第37話 面

 帰りの電車は帰宅ラッシュと被ってしまい、とても窮屈な思いをした。


 満員電車とまではいかないが、ちょっとした揺れや拍子で隣の人と肩がぶつかってしまうぐらいには、電車は混んでいた。


「お兄さんには感謝しないと。本当に助かった、ありがとう」


 つり革や手すりは掴まず、運良く空いた扉に背を預け、少女は礼を述べる。


「そして巻き込んでしまって申し訳ない。すまなかった」


 そして謝罪も。


 今日はよく感謝され謝罪される日だ。


「僕は望月の話を聞いただけで、何もしてないよ」

「それで十分なんだよ。いや、それが全てと言ってもいいかな」


 扉に嵌め込まれた窓ガラスの外、街が夕日を飲み込んでいく。


 彼女は喧嘩っ早い性格ではないだろう。なのに今日のアレは何だったのだろうか。


 喧嘩ではない仲違なかたがい。心なしか、焦ってる様にも感じたアレは一体…………。


「人間は弱いから、つい楽な方へ逃げてしまい、いづれは決意も覚悟も忘れてしまうものだよ」


 そんな僕を見透かした様に、針ヶ谷は口に出していない問いの回答を吐き出す。


「忘れる事で生きていける。大事な事も、要らないことも、忘れる事で人間は生きていける。でもさ……」


 藍色の瞳に橙色の光が混ざる。


「忘れてはいけない事を忘れた時、誰かが思い出させてあげないと、それは消えてしまうから。それぐらい時間の力は強い」


 そっと、針ヶ谷の右手は、彼女の左腕をさする。薄い化粧ベールの下には、おびただしい数の傷がある。きっとそこにも。


 その行動が無意識か有意識かわからないけど、僕にはそれが、「忘れたい事ほど忘れられない」と言っているようにも見えた。


 僅かな沈黙を挟み、口を開いたのは針ヶ谷だった。


「それで?穂乃佳からはどこまで聞いたのかな?」

「…………多分、全部話してくれたと思うけど」

「全部じゃないかも知れないじゃないか。僕の口から話す気は無いけどね」

「…………1から、あのグループに入るまで」


 こんな人混みの中で「いじめ」なんて言葉を口にするのが嫌で、つい濁してしまった。


「…………つかぬ事を聞くけど、彼女の名前は出てきたかい?」

「彼女?神宮寺の事か?」


 それを聞いた針ヶ谷は少し驚いたような顔をして、


「そっか………なるほどね………。なるほどなるほど、そういう事か……」

「…………何か、不味かったか?」

「いやいや関係無いよ。こっちの話さ」


 困った様に、また寂しそうに、しかし嬉しそうに、短いため息をついた。彼女と言うのが誰なのか僕にはわからないが、少なくとも神宮寺では無いのだろう。


 だとしたら、誰だ?


