寿命という究極の締め切り

こんなところで執筆時間を消費している場合ではない。骨髄移植が近いというのに未完の小説が三つもある。ひとつは終わらせ方がわからないのでもういい。もうひとつはさほど重要ではない。最後のひとつ、「一劫にて愛を誓え」、これに心血を注ぎ、抗癌剤治療中にも血反吐を吐きながら書き続けてきた。そして今、だいたい八〇%くらいは書けている。残りの二〇%を、移植前処置が始まる十一月二十日までに書き終えられる自信がない。

ただでさえ遅筆、ましてやもう書きたいところをほとんど書いてしまって、それぞれの合間をつなぐ文章を書いていく段階では尚更だ。

骨髄移植のドナーは姉。他人からの移植に比べてより安全な橋ではあるが、抗癌剤を使うときのアクシデントがあまりにも多い。膵臓が死にかけたり肝臓が怠けて薬の代謝が遅れたり。いくらクリーンルームに収容されるとはいえ、自分自身が持つ常在菌からは結局逃れられず、日和見感染のリスクは常についてまわる。そして何かに感染すれば、免疫細胞を全く持たない状態では、ただの最高の餌場となるしかない。考えられる分岐はいくらでもある。

正直、小説以外に生きがいを見いだせていない今、思い描いている話をすべて書き終えたときが最高の、人生の諦めどきだと思う。それを踏まえて、ちょうど「一劫――」を書いているときに再発し、それが僕の体力を奪う速度があまりにも大きく、死ぬまでに完結させられないことを悟ったので、移植を決めた。そうして延ばした「締め切り」にすら間に合わなそうだ。

死はどうにもならない。医師がいようと最終的には自分の体力と運が頼りになる。万が一締め切りが締め切りとして立ちはだかってしまったら、今度こそそれからは逃れられない。

読者の少ない自分の小説でも、自分が生きた証として残るという大切な任務を背負っている。頭でっかちで捻くれた惨めな青二才が唯一、自己効力感を養うことのできる、細い食事だ。

まだ清書していない手書きの下書きもある。それも完結していない。下書きできている分は、自分が死んだあと代わりに清書、公開するよう他の人に頼んである。

移植後の生存率を知らないこともあって、移植直前の今も、あまり現実味を感じられていない。

どこまでいけるかわからない。来週死ぬかもしれないし、人生百二十年時代に乗っかれるかもしれない。いや百二十年生きたとしても、その長さに見合うアウトプットが伴っていなければ、ただの穀潰しだ。これからの経済先細りで、穀潰しはより強く、穀潰しとして冷ややかな目で見られることになろう。来週だろうが一世紀後だろうが、生きがいを失ったときが死に時だ。

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よく死にかける人が死について考える話 雷之電 @rainoden

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