飼い猫と野良猫-6-

 その夜、月は無かった。分厚い雲が、星も、月も、その全てを遮ったのである。夜空を見上げようにも、暗闇に慣れた目には、百足のように不気味に蠢く雲の輪郭が映るのみであった。あの分厚い雲の向こう側に、変わらず星や月があるのだと思うと、より一層自身の無力さが突きつけられるようで、ああ、翼があればあの分厚い雲を抜け、いつだって星や、月に会うことが出来るのにと、黒い野良猫は思うのである。


 黒い野良猫は食べ物を探しに出かけ、そして見つけた後、手に入れた食パンが入った袋を口に咥え、あの土管へと向かっていた。今日は雨が降りそうな様子であるから、公園内にあった森を離れ、再び土管に戻って来たのである。黒い野良猫は、白い野良猫が独り身を小さくし土管の中で待っている姿を思い浮かべ、また雨が降る前に戻ろうと、少し駆け足になって夜を渡った。


 夜に陽だまりは無かった。あるのは人間が造った外灯の、無機質な明かりのみで、仮にそこにも愛があるのだと言うのなら、俺にとってはそれくらいがちょうどいいのかもしれないと、黒い野良猫はそんなことを思いながら、街の、外灯の明かりを横切って行く。それから、すぐに外灯の明かりも届かぬビルとビルの隙間を抜け、倒れたゴミ箱やら、放置された自転車、エアコンの室外機などを飛び越えて、白い野良猫が待つ土管へと急いだ。


 土管に辿り着くのと、雨がポツポツと音を立て始めたのは同時で、どこか弱々しく、物寂しい雨が夜の地を濡らし始めるのであった。


「今帰った。雨が降り始めたようだ」


 そう言いながら、黒い野良猫は土管へ入る。しかし、返事は一向に帰って来ることもなく、土管の中に白い野良猫の姿はどこにもなかった。


 違う土管へ移ったのだろうかと、黒い野良猫が一度外に出て、隣の土管、そして上に積まれた土管の中の様子を見たが、どこにも白い野良猫の姿はない。


 それから、もう一度土管の中に入った黒い野良猫は、その土管の中で鈍く光るものを見つけ近づく。そして、その鈍く光るものの正体が何であるか知った途端、黒い野良猫は口に咥えていた袋を落とし、小さく鳴くのであった。


「これは白い野良猫の首輪だ」


 そこには、引きちぎられた白い野良猫の首輪が捨てられていた。もうこれはいらぬと、引きちぎられ、単なる薄汚れた紐となったそれは、暗い土管の中で静かに捨てられていたのである。


 ああ、今日も雨だと言う。雨の中、月も見えることが出来ないものであるから、どこか遠くへ行ってしまおうと、片腕を置いていったのだ。あれほどまでに大切にしていたこの首輪を、自ら引きちぎり捨てて行く胸中とは、一体どのようなものであるのだろう。やはり彼女は野良猫になるべきではなかったのだ。俺は、何と酷いことをしたのだろう。


 黒い野良猫は、このまま白い野良猫を探すことなく、別れた方が良いのではないのかと、ジッと捨てられた首輪を見つめる。首輪が声を上げるはずもないのに、黒い野良猫の耳には確かに「さようなら」と別れを告げる声が聞こえていた。やはり、飼い猫と野良猫が分かり合えるはずもなかったのだ。見ている景色が違ったのである。昼と夜は、決して交わらないのである。夜に陽だまりは出来ぬ。昼に月は見られぬ。黒い野良猫も、分かっていたはずであった。自身は野良猫であり、今までも、これからも、きっと野良猫として過ごし、独りで鳴いて行くことしか出来ぬことを。ただ、白い飼い猫を初めて見た時、ああ、雨に打たれ酷く汚れた川の水面にも、月は映り込むのだと、そう思ったのである。決して水面の月に触れることが出来なくとも、ずっと、傍で見ていたいと強く思ったのであった。


 もう、あの白い野良猫の美しさを目にすることは出来ない。もう、あの白い野良猫のために食べ物を獲りに行き、分け与えることは出来ない。もう、あの白い野良猫と話をすることも、共に月を見て鳴くことも出来ない。


