8 お庭でお茶を

8 お庭でお茶を


「武文様、小鳥がいますよ」

 アワレはティーセットを持ちながらキョロキョロ辺りの樹を眺め、小鳥や木の実を見つける度に楽しそうにはしゃいでいる。右手にティーバッグとポットの入ったバスケットを持ちながら、左手にはテーブルと椅子を組んで持っている。人間ではありえない光景だ。

 高く晴れ渡った秋晴れの下、木々の枝葉は秋色に変わりつつある。煉瓦で舗装された正門までの道を少し抜け、庭師が刈りこんだ見事な植木を横目に見やりながら、俺達は樹が乱立している区画へと進んでいった。

「この辺りは、あまり手が行き届いていないのですね」

「ああ、この辺りはわざとそうしてるんだ。母さんの趣味だったんだよ。手を加えない自然のままの姿を、愛した人だったから……」

 母さんが家に居る時は、よくここで遊んだ。夏には涼を求め、冬には温もりを求め、共に母さんと過ごした。

「武文様のお母様でしたら、きっと素敵な方なんでしょうね」

 笑顔でそう言うアワレは、もう母さんがこの世にいない事を、まだ知らなかった。

「そうだな、自然を愛して、色んな人を救おうと考えて、忙しく世界を飛び回ってたよ。家にいる時間も短かったけど、たまに顔を見せる度に輝きが増していく母さんが大好きだった」

 世界をボランティアで駆け巡り、難民や飢えで苦しんでいる人達を献身的に助けた。その為、名も知らぬ土地で貰った伝染病に掛かって死んでしまった母さんだけど、俺は誇らしく思っていた。父さんは、母さんの好きにさせていた事で、随分と自分を責めていたようだけど……。

「この辺りがよろしいですかね?」

「ああ、そうだな」

 ぽっかりと出来た陽だまりの中に、アワレは椅子とテーブルをセットし、鞄の中から取り出したティーセットでお茶を淹れた。強く甘い芳香が木々の香りと交わり、心に沁みこんでいく。

「さ、武文様」

 差し出されたティーカップを一口啜る。

 口の中で甘みと渋みが広がっていく。自然の中で味わうには、とてもマッチしていると思えた。

「美味い、美味いよ、アワレ」

 先程の事を思い出し、口に出してみた。アワレの顔にも笑みが満ちる。

「はい、それはようございました」

 もう一口啜り、ティーカップを一度置く。小鳥の囀りと木々のざわめきをBGMに、紅茶の甘い香りと澄んだ空気の心地よさを肺の中に目一杯押し込む。脳が喜ぶのを感じる。頭痛がなりを潜めるのを感じる。

『武文、人間もね、自然の一部なの。だから、こうやって自然のままの空間に身体を浸す事って、とっても大事なのよ』

 中学生くらいの時に、母さんとここでお茶を飲んだ。その時の会話を、今鮮明に思い出した。

『母さんはね、人が人を助けたいと願うのも、自然な事だと思うの。だから、本当はお父さんには反対されてるんだけど、じっとしてなんていられないのよ。でもお父さんはね、お母さんの事を心配してくれてるだけなの。だから、お父さんの事、嫌いにならないでね』

 そう笑う母さんの横で、俺も出来れば母さんには家に居て欲しいと、少し駄々をこねた。母さんのしている事は誇りに思っていたが、今思えば、やはり寂しくもあったのだろう。母さんは、やっぱりお父さんと同じこと言うのねと、聞いてるんだか聞いてないんだか分からない態度で、再び笑った。

 背もたれに身体を預け、木々の隙間から見える太陽を薄く閉じた瞼の隙間から見つめる。時折鳥の影が視界をちらつき、チチと音を立て去っていく。母さんとの事も、最近はあまり思い出さなくなっていたのに、ここに来ると、否応なしに思い出してしまう。

 太陽が、水の底に沈む……。

 慌てて目を擦り、視界を元に戻す。強く擦ったため、瞼が少し熱くなる。そう、強く擦ったためだ……。

「アワレ」

「はい、何でしょう?」

「ここは、いい場所だろ?」

 聞くと、返事はすぐに返ってきた。

「はい、ここはとても素敵な場所です。この中にいると、自分のいる世界が素敵な物だと再認識出来ます」

 その時アワレの肩に、一羽の小鳥が羽を休めに来た。

 アワレがそっと手を近づけると、小鳥はその指先を首を傾げてから啄み始めた。アワレはそれを見て、コロコロと笑う。それを見ていて、俺の口角も自然にあがる。

 毎日機械に囲まれ、外に出ることをしなかった。

 いや、きっと、外に出るという事自体を忘れてしまっていたのだろう。

 家畜の羊は柵が開け放たれても逃げることは無いと言う。自分が逃げる必要性も無ければ、外に出て安全だと言う保障も無い。第一、外に出ようという考えにすら思考は到達しないのかもしれない。ここにいれば安全で、食事も与えられるし、それなりの生活が出来て、後はいつか死ぬ時まで穏やかな毎日だ。

 自分に重ねてみた時、それは果たして本当に幸せなんだろうか、と思い至る。そして、視点を少し変えて客観的に見た時、思うのだ。所詮、飼われているだけなのではないか、と……。

 安全と安定は、時に人を堕落させる。痛みの無い人生なんて、平坦な道を目的も無く歩くようなもんだ。鳴り止まない頭痛は、もしかしたら俺に毎日語りかけているのかもしれない。

 生きろ、ちゃんと生きろと……。

「武文様、宜しければもう一杯いかがですか?」

 アワレの申し出を受け、カップに残ったお茶を飲み干し、空になったカップを手渡す。アワレは再び白いカップの内側をダージリンで満たす。カップを受け取り、アワレに話しかけた。

「アワレ……、俺、一つ気づいたよ。今のままじゃいけないんじゃないかって……」

 自分の声が、少しだけ湿り気を帯びている事に、声を出してから気づいた。

「それはようございました。ですが武文様、あまりご無理はなさらないで下さいね。アワレは、いつでも武文様の傍におります故、何かありましたら、何なりとお声をお掛け下さい」

 アワレは優しくそう返してくれた。

 淹れて貰ったお茶を一口啜る。

 優しくて、渋くて、甘くて、美味しかった……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る