第44話 放課後

 大学は教育機関ではなく、厳密には研究機関も含まれているのである。人によっては「だから何?」と言われる事だけど、これは些か重要な事だ。


 小中学校の夏休みに自由研究をやった事がある人は多いだろう。しかし大学の研究というのは、文字通り子供のお遊びではなく、例え10歳20歳年下の大学卒業してもいない学生にだって、容赦しない。シビアな大人の世界だ。


 何で今こんな事を言っているのか、自分に言い聞かせているのか、結論を述べると。


「誘ったんなら最後まで付き合うか、相手の介護しろよ……気持ち悪ぃ……」


 大学生は自己責任で、義務教育でも未成年でもないのだから、自分のケツは自分で拭かないといけないのだ。


 今日の授業は午後しか無く、授業内容はゼミの卒業論文、いわゆる卒論の練習として、卒業生(顔も知らない先輩達)の論文を読み漁る授業で、とてもストレスの溜まった我が友人、霜文一とサシで飲んでいたのだ。


 夜の街で。夜の方が賑やかな街で。


 飲んでいたと言うように過去形であり、自分のペースも許容量も無視して飲みに飲んだ霜は酔い潰れ、それでも「もう一軒行くぞ!!飲みたりねぇよ!!」と騒いだ挙句、どうしようもないので電車に放り込み、介護を放棄した。


 あいつが自分の最寄駅で、眠気あるいは酔いが覚めて降りるなんて、ドリームジャンボの一等を当てるのより難しいから、夢のまた夢で、終点まで寝ているだろう。知った事ではない。


 僕は酔いが覚めるまで……は多分無理だから、少し落ち着くまで、自販機で買った天然水片手に、車道と歩道の間にある段差に腰掛け、側溝を見ていた。


 いつから飲んでいたっけ。今、何時だろう。


 何時でも構わないと言えば構わない。とっくに僕の終電は終えていて、家で待つ人も心配してくれる人もいない。


 終始、愚痴ばかりでうんざりした。


「………はぁ………はぁ……………」


 幸い今日はバイトを入れてない。ましてや針ヶ谷家で食事する予定もない。完全にフリーだからサシ飲みに来たのだが。


「……………………………………」


 遠くの方で、キャッチの声が聞こえる。大体ああいう類の店は碌でもないと、相場が決まっている。


 小太りでハゲた見るからに4、50代のおじさんに向けて「お兄さん」と呼ぶ若い女性。厚化粧でも隠せないほうれい線を見て見ぬ振りして、明らかにおばさんであろう女性に「お姉さん」と呼ぶ青年。


 派手なドレスを着た若い女性達に見送られているスーツ姿の中年男性が、タクシーに乗って目の前を通り過ぎる。あの店はキャバクラだったのか。あるいは…。


 目線を逸らすと、恋人と見間違うほどべったりとくっ付き、互いを愛称で呼び合う若い男女。しかし女性の微妙な空気と、男の風貌からホストとかレンタル彼氏とかであろう。女性が背を向けた瞬間真顔になる彼氏など何処にいるものか。


「……………さっさと出よ……こんな所……」


 街灯にしがみ付き、なんとか立ち上がる。終電はもうないけれど、ここの空気があまり好きじゃない。居心地が悪い。


 最寄りは無理だけど、電車の乗り換え駅までならまだ動いているだろう。その駅周辺ででネカフェでも探そう。


 頭が痛い。目が回る。


 幸い通行人にはぶつかる事無く、歩道を歩くことができた。足取りは自分でもわかるほどふらついていて、側から見ても酔っ払いだとわかるだろう。


 歩きながら水を飲んだら、九分九厘くぶくりん溢すだろう。まともに飲める気がしない。だから駅に着くまで歩こう。着いてから飲もう。


「お兄さん。ちょっと助けてくんない?ウチ、今日泊まる所なくってさ〜」


 また変なのが聞こえる。家出少女か?そういうキャッチか?何にせよ、話し掛けてる相手はおじさんではないだろう。


「ちょっと聞いてる?お兄さん。もしもーし」


 電話でもしているのか。これが最近噂のパパ活とかいうやつか。しかしまぁ、どこか聞き覚えのある声だ。


 やってる事はキャバクラと風俗の中間、いやレンタル彼女と風俗を混ぜたようなものか。どっちにしろ興味ない。


 成人すらしていない少女が身を売る事に、僕は何とも思わない。何故なら僕は少女ではないから、とかいうふざけた回答ではなく、そんな下らない理由ではなく、単純に興味がない。


 阿漕あこぎな商売に身を売るなとか、若い頃から大金を手にして金銭感覚が狂うとか、もっと自分の体や将来を大切にしろとか、そんな偽善者めいた世間一般の意見は出てくるが、僕の意見ではない。


