第38話 うめあめ

 夏の始まりはいつからかと問われても、実際にはいつの間にか始まっている物であって、特にこの日を境にとは言い難い。


 強いて言えば夏至げしからとか夏休みからとか、境目を決定付ける事は出来なくはないが、夏至はあくまで昼間の最も長い日であって、例年6月21日か22日でどちらかと言うと梅雨だし、夏休みは学年や学校によって日数も変わってくる。社会人ならば御盆が終わったら夏終わりとも受け取れるし。


 結局は季節の変わり目など、時の流れのグラデーションから各々の感覚で決めてるに過ぎず、そもそも季節という概念を定義付けた弊害とも言える。


 そんな僕にとっての夏の始まりは、雨が上がり梅雨が開ければ夏、すなわち洗濯物を外に干しても天気の心配をしなくなれば夏という、ひどく雑で大雑把な決め方なのだが。


 なので、もう少しで夏になる。具体的には来週の木曜あたりか。傘をさしていない右手で予報を確認する。


「そう言えば、近々新人入るんだっけか……」


 無意識のうちに歩いてしまうまでに染み付いた通勤路で独り言を呟きながら、濡れたアスファルトを踏み固める。


 新人、ねぇ。


 あまり期待してはいけない。想像を膨らませるほど、期待を裏切られるのは身をもって経験している。もっとも、自分がその立場ならと考えた結果でもあるが。


 誰だって初めは初心者で、新人で後輩で、右も左も分からないのだから、妙な期待を抱くのはあまりに酷だ。


 期待はしないに限る。それが僕の人間関係である。期待をしようがしまいが、裏切られる事実は変わらないが。


「店長、おはようございます」

「おはようございます。雨凄いねぇ」

「そっすね」


 少しでも掃除が楽になるよう、入り口のマットに靴の水分をこれでもかと言うほど染み込ませながら、陳列作業をしている店長に挨拶をする。


「そうそう並河君、明後日に新人の子と一緒のシフトにしといたから、色々教えてあげて?」

「あー、了解っす」


 明後日、か。早いな。


 近々とか来週とか耳にしていたけど、そんな急に……というか、僕が興味なくて聞き逃してるだけかも知れないけど。


 時間の流れに驚きつつ、レジ横を通り抜け、スタッフルームのドアノブを捻る。僕の一つ前のシフトが女子高生ではない事を、あらかじめ確認しているからノックなんてせずに、扉を開けて中に入る。


「おっ、おつー」

「おはようございますだろが」

「そんな堅苦しい挨拶せんでもええやろ。俺らの仲やん?」


 珍しく、本当に珍しくシフトの10分も前に待機していた葵に挨拶をして、僕もロッカーに荷物を詰め込む。


「こんな早くに珍しいじゃん」

「なんや。悪いか?」

「とても良いと思う。それこそ手本にするべき先輩の態度」

「せやろ?まぁ、シンプルに暇やったんやけど」


 退屈そうにパイプ椅子にもたれ掛かり、手元のスマホを見る年上の後輩を横目に、上着を脱ぎ、店の制服へと着替える。


 冬場と違い、制服を着てその上に私服を着る重ね着が出来ないから(出来なくはないけど、それをしたら地獄を見るから)、インナーまで脱いでから制服を着る。


「ジメッとしてほんまキモいねん。はよ梅雨開けへんかなー」

「後数週間の辛抱だろ」

「その数週間が長いねん」

「除湿機でも買えば?」

「どアホ。そんな事しょったら肌荒れてガサガサになんやろ」

「じゃあ我慢しろ」


 肌のためにって、女の子かお前は。僕も洗顔くらいはしてるけど、それじゃ足りないから僕の顔面は荒れてんだけど。


「せやせや。もう明後日に新人の子入るで?楽しみやんな」

「何が?」

「どないな子か気になるやろ?」

「神宮寺レベルじゃなかったらどんな子でも歓迎だよ」

「なんや?優ちゃんぐらいのルックスじゃ満足出来へんのかいな?」

「おつむの話してんの」


 あんたも相当だよと言いそうになってギリギリで止まった。


 前を閉めて、鏡を見て、前髪を整えて、ロッカーを閉じる。


「そりゃぁ欲を言えば仕事のできる子がいいよ。真面目で、素直で、気配りが出来て、小さい事もきちんとこなす、優秀な人材が欲しいよ。でも僕らは選ぶ側じゃなくて選ばれる側だ。来てくれるだけ有り難いと思った方がいい」

