1 ハード・デイズ・ナイト 02

       *


 裏通りにある少々入り組んだ狭い小道の一角に、喫茶店『ジョニー・ビー』は佇んでいた。

 暁介はその住み慣れたの前に立ち、中を窺う。入口には「CLOSED」と書かれた札が掛けられていたが、ドアに付いたガラスを通して、店内には先客がいるのが見えた。女性だ。そして客席ではなくカウンターで、俯きながら流し台を使っている。つやのある栗色の髪は肩に掛かる長さで、わずかに巻き気味で整えている。白い肌を持つ顔立ちは見目麗しく、右の目元に小さな泣きぼくろがある。加えて、均整の取れた体型も持ち合わせていた。

 馴染みがありすぎる人物だった。

 ドアを開ける。ちりんちりん、という間の抜けたベルの音。中にいた女性はそれに反応し振り向くと、すぐさま、あっ、と気付き、太陽のようにぱあっと笑った。

「おはようキョウくん! ……って寝癖凄いね」

 顔が苦笑いにころりと変わる。表情の差異が分かりやすいのもいつも通り。

夏芽なつめ、今日は取材だっつってなかったか?」

 暁介が問うと、鈴森すずもり夏芽は流し台で洗い物をする手を動かしたまま、うん、と頷いた。

「家を出るのがちょっと早すぎてね、時間潰しも兼ねて寄ったの。ついでにお手伝いでもしようかなあ、と思って」

 言いつつ、彼女はスポンジを手に取ると、新たに食器をこすり始めた。しゃく、しゃく、と泡立った洗剤が音を立てる。

 暁介が奥から三つ目の椅子に座ったところで、流し台に目を落としていた夏芽が眉をひそめ、咎める声を上げた。

「ねえこれ昨日使った食器でしょ? 駄目じゃんちゃんと昨日のうちに片付けとかないと。一応飲食店なんだしさ」

 しまった。暁介は言いわけによる反論を試みた。小声で。

「いいじゃんか別に……客が来るわけでもねえんだし」

「いやそれはそれでよくないって……」夏芽は如何にも呆れた様子で溜め息をついた。「普段からお店は綺麗にしておかないと、喫茶店はおろか、の方だって誰も来なくなっちゃうよ? 見かけの印象って大事だよ」

 そう言われると何も言い返せない。仕事がなくなるのは困る。渋々頷くと、夏芽は「分かればよろしい」と芝居っぽく偉ぶり、そして茶目っ気のある笑みをふっと見せた。かれこれ十数年見てきた。身なりや雰囲気は大人らしくなった一方で、笑ったときの無邪気さや子どもっぽさは変わらない。少し微笑ましく思った。

「コーヒー飲む?」と夏芽が訊いた。

「ああ、悪い」

 暁介が答えるとすぐ、彼女はケトルでお湯を沸かし始めた。既に準備はしていたらしく手際がいい。何気なくその様を見ていた暁介は、不意に、足の裏に蓄えた不快感を思い出した。

「すまん夏芽、もいっこ」人差し指を立てて注文。「歯ブラシと油をくれ」

「油? いいけど何に使うの」夏芽は不思議そうに首をかしげた。暁介は答えに窮した。事が事なだけに正直に言うのは癪だ。夏音はほんのわずかに考えるそぶりを見せると、突然「あっ」と声を上げ、何かを思い付いた様子で両手をぽん、と打ち鳴らした。そして、こちらに見てにんまりと笑った。

「分かった。ガムかなんか踏んづけたんでしょ」

 ……彼女の勘の良さには今さら驚かない。しかし腹は立つ。むすっと黙り込み目を逸らす暁介を見て、夏芽はふふっといたずらっぽく笑ったあと、使わない歯ブラシあったかな、と呟きつつカウンターの奥へと消えた。

 暁介は目の端でそれを見届けると、ゆっくりと体を回しながら、見慣れた店の中を眺めた。照明を点けていない今は少々薄暗い。テーブルが合わせて四つあるが、それら全てが埋まっているのをこれまで見たことがなかった。あまりにも見慣れすぎて、今さら思うことも何もない。

 と、上の階から階段を下りてくる足音が聞こえた。とす、とす、と、気怠さが音からでも伝わってくる。

 ほどなくして、カウンターの外側にある出入り口から、朗らかな朝には到底似つかわしくない、不機嫌な顔の男が現れた。細身で長身。髪は首にわずかに掛かるほどの長さで、まっすぐのれんのように垂れている。目は小型ナイフのように鋭く、引き締まった口と高い鼻は、端正であると同時に鷹を思い起こさせる。今はそれが、普段以上に輪をかけて無愛想に見えた。

