酔ってんだ」


 僕は飲んでも飲まなくても変わらない。饒舌にもならなければ暴れ狂ったりもしない。泣きも笑いもせず、ただ頬の高揚と気持ち悪さを感じるだけだ。


「これ以上飲ませても変わらんぞ」

「そうかも。でも信じられないし、それに少しでも忘れられるよう、アタシは酒を注ぐよ」

「何の為に?」

「シラフじゃ言えないからに決まってんでしょ」

「……………女子高生まで酒に頼り始めたら世も末だ」

「とっくに末だよ」


 美彩はストローを吸って、緑色の炭酸水を飲む。それに釣られるように僕もジョッキを煽り、黄金色の炭酸水を流し込む。


 ミラーリングだっけか。似たような行動をすると親近感を湧かせる方法が、心理学とかの分野であったはずだ。親近感を湧かせたからと言ってどうこうするつもりは無いけど。


 グビグビ。ゴクゴク。


 口を滑らしやすいように、口が滑っているように見えるように、僕は我慢して酒を飲む。


 失言はしたくない。しかし肩に力を入れては話してくれないだろう。なら冷静な思考を保ったまま、ギリギリを攻め続けるしかない。


「思ったより飲むね」

「誰かさんが飲めと言うからな」

「そりゃどーも」


 照明スイッチ横の受話器を手に取り、追加のビールを頼む美彩。彼女はまだメロンソーダが残っているけど、届くまでに飲み干すと見込んだのか、カルピスを注文。


「そろそろ聞いていいか?」

「何を?」

「単刀直入に言うけど………何でここにいるの。美彩」

「…………介護してやったのにその言い方は酷くない?曲がりなりにも命の恩人に」

「ほんと助かったし、感謝してる。けど、それとこれは別だ」

「………………………………」


 真っ直ぐ見つめる美彩に、僕も本心だと、真っ直ぐ見つめ返す。


「別に説教したいわけじゃない。僕だって説教は嫌いだ。ただ心配なんだよ」

「……………………何が?」


 その返しで、失言をした気がした。


 口を滑らしたつもりは無い。だいぶ酔ってるが、適当は言っていない。ふざけてもいないし、揶揄からかっているわけでもない。ましてや、煽ってるつもりもない。


 だから僕は、目を逸らさずに言った。


「美彩が」

「…………………………」

「酔っても酔っていなくても上手く言葉に出来ないだろうけどよ、なんか、……気を張っているっつーか、大事な事を犠牲にしてるっつーか……」

「知ったような口を聞くな!!!」


 マイクもスピーカーも電源を入れてないのに、部屋中に声が響く。鼓膜が揺れ、心臓が跳ね上がった。


 でも、目は逸らさなかった。


「…………何も知らねぇくせに……」


 歯を噛み締め、睨みつける美彩。


 その表情はどこかで見た事があった。


 不機嫌である事は違いなかった。でも、どこか悔しそうで、苦しそうで、以前とは違う印象を受けた。


 彼女の本性を初めて見た時とは、違う印象を受けた。


「…………………そうだ。知らない」


 この顔を、僕は知っている。


 この感情を、僕は知っている。


 どこで見た。


 いつ、誰の表情だ。


 何の感情だ。


「………僕は美彩の事を、何一つ知らない」


 あぁ、思い出した。


 つゆだ。


 思春期真っ最中の、下らない兄妹喧嘩の時の、煮え切らない顔。


 怒っているのに、どこか寂しそうな顔。


「だから、知りたい。教えてくれないか。無理にとは言わんから……………」


 どうして喧嘩したんだっけ。何を言ったんだっけ。


「美彩がここにいる理由」


 そして、そんな顔をする理由。


「………………………………………」

「………………………………………」


 数分の沈黙が続いた。


 5分か。10分か。


 沈黙を破ったのは、僕でも美彩でもなかった。


 コンコン。


 タイミングよく、もしくはタイミング悪く扉がノックされ、飲み物が運ばれる。泡が並々注がれたビールと、氷が入って量増しされたカルピス入りのジョッキが置かれる。


 飲み物は飲み終えてから注文がルールだが、美彩は一向に急ぐ様子は無く、しかし10数秒でメロンソーダを飲み干し、空のグラスを渡して、冷たく重いジョッキを手に取る。


 僕もジョッキを片してもらい、本日何杯目かのビールを前にため息を吐く。


「ごゆっくりどーぞー」と言いながら退室するスタッフの閉めるドアの音が鳴って、足音が離れた後、「わかった、話す。約束したし」と前置きを置いて、やっと話し出した。


「けど話す前に、最後の質問いい?」


 アイシャドウが塗られた目が、カラーコンタクトの入った瞳が、僕を捉える。


 化粧をしていても、印象が変わっても、その表情は変わらなかった。


「あたし、『強姦ごうかんされ慣れてる』って言ったら………笑う?」


 美彩の表情は変わらなかった。


 少し変わったとしたら、虚ろな表情に隠れた儚さを見つけてしまった。


 僕は言葉を失った。


 笑える訳なかった。

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