「………たしかに。なるほどなぁ」


 あと2分ほどしたらタイムカードを切って、仕事をしなくてはならない。この何をするには短すぎて、何もしないには長すぎる無駄な時間が、世界一嫌いと言っても過言ではない。時計の秒針を見つめる他、することが無いからだ。


 それでも今日は、いつもは遅れて来るが今日だけは話し相手がいるから、そんな2分間も、少しは短く感じた。


「前から思っとってんけど、彰。お前『お人好し』やろ?」

「え?僕が?」

「せや。お節介のうつけ者、いい人止まりの恋人未満で終わる一番得しないタイプやな」

「……………喧しいわ、ほっとけ」


 僕がお人好し?そんなわけ無いだろ。


 ただ期待していないだけだ。他人に対して興味が薄いだけだ。


 多分、僕が彼女らと関わっているのは、期待や興味などでは無く、保身及び自衛である。彼女らが無害だと、僕に被害をもたらしたりしないと、確認する為。そんな浅はかで下らない、面白味のない理由だ。


 だから、僕はお人好しなんかでは無い。例えそれが褒め言葉だとしても、決して。


「おら蒼、もう時間だぞ」

「俺の分も切ってぇや」

「自分でやれ」

「いけずー」


 僕をお人好しなんて言った仕返しだ。自分でやりやがれ。


「お?コレ新人ちゃんのタイムカードやない?」

「え、もう作られてんだ。早いな」

「へー。かわええ名前やん」


 貴方の名前は性別分からないから、会うまで不安だったという話は置いといて。


 別に興味なんてないけど、一応名前ぐらいは確認しておこう。


 この調子だとまた教育係を最後まで押し付けられそうだし、名前を間違えるのは酷く失礼だ。僕も「なびか」を「なみかわ」と、自分の苗字を読まれた時は少々気分を害す訳だし。


「何て名前?」

「なんや、やっぱ気になるんかいな」

「じゃあいいや。先行ってるわ」

「ちょっとからかっただけやん。へそ曲げんなや」


 面倒くさい奴やなと蒼は言いながら、彼のでも僕のでも誰のでも無い、持ち主不在のタイムカードを渡される。


 そこの名前には、目を疑う文字が並んでいた。


「…………………………………」


 ナイフを向けられたような冷や汗をかき、刺されたように脈打つ心臓を押さえながら、見間違いじゃないことをもう一度確認する。


 同姓同名を疑ってもいいが、そこそこ珍しい苗字で漢字まで一致してたら、恐らく彼女であろう。


 それに。


「何や?知り合いか?」

「向こうは覚えてないだろうけど、一応ね」


 そんな事はあり得ないと思いながら、先週の事を思い出しながら、僕は元あった場所に、タイムカードを戻す。


 やっぱり見間違いじゃない。彼女だ。


 過去は、切っても切り離せない。切りたくて切ったわけではないけれど。


 並河彰平のタイムカードを切り、夕焼蒼のタイムカードは切らずにホールに出る。


「お疲れ様でした。変わります」


 店長に挨拶をして、やりかけの仕事を交代する。


 手を動かしながら、僕は考える。彼女の考えを考える。


「偶然、なわけないか…………」


 何が目的かわからないけど、何もないわけがない。それだけは予想できる。


 厄介事はごめんだ。出来ることなら教育担当を蒼に変わってもらいたい。彼女の外見は名前通り可愛いから(僕はそうは思わない)、案外変わってくれそうではあるが、本人は納得しなさそうである。


「…………………胃薬、買うか……」


 何でも揃っているコンビニエンスストア。胃薬もちゃんと扱ってる。


 僕用に、多めに発注してくれないかと思いながら、新人と新人の化学変化が起こらないことを願いながら、賞味期限間近のおにぎりを棚から下ろす深夜11時。

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