第2話 一変したあたしの世界

レッド ハウスは馴染みのバー。店主のリバースって40過ぎくらいのロック、映画通の独身貴族がシェイカーを振っている店だ。貴族ってのは誇大し過ぎで庶民的で当たり障りの無い人だ。ジミ ヘンドリックスの熱狂的なファンのリバースがそのジミの曲から店名を拝借して赤を基調にした可愛くてお洒落な作りのバーだ。7人掛けのマホガニーで誂えられたバーカウンターと4人掛けのテーブル席が2組設けられているこじんまりした店でレコードのジャケットや映画のポスターなんかが額に入れられて壁に掛けられている。店内に入ると時間帯も早かったせいかあたし達意外の客はいなかった。カウンターの向こうで銜え煙草でローリングストーン誌を呼んでいるリバースが視線を上げてこっちを向いた。「やあ、ミランダ、いらっしゃい。今日はラナも一緒だね」あたしとラナはコートを脱いでバーカウンターに座った。リバースがあたしとラナのコートをハンガーに掛けてくれて店内の入り口付近にあるスチールラックに掛けてくれた。「リバース繁盛してる?」「そう見えるかい?」店内を一望して肩をすくめてリバースが言った。「2週間前くらいだったかな?カーラが彼氏と友人のカップルとのダブルデートで来てくれたよ」「へえ、そうだったんだ。カーラ先輩、何も言ってなかったから知らなかった。リバース、夜はまだまだこれからよ」あたしはリバースにウインクして言った。「今日は雨だから客足は鈍そうだよ。何、飲む?」「あたしはジントニック。ラナは?」「あたしは、うーん、ジャック ローズ」「あいよ」店内にかっこいいロックが流れている。「今、流れてるの誰なの?」リバースがカクテルを作りながら言った。「ドイル ブラムホール IIの『ウェルカム』だよ。クラプトンのツアーでも贔屓にされてる良いギタリストだよ」リバースは音楽や映画の事は滅茶詳しい。そっち方面のライターでも食っていけるってくらいの情報通だ。誰か良いミュージシャン教えてとかおもしろい映画教えてってリバースに尋ねたらまずハズレは無い。それくらい趣味が良い。「かっこいいな、これ」リバースがシェイカーからグラスにカクテルを注いでジントニックとジャック ローズをコースターの上に置いた。袋からナッツを皿に移して目の前に差し出した。「お待ち遠様」それからリバースがオーディオプレイヤーの前に立って中からそのCDを取り出してケースに収めた。そして、さり気なくあたしの前にそのCDを置いて言った。「貸してあげるよ」「えっ、いいのー。ありがとー、リバース」リバースはにこっと笑ってオーディオプレイヤーの前に戻りロン デイヴィスのCDを挿入した。あたしはナッツを3粒くらい頬張り噛み砕きジントニックで流し込みながら言った。「この前観た『ポリー マイ ラヴ』って映画でベン スティラーがバーのナッツは不潔だって言ってたわよ。何でもトイレに行って手を洗わない客がナッツのボウルに触るからだって」ラナが目を丸くして言った。「それってほんとなの?」リバースが勘弁してくれよって顔で言った。「俺の店はちゃんとナッツ皿も洗っているし客が食い残したナッツもちゃんと廃棄してるよ。でも、店によっては食い残しのナッツを使い回しているところもあるらしいから強ち嘘っぱちって訳でもないよな」あたしとラナはナッツをポリポリと噛み砕きながらリバースの話を興味深く聞いていた。「あたし、他のバーに行くの怖くなっちゃった」「あたしもー」リバースがにこりと笑って「いつもご贔屓にしてもらってありがとーございまーす」って言った。3人で音楽や映画のあれこれを話しながらリバースにレクチャーしてもらいキャッキャッ言っていたらグラスが空になった。「あたし、ターキーのシングルソーダ割り」ラナはちょっと迷った挙げ句「アプリコット&クランベリー」と言った。リバースがオーダーしたカクテルを作ってくれてコースターの上に置いてくれた。あたしはターキーのソーダ割りを一口飲んで言った。「ちょっと濃いいよー、リバース」「美女は酔わせてなんぼって言うだろ。それよりも最近、観た中じゃデヴィッド フィンチャーの『ゴーン ガール』は滅茶おもしろかったよ。所々、設定が荒いとこもあるけどね」「へえー、今度観てみるよ」ちらっと店内の時計に目をやると20時45分を回っていた。