第36話 みんな一緒

 いじめの始まりはとてつもなく不透明で不可解で曖昧な「なんか気に入らない」という動機。


 無意識に相手を傷つけ始める感情は、たった一人から波紋を広げ、周りの人達は遊び半分で同意して、同調して、協力する。そうやって事さ大きくしていく、エスカレートしていく。


「最初は気づかないぐらい小さな事でした。どこからいじめかはわかりませんが、少なくとも気づいた時には、もう始まっていたんです」


 私物が消えたらしい。消しゴムや鉛筆が頻繁に紛失していった。


 そこから段々と事は熱を帯びていき、少しずつ日常から笑顔は消えていった。


「トイレに入ると毎回上から水かけられました。靴に画鋲がびょうが入ってるのはまだマシな方で、ひどい時は下駄箱から溢れるほどゴミが入ってました」


 そのレベルまで行けば教師が気付かないはずはないのに、いつも通り日常は続いた。


「他にも私の机や椅子に落書きをされたり、ロッカーに虫が入ってたこともあります」


 それでも教師は無視を続け、クラスメイトはやめなかった。勇気を振り絞って教師に相談してみたら「望月の勘違いじゃないか?」とか「ただのじゃれ合いだろ」。おまけに「お前にも非があるんじゃないか?」と。


「でも、幸いなことに見つけてもらえたんです。偶然通りかかった保健室の先生が」


 望月に対して、大丈夫?と言ったらしい。明らかに大丈夫な訳ないだろうに。


 やっと解放されると思ったら、終止符は打たれなかった。


 悪化した。悪い方へ進んだのだった。


 いじめが問題になって浮上して多くの部外者及び関係者に見られると、それまた多くの意見が出てくる。


 「あいつが悪い」なんて言う見て見ぬフリを続けたクラスメイト。「チクりやがって、もっと酷い目に合わせてやる」と罪を認めない主犯。「ウチの子になんてことをするの」子供の気持ちも知らずに言い争う両方の親。「学校側としては適切に処理し、今後このような事がないように対応していく所存です。放課後全生徒にアンケートをとり………」口先だけで中身のない、表面だけ取り繕って問題を揉み消したいだけの教師たち。「バカじゃないの?頭おかしい。いじめられる方にも問題がある」新しいゲーム気分で、遊びとしてナイフを刺し続けるネット傍観者。部外者の言い争い。


「…………辛かったです。すごく、辛かったです。やっといじめから解放されたと思ったのに、これじゃ何も解決していないんですから」


 誰も彼も、いじめられた人の気持ちなんて考えていない。誰一人として解決する気はなく、何一つ考えもせず、ただひたすら自分勝手に話を広げていく。自分勝手に言いたい事を言い続ける。


「いじめはよくないって、多分この年になればみんなわかってます。いや、わかっていても、ちゃんと理解できるのはごく一部なのかもしれません」


 いじめが容認されるなんて、そんなの間違っている。誰だってそう言う。でも誰も助けようとしない。次は自分に行くかもしれないから。他人を庇ってまで自分を傷つけたくない。正義風情の偽善者。


