コールド レイニー ナイト

Jack Torrance

第1話 何気ない日常

朝、テレビの天気予報を見ていた。美人な気象予報士のお姉さんが万人受けしそうな笑顔を振り撒きながら原稿を読んでいた。「今日は西から低気圧が上昇して夕刻には天気は下り坂になる模様です。それに伴い寒気も南下しますので冷たい雨となる模様です。今日は傘を携帯して服装も少し厚手の服を着用されてお出掛けされる事をお勧めします。今日は4月にしては気温が下がりますので寒の戻りになります。皆さん、今日は暖かくされてお過ごしください」弟のスティーヴィーが言って来た。「姉貴、今日、俺ロイスとデートするんだ。頼むから車貸してくれよ。お願い、今度ランチ奢るからさ」スティーヴィーは昨年ハイスクールを卒業して地元の大学に通って情報工学を学んでいる。車の免許も取得したばかりで今は中古のシボレー クーペを購入する為に早朝の新聞配達を自転車でしている。スティーヴィーの彼女のロイスって子は何回か会った事あるけど素直で良い子だった。お母さんを幼少期に亡くしてお父さんと二人暮らしらしいのだけれどもお父さんの曽祖父からの地主らしくて働かなくてもそんなに贅沢してなければ生活水準はうちよりも上らしい。そのロイスのお父さんってのが酒癖が悪いらしくて彼女にDVする事もあるそうだとスティーヴィーは心配していた。スティーヴィーは母方の身寄りに誰か助けてくれる人はいないのかとロイスに言ったらしいけどお母さんの身寄りは異父兄妹のお兄さん、ロイスにとって叔父さんになるんだけどお母さんとは異父兄弟って事もあり何度かしか合った事がないらしい。だからスティーヴィーはロイスの事を親身になって付き合ってた。「えー、やだよー。それじゃ、今日は雨になるって天気予報でも言ってるのにさ、あたしにバスで会社に行けってゆー訳?寒くもなるって言ってるのにさー。それに、この前、あんたに貸した後にバンパーが少しへこんでたんだからねー。あんた、黙ってたけど、あたしは知ってんだかんねー」そう、この前、スティーヴィーにあたしの愛車アルファロメオ ジュリエッタを貸してあげた時に弟はぶつけたのを黙ってあたしに返した。悪びれもせずにスティーヴィーが言った。「そんな事言わずにさ、頼むよ、姉貴。この通り。今日はロイスと映画に行く約束してんだよ。ちゃんとランチ奢るからさ」母さんがしゃしゃり出てきた。「ミランダ、貸してあげなさいよ。スティーヴィーだってロイスにいいとこ見せてあげたいのよ。お姉ちゃんなんだから。可愛い弟の為と思って貸してあげなさい」こんな時に父さんがいてくれたら助け船をあたしに出してくれるのに生憎父さんは早出でもう会社に行っていた。「んー、もう仕方ないなー。ちゃんとランチ奢ってよね」あたしは渋々アルファロメオのキーをスティーヴィーに渡して予定外のバス通勤に切り替わった。なので朝食もそこそこに切り上げて通勤の支度に取り掛かった。グレーのビジネススーツに着替えて寒くなるって言ってたからキャメルの厚手のスプリングコートを羽織って家を出た。空は少し雲があったけど、まだ晴れていて傘を持って出るのを忘れてしまった。家から徒歩8分の所にあるバスの停留所に向かう途中に保育園からの幼馴染みで親友のラナと一緒になった。ラナは車の免許を持っていない。あたしの働いているアパレル会社から徒歩10分の所にある郵便局の局員をしている。バスの停留所はあたしの家の方が近いがラナは土日以外の通勤をバスで通っている。先にあたしが前方を歩いているラナに気付いて背後から小走りで駆けて行って声を掛けた。ヒールよりもスニーカーにしとけばよかったと駆けながら想った。「ラナ、おはよう」ラナが振り返ってあたしを見た。「あれ、ミランダ、おはよう。車どうしたの?」「それがさー、ちょっと聞いてよ。