もう1杯飲んでからそろそろ帰ろっかなと想っていた時だった。携帯の着信が鳴った。見てみると発信元は母さんだった。帰りを心配しての催促の電話だろうなと思って電話に出た。あたしが言葉を発する前に母さんが狼狽して平静を失いながら言った。「スティーヴィーが、スティーヴィーが」受話口の向こうで泣いている。「ど、どうしたの、母さん、落ち着いて」鼻をすすりながら母さんが言った。「18時30分頃にロイスを迎えに行っていたスティーヴィーの車がガードレールの無い切り断った崖から50フィート下に転落して大破して炎上したらしいのよ。車内から性別と身元不明の焼死体が発見されたって警察からさっき連絡が。あんたの車のナンバーから身元を特定する為に警察から電話があったんだよ」母さんは堪えきれずに号泣した。あたしも動揺と狼狽を隠しきれずに泣きながら言った。「父さんは?」「父さんも今日は外回りで残業って電話が18時くらいにあって今、父さんに電話して帰って来てもらっているところよ。父さんが帰り次第、二人でロック クリーク分署に行く予定よ」「解った。あたしもタクシーに乗って分署に今から行くわ。向こうで会いましょ、母さん。それじゃ切るよ」ラナもリバースもあたしの狼狽ぶりを目の当たりにしてちょっと動揺していた。ラナが聞いていいものかどうかと思案しながら言葉を発した「大丈夫、ミランダ。何かあったの?」あたしは堪えきれずに号泣しながら言った。「スティーヴィーが事故って死んだって…」ラナがあたしを抱擁して言った。「な、何て言っていいのか…お悔やみ申すわ」リバースもあたしに気遣って「大丈夫かい、ミランダ」って言ってくれた。あたしはハンカチで涙を拭いながら財布から20ドル紙幣をカウンターの上に置いて「ごめんね、今から警察署に行かなきゃならないから。これ置いてくね、ほんとにごめんね」リバースが「そんなの気にしなくていいよ。早く行ってあげな、弟さんやご両親の側に」って行ってくれた。ラナがもう一度あたしを抱擁して「連絡してね。お父さんとお母さんにもお悔やみ伝えてちょうだい。元気出してね、ミランダ」と言って送り出してくれた。あたしはコートを羽織って小走りで外に出た。外は本降りになっていて時折、遠くの方で落命が響いていた。時間が早くまだ流しのタクシーは出ていなかった。3ブロック離れたタクシー乗り場まで走って行かなければならなかった。あたしは歩道を駆けた。冷たい夜の雨だった。冷たい雨が肌を刺す。でも、スティーヴィーの事を考えていたら居ても立ってもいられなかった。乗り場に着き先頭のタクシーに乗り込む。「ロック クリーク分署までお願いします」運転手のおじさんが泣きながら行先を告げたあたしを見てただ事ならない辞退と察知した。車の屋根を叩く雨滴の音が先程よりも強くなり横殴りの雨へとなっていた。「お嬢さん、何か大変な事があったのかい?」「弟が…弟が自己で死んだって言われて…」ルームミラー越しにあたしを見ていた運転手のおじさんの表情が変わった。それを聞いて運転手のおじさんは「そりゃ大変だ。すっ飛ばして行くからお嬢さん掴まってておくれよ」そう言って運転手のおじさんは分署の名を再確認するなりサイドブレーキを落としてアクセルを踏み込んだ。あたしは流れ行くウィンドウの景色を漠然と見つめながら今朝のスティーヴィーの顔を思い出していた。彼女とデートに行くってあんなに楽しそうにしていたスティーヴィー。運転手のおじさんは裏道や交通量の少ない道を選んで1秒でも早くあたしをスティーヴィーの元へ連れて行ってくれようと奔走してくれている。街燈の光がルームミラーに映り段々小さな光の礫にたいに遠ざかっていく。スティーヴィーがあたしの知らない場所へ遠ざかっていくように…タクシーに乗って45分。ロック クリーク分署に着いた。バッグから財布を出そうとしていたら運転手のおじさんが言ってくれた。「んなもんいいから早く弟さんの所に行ってあげな、お嬢さん」あたしは泣きながら「ありがとうございます」と言ってタクシーを降りて駆け足で分署の中に駆け込んだ。ずぶ濡れで息を切らしながら駆け込んできたあたしを見た玄関入口の窓口の警官が尋ねて来た。「どうなされましたか?」