 暁介はにやりと笑って冷やかす。「重役出勤だなシュウ」

「お前は人のこと言えねえだろキョウ」

 葛城かつらぎ柊人しゅうとはこちらに目もくれず、未だ眠そうな頭をゾンビのように傾かせながら、かったるい動きで壁際の椅子に座った。暁介との間に一人分の空席ができる。

「俺は今日七時に起きたぞ」

「今日じゃねえいつもの話だよ。大体俺だって別に遅かねえ」

 面倒臭げにそう言って、彼は壁に掛かった時計を顎で示した。針はちょうど八時を回ろうとしていた。

 そこへ、歯ブラシを持った夏芽が戻ってきた。

「あ、シュウくんおはよう。重役出勤だねえ」

 思わず吹き出しそうになりぐっとこらえる。柊人はと言えば、忌々しげに顔をしかめたものの反論をすることもなく、ふてくされたように頬杖を付き、「……夏音、コーヒー」とだけ言った。

「ええ~自分で淹れればいいじゃん」

「オトモダチからのささやかなお願いだよ」

「『トモダチ』でないところがみそだね。極めて心がこもってないっ」

 全くもう、と不満を漏らしながら、夏芽は暁介に歯ブラシと、キッチンに置かれたサラダ油を手渡してきた。そしてそのまま、流れるようにコーヒーの豆を準備し、熱湯を回し入れるように注ぐ。ちゃっかりと鼻歌など歌い、表情はご機嫌だった。そのうち、辺りに香ばしい匂いが漂い始めた。

 黒い液体が、こぽぽぽ、とカップに注がれる。その音を聞きながら、暁介はふと思い付いたことを訊ねた。

「そういや、は今日も留守番か?」

 夏芽は頷く。「基本的にはね。でも最近は、たまに外出もしてるんだよ。紗奈さなちゃん、ちょっとずつだけど明るくなってきてる気がするんだよねえ。この場にいないのお陰かな?」

 二人分のカップをそれぞれの前に置いて、わざとらしくにやりと笑う。

 おそらく彼女と同じ顔を思い浮かべた暁介も、つられて軽口を叩く。「その誰かさんは、今日も下宿に戻ってるらしいぞ」

「あれ? ひょっとして寂しい?」と夏芽は茶化した。

「んなわけねえだろ。大体あいつら二人とも十代じゃんか。こんな狭い家にいたら邪魔になってしゃあねえよ」

「ひっどいこと言う。私だってアパートひと部屋であの子と住んでるんですけど?」

 非難しつつ楽しげに笑みをこぼす彼女。ところが、不意に会話が途切れると。何か思うところがあったのか、俯いたまま神妙な顔つきになっていった。彼女の、この意を決したような表情は、大抵あまり喜ばしくない話を始める印だった。

「やっぱりさ」声が重い。「そろそろ私たちも、力を貸すべきだと思う。すばるくんの叔父さんのこととか、――紗奈ちゃんの学校のこととか」

 暁介は言葉に詰まる。考えることを避けていた話題だ。顔をしかめながら頭を掻き、努めて深刻さを出さないように意見を述べる。

「んー力を貸すっつってもなあ、結局はあいつらの気持ち次第だろ。俺たちは言っちまえば……まあ余所者だし? 本人が頼んでくれば話は別だけども、親戚でもない人間が、あんま立ち入ったことしない方がいいんでないかねえ」

 口にしながら、自分でも卑怯な考えだと思う。しかし同時にこれは、言いわけでもなく本心ではあった。

 夏芽は視線を下に落としたまま、複雑そうな顔をした。「正直私も、結構迷ってる。けど……親のいない二人にとっては、今は私たちが親代わりみたいなものだし」

 そう言って暁介をまっすぐ見る。目は真剣で切実だった。

「今のあの子たちには、頼れる大人が必要なんだよ」

 すると突然、

「……大人、ねえ」

 横から小さく声がした。二人揃ってそちらを見ると、柊人は目線はこちらに寄越さないまま、微かに嘲るような笑みを浮かべていた。

「……何?」夏芽の声が、わずかに険を含む。

 柊人は意に介さない様子で続けた。「俺たちがそんな立派な“大人”かって話だよ。ここなんて、まともな仕事もやってねえ社会不適合者の溜まり場じゃねえか」

 それを聞いた夏芽は、顔をわずかに険しくした。「預かってるのは私たちでしょ。大人かどうかは問題じゃない」

「じゃあどういう問題だ。俺は自分からあいつらを預かるなんざ言ってねえよ。それにお前はまだいいじゃねえか。雑誌記者なんて立派な肩書き持ってんだから。ガキのお守りができるならついでに俺たちも養ってくれ」

「……っ、あんたねえ……!」

 暁介はこめかみを押さえる。勘弁してくれ。こういう空気は苦手だ。ひとまずは隣の悪友をたしなめることにしよう、と考え、思い切って口を開きかけた。

 入口のベルが鳴ったのはそのときだった。

 三人ともが一斉にドアの方を向いた。暁介は口を半開きにしたままで。

 そこには、制服を着た一人の少女が立っていた。髪を後ろで一つに束ね、鞄を肩に掛けている。彼女は初めにこちらを訝しそうに見つめ、それから遠慮がちに店内を見回したあと、また視線を戻し、おずおずといった様子で「あの……」と口を開いた。

「ここは〈〉ですか?」

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