スティーヴィーのヤローがさー、デートで映画に行くから車貸してくれって言うのよ。どう思う、ラナ?今日は雨になって寒くなるって言ってるのにさー」「そうね、ミランダ、物は考えようよ。あんた、最近、ちょっと太ってきたから運動がてらバス通勤ってのも悪くないんじゃないの?」「ちょっとやめてよー」あたしはラナの二の腕を右手の人差し指で突いた。二人で他愛も無い会話をしながら停留所に向かった。停留所に着き程なくするとバスが来た。乗り込んで二人掛けの席に並んで座り、また他愛も無い会話に花が咲く。「昨日の『プリズン ブレイク』観た?」「観た、観た。あれって嵌まっちゃうよね。あたしなんて録り溜めしてるのまた見直しちゃってるもんね。それより、ラナ、今日何時に終わんの?」「17時半だよ」「そうなんだ。今日、仕事終わった後で飲まない?今日は車じゃないしー」「うん、いいよ。で、何処で飲むの?」「14番通りのサンタフェってのはどう?」「あー、あそこのタコスって美味しいよね」「それにね、会社の先輩が最近かっこいいウエイターのお兄さんが入ったって言ってたんだ」「ふーん、そうなんだ。じゃ、サンタフェで時間は何時にする?」「18時でどう?」「オッケー」そうこう話していると会社の最寄りの停留所に着いた。バスを下車してラナが言った。「じゃー、また夕方ね、ミランダ」「うん、それじゃー、またね、ラナ」ラナと別れて会社に向かった。タイムカードを押して何気ないいつもの朝だった。予定外のバス通勤を除いては。でも、そのお陰で今夜はこれまた予定外のラナとの飲み会。ロッカーにコートを掛けて朝礼。上司の件(くだん)の在り来たりの然程有り難みのないお言葉。アパレル会社って言っても、あたしは経理部なのでデザインとか企画開発とかの花形部署では無いので毎日、地味にPCをポチってる。地味に表計算して気の遠くなるような数字をポチポチして午前中の業務は滞りなく終了。経理部のカーラ先輩と近所にあるデリカテッセンにお昼御飯を調達しに行くのが恒例の日課となっている。外に出ると雲間からまだ陽光が射していたが日の温もりはあまり感じられなかった。ほんとに夕方から雨降んのかなー。あたしはフレンチトーストと卵とハムのサンドイッチをトレーに取ってレジに並ぶ。カーラ先輩はカップに入ったコーンとレタスと玉葱とツナのサラダだけだ。「ミランダ、あんた、糖質摂り過ぎなんじゃないの」「えー、そうですかー?これって普通ですよー。カーラ先輩の方こそあんまり食べないから鶏みたいに痩せ過ぎなんですよー」これは、あたしの悪あがきだ。カーラ先輩はモデルみたいにスレンダーで超奇麗だ。二人で会社に戻って休憩所でコーヒーをカップに注いで昼食。カーラ先輩がコーヒーを一口啜って言った。「ミランダ、ところで最近どーよ?」「どーよ?って何がどー何ですか?」「だ か らー、あんた彼氏は出来たのかって事よ」「やだなー、出来る筈無いじゃないですかー、出会いも無いのにー」あたしは隣に座っているカーラ先輩の肘を肘で小突いた。「今日、友達とサンタフェで飲む約束してるんですよ。カーラ先輩、あそこのウエイターの人かっこいいって言ってたじゃないですかー」カーラ先輩が食い気味に、そして興味津々といった感じで言った。「そうそう、あのウエイターのお兄さん超かっこいいのよ。なんかオーランド ブルームみたいって感じなのよ」「カーラ先輩の彼氏もかっこいいじゃないですか。ジェイソン ステイサムみたいで超ワイルドじゃないですか。それに薄毛ってのも同じだしー。やっぱ薄毛の人って絶倫なんですかー」カーラ先輩が呆れた顔でサラダを咀嚼して言った。「もー、あんたって子はー。ウエイターのお兄さん名札にウェイン クルーガーって書いてたわよ」「会えるのを楽しみにしてまーす」カーラ先輩と楽しい会話を弾ませていたら昼休み終了。