「弟が事故で亡くなったと母から連絡があって…ロック クリーク分署で遺体が安置されていると聞いて来たのですが…」そう言うと応対した警官が「ちょっと待ってください」と言って奥のデスクから内線で連絡した。小声で「夕方、発見された事故のジョン ドウ(身元不明)の遺族と名乗る女性が来ているのですが。あ、はい、解りました。お通しします」と言って受話器を置くと警官が戻って来て言った。「そこの階段から2階に上がって右折して突き当りの課が交通課です。そちらに行かれてください」「はい、ありがとうございます」あたしは小走りで階段を駆け上がり交通課の窓口に行った。窓口の前の背もたれの無いソファーに父さんと母さんが心痛な面持ちで掛けていた。「父さん、母さん」「ミランダ」父さんと母さんが立ち上がってあたしの方を見た。あたしは泣きじゃくりながら父さんの胸に顔を埋めた。父さんがあたしを抱きしめてくれた。横から母さんも泣きじゃくりながらあたしを抱きしめてくれた。悲しかった。もうスティーヴィーがこの世に存在しないなんて。考えられなかった。今朝はあんなに元気だったのに。現実を受け止めきれなかった。これが夢であってくれればと願った。でも、その願いは無情で徒労に終わると理解していたのに心の整理がつかなかった。それでも願わずにはいられなかった。背後から声がした。「スティーヴィー シンプソンさんのご家族の方ですね」あたし達は声がした方に一斉に視線を投げ掛けた。「ロック クリーク分署交通課のニコラス キャビン巡査です。車のナンバーから照合してミランダ シンプソンさんの登録になっていたのでご自宅に連絡したのですが」あたしはその顔を見て誰かに似ていると思ったが即座にそれが誰に似ているのか思い出せなかった。父さんが気丈に振る舞って尋ねた。「息子には会えるんでしょうか?」キャビン巡査があたし達の心労を気遣って申し訳なさそうに言った。「崖から転落した際に息子さんが運転していた車は大破して炎上しました。御遺体の損傷が激しいので見られない方がよろしいかと思われます。それと損傷が激しい為に身元確認が難航しています。普通ならば歯の治療痕から息子さんが通院していた歯科医に依頼して照合してもらって確認するのですが転落時にハンドルに強か顔面を強打したようで歯がボロボロに砕けてしまっています。御遺体が身に着けていた物で御確認していただきたい物があるのですが…」そう言ってキャビン巡査はジッパー付きのビニール袋に入った物をあたし達に見せた。それは熱で多少変形して煤で黒くなっているものの先月のスティーヴィーの誕生日にあたしがプレゼントしたディーゼルのブレスレットだった。「これは、あたしが弟にプレゼントしたブレスレットです」「間違いありませんか?」「はい」プレゼントの包みを開封して無邪気に喜んでいたスティーヴィーの笑顔が昨日の事のように思い出される。「一応、職務上お尋ねしなければならないのですが息子さんはドラッグやアルコールで問題を起こされた事などは?」「いいえ、ありません」父さんがきっぱりと断言した。「これも形式上ご理解していただきたいのですが薬物やアルコールの使用を確認する為に司法解剖に回されますのでご理解ください。運転中に息子さんが体調に不調をきたしたという可能性もありますので」「はい、解りました」「後、DNA検査で身元を照合しますので息子さんの櫛などから毛髪を提供していただきたいのですが。今からご自宅に鑑識の者を向かわせますので今日はこれでお引き取りください。実況見分から運転操作のミスかスピードの出し過ぎでの事故と断定出来ようかと思われますが後は司法解剖の結果待ちという事になろうかと思われます。車は明朝引き上げて見分にだしますので。では、今日はこれで。お力落としなされないように」そう言ってキャビン巡査はあたし達と別れた。「おい、今日の当直監察医はイアン ホッジスだったな。検死の依頼を頼んでおいてくれ」あたし達の背後でキャビン巡査の声が響き渡った。あたしは父さんの車の後部座席、母さんは助手席に乗り込んでロック クリーク分署を後にした。先程よりも雨脚は強まり寒さも増していた。あたし達家族にとって一生忘れる事の出来ない冷たい雨の夜だった。

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