 どうでもいいのだ。心底、どうでもいい。


「ねぇ。シカトすんなってば」

「……………………………………」


 そう言えば、さっきから声が遠ざからない。


 僕の歩く速度が遅いという理由もあるだろうが、最初からずっと僕の2、3歩後ろから声がする。今も。


「もしかしてだけど、僕に聞いてます?生憎あいにくですけど持ち金無いし、他当たってもらえな…………い?」


 見たことある顔だった。知ってる顔だった。


 化粧や服装で一瞬見間違えたが、目の前で話しているのは、後ろで声をかけていたのは、僕の知人だった。


 酔った幻覚ではない。今、少し覚めたから。


「…………何で、美彩が……」


 声の主は、聞き覚えがあって当たり前の少女だった。


 印象は全く持って一致しなかったが、化粧や服装や髪型や、ネイルやハイヒールがやけに様になっていて、まるで別人のようだとも思ったが、声と表情は誤魔化せなかった。


 美彩が、僕が、あのメンバーと知った時と同じ顔をしている。


 きっと僕も今、同じ顔をしているのだろう。


「…………いや、人違いじゃないですか?」


 彼女は白々しく、そう言った。


 僕の目を見て。まじまじと見て。


「ウチも人違いだったわ。ごめんねお兄さん」


 他人行儀な笑みを浮かべ、きびすを返す美彩は、


「………………………最悪……」


 と、誰にも聞こえないぐらい小さな声で舌打ちした。


 事実、僕は酔っているから人違いの可能性はある。でもその行動、一挙手一投足が、彼女らしさを物語っているようで、


「待って美彩」


 無意識のうちに呼び止めていた。


 話す内容なんて考えてないし、呼び止める必要があるかと言えば、なかった。


 強いて言えば、何故ここにいるのか、何のためにこんな所に、こんな時間にいるのか、聞きたかった。おおよそ、分かりきってる事ではあるが。


「………………………………」


 夏が近いとはいえ冷える夜に、軽装に短いスカートを履いた少女は、呼び止められて、でも振り向かず、少しの間、耳だけを傾けた。


「……美彩。何で、こんな所に?」


 返答は無かった。美彩は考え事をしていたのかもしれない。この後の言動から、そっちに時間を使っていたのだろう。


 くるっと振り返る。イアリングが揺れる。


「誰?その人。知らないんだけど」


 それでもシラを切る。でも答えてくれたって事は、話す気はある。そう僕は思った。


「さっき言ってた泊まる所ないって何?」

「あはは、酔っ払いだなーお兄さん。もう飲んでくれる人いなくってさ、って言ったんだよ」


 笑顔で返される。そんな聞き間違いをするほど、それで誤魔化されるほど、僕は酔っていない。


「立ち話も何だし、どっかのバーで話さない?」

「…………ちゃんと話してくれるなら、な」

「目こわ〜。ウケる」


 正直もう飲みたくない。それに未成年を居酒屋に連れて行きたくもなければ、犯罪を犯す気もないが、話しやすい場所というのはあるのだろう。


 僕は少女の提案に乗った。


「やっぱそうじゃん。さっきの彼氏じゃねーって」


 街を歩く通行人の独り言が、僕の耳に届く。


 本来ならシャットアウトされる声が届いたのは、彼の目線が、美彩に向いているから。


 彼らの目線が。


「嬢ちゃん、さっきのおっさんどうしたの?パパ活?パパ活っしょ」

「そっちが本命?それともセフレ?」


 失礼な奴らだ。酔っているのは目に見えてわかるが、酒はあくまでも理性を弱める物。酒に酔って人を殴るような人は、豹変するのではなくそれが本性なのだ。


 だからこいつらもこれが本性なのだろう。ますますタチが悪い。


「何でもいいからさ、俺たちと飲まね?奢るし」

「いい店知ってるし、何もしないからさ」


 何もしないならそもそも声掛けんな。そう思い、美彩の腕を引っ張ろうとした。


「そんな男ほっといて、さっ!」


 その伸ばした腕を、僕の腕をガシッと掴まれ、引っ張られ、体制を崩した僕の腹に、膝が飛んできた。


 あまりに唐突な出来事に、僕はなすすべなく、モロにその膝蹴りを喰らい、気を失いそうになる。


 息ができない。苦しい。


 腹を抑えて地面にへたり込み、冷たいアスファルトに頬をつける。


「んじゃ行こっかー」


 そう言って美彩の肩を押す男性を目尻に、僕は起きあがろうと、必死にもがく。


 酔いは覚めた。それでも気持ち悪さと激痛は居座り続け、地べたに這いつくばさせるには十分だった。


 連れてかれる。何も出来ない自分に不甲斐なさを感じた瞬間、『バチッ』っと軽いビンタのような音がして、


「…………気安く触んな」


 刃物のように尖った言葉が、声が響いた。


 上がらない首を何とか捻じ曲げて捉えた視界には、肩に触ろうとした男性の手を払い除ける手と、黒いパンツが映った。


「……ただでさえややこしいのに、更にダルくすんなよ…なっ!!」


 ほぼ垂直蹴り上げた足は、僕に膝蹴りをした男性の顎に直撃し、仰け反らせ、後頭部から地面に落ちた。


 打ち所が悪かったら死んでいる。


 まるでアクション映画を見ているかの如く、綺麗な蹴りと、見事なやられっぷりだった。


 酔っ払い同士の喧嘩は、大して珍しくもない。酒の席で男女のいざこざがあるのも、よく知ってる。そのどちらでもない今の状況に理解が及ばず、僕は腹を抑えることしかできない。


「ダイジョブ?死んでない……死んでくれた方が嬉しいけど、聞きたいことがあるから今死なれると困るわ」


 もがき苦しむ僕に寄り、屈む彼女の表情は、いつものそれに戻った。白々しい演技はやめるらしい。


 手を引っ張られ肩を貸され、年下の少女に担がれるとは、なんとも情けない限りだが、今は情けなさなんかよりも大事なことがある。


「消えろ」


 肩に乗せようとした手を払われ、僕を蹴った友人が蹴られ、狐につままれた様な顔をした男性に、鋭すぎる言葉を投げて、美彩は僕を担ぎながら歩き出した。僕はもう、理解することすら諦めた。


 そんなこんなで蹴り蹴られ、お互いナンパが大失敗に終わった。まぁ、何で僕が蹴られたかは、未だに理解できんが。邪魔だったとしても、もう少し穏便な方法があっただろうに。


 たしかに引く気はなかったけど。


 急な喧嘩勃発でアドレナリンが形成されたのか、血圧と一緒にアルコールも回って脳がぐらつき、気を失っていたのか寝てたのかわからないが、少なくともそこで記憶は遮断された。

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