楽しい時間は瞬く間に過ぎて行く。腹を満たし心地良い眠気へ誘う悪夢の午後の業務へいざ出動。普段なら長く感じる時間も今日はラナとの飲み会が控えているので短く感じるのは気のせいかなー。PCと脳をサクサク動作させて17時半業務終了。あたしにとっての奴隷解放宣言。ロッカーでキャメルのスプリングコートを羽織って帰り支度をしているとカーラ先輩がマーガレット ハウエルのネイビーのスプリングコートを羽織って颯爽と帰り支度をしている。「カーラ先輩は今日の予定は?」「今からジムで一汗流して帰るわ。ミランダ、あんたも楽しんで来なさいよ」キャアーーー、かっこいい、何処までもこの人はストイックなんだろう。あたしは外に出た。さ、寒い。昼よりも体感温度が5度くらい下がってる。すみれ色の空にどんよりとした灰色の雲が垂れ込めていた。やっぱ雨降りそうだな。天気予報侮るべからず。あたしは母さんに電話した。「母さん、あたし。今日ね朝にラナと晩御飯食べて帰る約束したから夕食要らないからね」「あら、そうなの。母さん、もう準備してたのに。もうちょっと早く電話くれたらいいのに。気を付けて帰って来るんだよ」母さんはちょっとプンプンしてた。「ごめんね、母さん。それじゃーね」電話を切って母さんに申し訳ないという念に捕らわれながらとぼとぼとサンタフェに向かって歩き出す。時折吹き付ける風が身を切る。サンタフェに着いて中に入るとまだラナは来てなかった。前から務めている然程イケてないのに二枚目気取ってるいけ好かないウエイターが接客してきた。内心で今日はあんたはお呼びでないよと鼻で遇う。彼は真面目に働いていて言葉遣いも丁寧だ。この感情は偏にあたしの生理的に受け付けないという感情と偏見が齎した結論であり何ら彼に罪は無い。店内を一望するがオーランド ブルーム似のかっこいいお兄さんは見当たらず。「友達と18時に待ち合わせてるんですけどー、ちょっと待たせてもらっていいですかー?」「はい、お好きな席でお待ちしていただいて結構です。ご友人の方がいらしてメニューがお決まりになられましたらお呼びください」あたしは入り口は寒いと思ったので暖房が効いている奥のボックス席に座ってコートを脱いで横の座席に置いた。17時50分を少し過ぎたくらいにラナがやって来た。「お待たせ、ミランダ」「おっ、現れたなー。待ちくたびれてお腹ペコペコだよー」ラナもコートを脱いで横の座席に置くとあたしの対面に座った。二人でメニューを見てオーダーが決まったのでウエイターを呼んだ。さっきのウエイターの人がやって来た。「先ずロス ムエルトスを2杯」ウエイタが尋ねた。「ライムかレモンの果汁を加えられますか?」「あたしはライムで」と言った。「あたしも」ラナも同調した。「後は牛肉の挽肉のタコスを2つとシュリンプとアボガドのタコスを2つ。それにシーザーサラダも2つとフライドポテトとチキンナゲットでお願いします」「かしこまりました。お飲み物は先にお持ちしてもよろしいでしょうか?」「はい、お願いします」隣のボックス席に座っているカップルの彼氏が吸っている煙草の煙が不快だったがあたしはラナに笑顔で話し掛けた。「もう、雨降り出しそうだねー。あたし、傘持って来るの忘れちゃったよ」「あんたらしいわね、ミランダ」「そうゆーラナは持って来てんの?」「あたしは、ちゃーんとバッグに折りたたみ傘入れてるもんねー」あたしは想った。抜け目の無い女だと。ラナは昔から計画的で人生の設計図をキャンパスに描いているんだ。それに比べてあたしは、トホホ…砕けそうになったハートを瞬間接着剤で貼り合わせて再びこの楽しい一時にカムバック。あたしってメンタル強(つよ)。ビールが来たので先ずは乾杯。「お疲れー、ラナ」「お疲れー、ミランダ」ロス ムエルトスのフルーティーなのどごしが仕事の疲れを吹き飛ばし空腹な胃袋を刺激する。