 まぁ、それを聞く前に話を逸らされては仕方がない。


「それよりさ、『コレ』。もし良かったら、お兄さんが預かっててくれないかな?」


 そう言って針ヶ谷が差し出したのは、本来なら彼女の持ち物である筈の、大切な物の筈の、ひょっとこのお面だった。


「覚悟の証だそうだ。もう2度と、……3度と、過去の自分に戻らない為に、誰かに預かってて欲しいそうだ」

「あぁ、ソレそういう事だったのか」


 また、仲直りの証でもある様に、僕には思えるが。


「でも、手の届くより手が届かない場所、手を伸ばしやすい人より手を伸ばしにくい人に、預かってもらった方がいいと思ってね」

「お子様の手の届かない所に保管的な?中学生はお子様じゃないだろ」

「半分ね」


 僕より大人びた中学生に言われても、説得力無いけど。


「でも、望月は針ヶ谷に預かってて欲しいから預けたんだと思う。だから、それは針ヶ谷が持つべきだ」


 少なくとも僕はそう思った。


 彼女の元にない事も、もちろん重要だけど、きっとそれは彼女にとって大切な物だから、安心出来る人に預かってて欲しい物だろう。僕では役不足だ。


「そうか。………そうかもね」


 そう言って、ひょっとこのお面はトートバッグに戻される。


 その時、チラッと見えた。見てしまった。見えてしまった。


 女性のバッグの中を見るのはデリカシーに欠ける行為だが、見えてしまったのはもうどうしようも無い。


 ただそれに触れるかは、僕の意思であり、言わない事を僕は選ぶ。多分他の人も触れない様に、僕も触れない。


「近々、僕の家に穂乃佳も呼ぼうと思っているんだ。両親の庇護欲を削ぐと同時に、過保護からの脱却も必要だからね」

「なるほど」

「来週辺りに予定しているが、それはそうと今日の夕飯は食べていくかい?」

「あぁ、有り難く頂いて行く。コレから作れる気がしないからな」

「それは良かった」


 針ヶ谷は嬉しそうに笑う。


 上がる口角は低く、声色も殆ど変わらない些細な変化ではあるが、そうなのだと分かった。身近な人が嬉しそうに笑うと、何故だか僕まで嬉しくなって、釣られて笑ってしまう。


 ブレーキが掛かると慣性の法則が働いて、僕はちょっとだけグラつき、磁石の様に銀色のポールに引き寄せられる。


 踏ん張りの効きづらい足で何とか耐えても、予想外の方向には無力で、糸を引いたタコの様に、あるいは糸を引かれた操り人形の様に、扉の方向に飛ばされる。


「っ…………悪い…………」

「気にしなくていい」

「……………………悪い………」


 一時期前に流行った壁ドンの様に、勢いのあまり咄嗟に手をついた僕は、針ヶ谷を電車の扉と僕とでサンドイッチしてしまい、一歩間違えれば犯罪になっていた所だ。例え中学生であっても彼女は女の子だ。


 今だけは平均より少し高い身長に感謝した。


「………………………………」

「………………………………」


 反対側の扉が開くも、降りた人と乗った人がトントンで、混み具合は変わらず、次の駅では逆に増えてしまい、2、3駅の間針ヶ谷に辛抱を強いてしまった。


 最寄駅に着く頃には精神的にも肉体的にも疲れてしまい、吐き出される様に電車を出た。


 同じように吐き出され脱出した乗客の中には、定時退社をしたであろうサラリーマンと、部活帰りか下校時間か分からないが数十名の高校生が、それぞれ異なる疲労感を抱えたまま改札を潜る。


 夏がもうすぐそこまで近づいてはいるが、車内の冷房はすでに効いてるから、もちろん僕らのように真っ赤な顔をしてる人は1人もいない。沈んだ太陽に照らされ、頬が白くなる人もいない。


 でも、見つけてしまった。他の人達とは違い、僕らとも違う人を。


 それとは違うけど、目を引かない、引くはずもない要因に、僕は目を引かれ、見つけてしまった。


「……………………リオ…………?」


 しばらく口にしていなかった名前を、そこにいるはずのない名前を、もう呼ぶことの無い筈だった名前を、忘れていた名前を、僕は無意識のうちに呟いていた。


 見間違いかもしれない。多分、いや、きっとそうだ。彼女がこんな所にいる筈はない。僕の見間違いあるいは他人の空似だろう。


 とっくに人混みに飲まれた後ろ姿から目を逸らし、僕も電車を降りる。


「知り合いかい?」


 僕の独り言を聞き逃さなかった針ヶ谷は、僕に問いかける。


「…………まあね……」


 煮え切らない切り返しをして、僕は改札へ足を運ぶ。


 過去というのはそう簡単に切れない。例え距離を置いても、ふとした瞬間に思い出すか知らぬ間に飲まれてる。今日、それを実感した。


 さっきと今。


 約束は破る為に結ぶ様に、覚悟も決意もいずれは揺らぐ。人間は弱いから。


 夕日が落ちた夕暮れ時、慌てん坊の日暮ひぐらしが鳴くアジトの最寄駅には、梅雨入りを匂わせるじめっとした空気が、僕らの向かう道と逆方向へ、電車に押し流されていた。

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