 キャンパスには色を塗りすぎてもうどうしようもないならどうするか。簡単な解決法。真っ黒に塗り潰して他の色を消す。それか……


「あの時に、私は救われたんです」


 望月はその時に、神宮寺に出会った。


「そっか。大変だったね。そして辛かったね」


 そう言って、まるで太陽のように笑ったらしい。


 当時、初対面の望月の話を、(僕には想像出来ないが)一言も口を挟まず、静かに彼女の出来事を聞いていたらしい。


 事の発端から現状まで聞いた後、神宮寺が口にしたのは、


「それで、穂乃果はどうしたいの?」


 そう聞いたらしい。


 意見とか感想とかではなく、神宮寺が口にしたのは問いだった。


「………どうしたいか……………」

「そう。どうしたいのか、どう成りたいのか。一番大事なのはそこだよ」


 彼女が一番欲しかった言葉だった。


「…………私、は………………私は……」


 なけなしの勇気を振り絞って、彼女が選んだ選択肢。流されやすい彼女が選んだ、誰に指図された物ではない、彼女自身の選択。


 泣き虫な自分が嫌いだったそうだ。でも治らなかった。泣かないようにすればするほど、我慢しようとすればするほど、涙が溢れてしまって。


 いじめられた時も泣いていた。発覚した時も泣いていた。手を差し伸べてもらえた時も泣いていた。


 でもその時だけは、強い涙だったそうだ。


 その時だけは、拭いたくない涙だった。


「………………私は、変わりたい………」


 塗るでもなく、消すでもなく、剥がす事を選んだ。


 カラフルでドス黒いインクを塗ったくったキャンバスを剥がして、破り捨てて、もう一度真っ新な状態に、けれど、もうこれ以上汚されないように。


「そう、心に誓った筈なんですけどね………」


 泣き止んだ彼女は、目元を真っ赤にして、赤みを帯びた日差しが写し出す影を、虚な目で見ていた。




「………………瑞ちゃんには感謝しないと……」

「……………………そうだな。ついでに仲直りしてくれると、僕も有難い」

「………………はい。ちょっと、行ってきますね」


 困ったような笑みを浮かべ、目元を服の袖で拭り、少女は立ち上がる。


 足取りはフラついていない、大丈夫そうだ。


 ドアノブを握り、友人が出て行った扉を開けて外へ出る。


 と、その前に。


 思いついたように、少女は自分の勉強机に寄って、パソコンの横にある物を手に取った。今は必要ないと思うけど、何に使うのか。


 もう一度扉を開けて、少女は向き直る。


「彰平さん、あの………改めて、本当にごめんなさい。巻き込んでしまって。…………あと、ありがとうございます。………助かりました。……ありがとうございます」


 僕に向かって深々とお辞儀をして、謝罪と感謝を述べる。


「人に打ち明けるって、こんなに気持ちいいものなんですね。…………思い出しました」

「…………謝られる事をされた覚えはないぞ。これからもよろしくな、望月」

「はい!」


 そう笑った少女は勢いよく廊下に出てって、


「……………あの……」


 すぐ戻って来て、


「……図々しいお願い、なんですけど…………」

「ん?」

「あの、……その、…………名前………」

「名前?」

「………………………………………………………やっぱり何でもないです!変なこと言ってごめんなさい!!」


 また勢いよく廊下に出てってしまった。


 真っ赤な顔を、例の大切な物で隠して。


「………………………何だったんだ……」


 彼女は流されやすい性格ではあるものの、無個性ではない。バリバリ個性があって、彼女らしい性格を持っている。無個性な僕が言うのだから間違いない。


 何にせよ元気が出てよかった。あと、仲良くなれて良かった。


 僕の部屋ではないのに、僕しかいない部屋で、ふと壁にかけられた不気味なほど可愛らしい時計を見て、天井を見上げる。


 17時10分。もうそろっとお暇した方がいいだろう。両親が帰って来るだろうから。


 溺愛故の暴虐。その事の発端を僕は知った訳だけど、正直言って同情せざる終えなかった。


 あの両親に。同情してしまった。


 可哀想だと思った。出来る事なら守ってあげたいと思った。力を貸したい。力になってあげたい。手を差し伸べたい。


 でもそれが、差し伸べた手が、彼女の首を絞めてしまう。変わりたいと思う彼女の首を。良かれと思った行動が裏目に出てしまうことは、そう珍しくない。


「…………………………」


 あと、針ヶ谷のアレは、演技だったのだろうか。


 来る前に、いやそれ以前に、1週間前に、決めていたのだろうか。


 喧嘩にすらなっていない、一方的に傷つけるような言葉を浴びせる事を。


 望月の過去や本心を知れたのは、彼女の口から語らせたのは、彼女にとっても僕にとっても、良いことではあったが、果たして無理して、痛めつけて傷つけてこじ開けて、そこまでして聞くべき事だったのだろうか。


 結果的には良い方向に進んだけど、もし………。


「……………………はぁ…………」


 確かに、針ヶ谷が事前に言ったように、どっと疲れた。バイトを入れないで正解だった。


 帰る支度をしよう。


 変わりたいと決心した彼女に、僕がするべきことは何も無い。何もしてはいけない。手を貸す事も応援する事も、多分、彼女の成長の邪魔になってしまうから。それではあの人達と変わらない。


 成長を、覚悟を、決心を、見届ける以外に僕が出来ることはなく、それ以外してはいけない。


 もう少し待って、2人が仲直りしたら僕も降りよう。手持ち無沙汰だから、もう一杯だけお茶を頂いて。


「…………………こんなもんか………」


 苦く渋い茶も、何回か飲めば気にならないぐらいに舌が狂って、水みたいに飲める様になるのだろう。


 それが悪いとは思わない。ぬるま湯に浸かる人生で良いなら、僕は何も言わない。恐らく、僕もそっち側だろう。


 ただ、変わりたいと願うなら、そう望んだなら、火傷する様な熱湯も、凍えそうな冷水も、耐え忍ぶ覚悟が必要だ。


「…………………与えられ叶う幸福より、望み叶える幸福か……………。幸福ならなんでも良いと思うけどな………」


 それを良しとしないのだろう。真面目で誠実で素直だ。純粋ゆえの強さと弱さを持った、心優しい子だ。汚れを知らぬ、純真な少女だ。


 羨ましい。そして妬ましい。


「………ごちそうさまでした」


 もうお腹いっぱいです。

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