 ああ、なんと悲しいことだろう。別れと言うのは、これほどまでに胸の内を満たす泉をかき乱す。いつの日か、ずっと、ずっと遠い日にも同じような心地になったことがあるような気がするのだ。あの時と同じことを、俺は繰り返すと言うのだろうか。


 白い飼い猫と、黒い野良猫は別れなければならない。そのことを、黒い野良猫は今悟った。彼女の居場所は、もう、この薄汚れた世界ではないということを、黒い野良猫は知ったのだ。


 ならば、白い野良猫を、飼い猫へと返す必要があるだろう。黒い野良猫は、足が速いことに誇りを持っていた。ならば、この薄汚れた世界を渡って来た、その誇りを持ってやらなければならないだろうと、黒い野良猫は捨てられた首輪を口に咥え、雨が降る夜の世界を駆ける。


 白い野良猫が一体どこへ行ってしまったのか全く以て見当はついていない黒い野良猫であったが、今探し出さなければならないと、それだけは強く思い、ただひたすらに、全力で走るのだ。


 その表情は、これまでにないほど力の籠った顔つきで、そんな黒い野良猫の様子を、目にしたものが、空から降りてくるのである。


「やあ、これは黒い野良猫。久しぶりに会う気がするよ。それで、どうしたんだい? こんな雨の降る夜にそんな険しい表情をして、どこへ向かうというんだい?」


 黒い野良猫の目の前に降り立ったのは、あのカラスであった。


「邪魔だ。今はお前の話を聞いていられるほど暇じゃあないんだ」

「久しぶりに会えたというのに、随分と冷たいものだね。君がまだ生きていることに、僕は喜びを感じているというのに」


 黒い野良猫は、カラスの相手などせずに、すぐにでも駆けだしたいところであったが、おしゃべりなカラスは「その口に咥えているものは何だい?」と尋ねて来る。そこで、黒い野良猫は一つ、案を思い付いたのだった。


「カラス。お前は空を飛ぶことが出来るだろう。俺は、そんなお前を羨ましく思う」

「どうしたんだい急に? 照れてしまうね。そう言う君は、この地をとても速く駆け抜けることが出来るじゃあないか。僕は、君のその足の速さに憧れているよ」

「それは光栄だ。なら、一つ頼まれてほしい。一匹の猫を探してほしいんだ」

「猫? その猫というのは、君にとってどういう存在なんだい?」


 そんな、何気ないカラスの問いかけに、少しの間黒い野良猫は頭を悩ますのである。あの白い野良猫は、自身にとってどういう存在なのかを。その答えはすぐに浮かび上がる。きっと、こういうことなのだろうと、黒い野良猫はようやく分かったのであった。


 その、浮かび上がった答えをカラスに伝えると、カラスは一度嬉しそうに「カアァ」と鳴き、「いいよ。君にとってそれほど大切な存在なのだというのなら、僕もその猫を探すのを手伝おう。一度、食べ物を分けてもらった仲であるし、昔からの馴染みだ。僕も協力するよ」と、羽をバタバタと羽ばたかせながら答えるのである。


「ありがとう」

「礼には及ばないさ」


 それから、黒い野良猫は雨よりも早く地面を駆けて行くのであった。カラスは、そんな黒い野良猫に、「その猫というのは、あの猫のことなのかい?」と尋ねたが、すでに黒い野良猫は夜に溶け込んでいた。


「行ってしまったね。君が誰かを探すために走るんだなんで、本当に何年ぶりのことだろう。さあ、僕も飛ぼう。他でもない、彼の頼みなのだから」


 カラスは雨が降る夜の空を見上げる。そうして、羽を大きく広げ、自慢の黒い翼を羽ばたかせ、夜の空を飛ぶ。


 あの黒い野良猫は幸せを掴もうとしているのだ。だというのなら、同じこの世界で生きるもの同士、少しくらいは力になろうと、一つ鳴き声を上げ、高く、飛び上がってゆくのであった。

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