これなら何杯でも飲めちゃいそう。二人でビールを飲みながらラナが店内をキョロキョロと見回す。「ミランダ、あんたが言ってたかっこいいウエイターの人って何処にいんのよ」「あたしも探してたんだけどいないのよ。先輩がオーランド ブルームに似てるって言ってたんだけどなー。今日は休みなのかなー」少しずつオーダーしたメニューがテーブルに運ばれて来る。「ラナ、どっかにいい男いないの?」「いたらあたしが紹介してもらいたいわよ、ミランダ」ラナは3ヶ月前に彼氏と別れたばかりだ。何でもラナが言うには前の彼氏は理想主義者で空想や空論を押し並べては夢やロマンがあれば人間は前進し続ける持続可能な生き物なんだと御託を並べていたそうである。現実主義者のラナからしてみれば楽観主義で愚かな人間に映ったというのが破局の原因らしい。「男ってほとほと手が焼けていつまで経ってもお子ちゃまよね。幼稚で成長力に乏しいってゆーかー」ラナは同い年だが大人だ。それに比べてあたしは、トホホ…×2 しかし、あたしのメンタルは再生可能エネルギーのように次から次に再生していく。メンタル復活!そんなこんなの話をしてたらお目当てのタコスがやって来た。二人してパクつくと自然と笑みが零れる。「おいひー!」中に包まれている具材の味も他の店と比にならないほど美味しいのだがサンタフェのタコスはトルティーヤが滅茶美味しい。料理の批評家じゃないので何て表現していいのか解んないんだけど唯ひたすら美味しいとしか言えないボキャブラリーの低いあたしに乾杯。二人して1杯目のロス ムエルトスを空にしておかわりを頼むべくウエイターを呼んだ。その時だった。キラーン。い、いた。オーランド ブルーム似のかっこいいお兄さんが。名札にもウェイン クルーガーって書いてある。あたしの眼からハートマークに羽が生えて飛んでいく。キラーン、キラーン、キラーン。これが俗に言う一目惚れって奴ね。あたしは2杯目のロス ムエルトスをライム果汁入りで頼んでお兄さんに尋ねた。「ちょっと聞いていいですかー?あのー、彼女さんとかいらっしゃるんでしょうか?」かっこいいお兄さんは困ったなあといった表情を浮かべながら言った。「実は僕、学生で学生結婚している奥さんがいるんです。ごめんなさい」ガーン。5秒で秒殺。いいや、略奪愛ってパターンもある。でも、あたしってそこまで悪女に徹しきれない。ここは潔く身を引こう。彼氏いない歴1年2ヶ月継続中。スティーヴィーのヤローは今頃、彼女と楽しくデートしてるんだろうなー。あたしの呆気なく終わった恋のときめきを見て取ったラナが同情しながら言った。「男ってのは数多の星くらいいるわよ」2杯目のロス ムエルトスをものの数分で飲み干して3杯目を頼んだ。ラナと仕事へのモチベーションとか将来の展望とか結婚願望とかについて話していたら時計の針は20時前を差していた。あたしはラナに聞いた。「どうする、ラナ?レッド ハウスでもうちょっと飲んでく?」ラナが店内の時計をちらっと観て「そうだね、久しぶりにミランダと飲んでるんだからもう一軒行こっか」「そうこなくっちゃ」コートを羽織ってオーダーの伝票を手に取った時だった。かっこいいウエイターのお兄さんが素敵スマイルで言ってくれた。「またのお越しをお待ちしています」キラーン再燃。「はい、また来ます。お仕事頑張ってください」近いうちにカーラ先輩を誘って来ようと思った。レジで伝票を渡すと「94ドルです」と言われた。ラナと割り勘して店を出た。外は霧雨が降っていた。まだ本降りではなかった。ラナの傘に入れてもらい1ブロック先のレッド ハウスにあたし達は向かった。

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